空想トラベラー
「悪いことをしようか」
彼女はそう言って真直ぐ僕の目を見た。
「悪いこと?」
「そう、悪いこと。」
「例えば何を?」
「終電で帰るとか」
「帰るんだ」
「帰るよ、困るもん」
「まあそうだけど」
「これは終電なの。」
時刻は10時半。
終電には程遠い。
「そう、私はまだ未成年で、クラスの男の子とどこか遠くへ行こうって電車に乗るの。」
「どこへ」
「どこか遠くへよ。」
ふうん、と気のなさそうな返事をした。
「それでね、怒られるのを分かって、終電で帰るのよ。」
「まだ全然終電じゃないけど」
「いいの、終電なの、これは」
「終電逃そうとは思わないんだ。」
「思わないわ、だって子どもだもの。」
もう20はとうに過ぎた。
「誰にも見つからないように夜遊びをして、こっそりお酒を飲むの。」
僕達はもう、誰にも怒られなくなった。
「それで、明日の一限もサボっちゃうの。」
彼女はさっき、明日の課題を確認してた。
「ねえ、」
「なに?」
彼女は急に静かになった。
「やめちゃおうか、全部」
言ったのは僕だった。
「全部やめて、逃げちゃおうか、僕ら。」
目に涙をいっぱいためて、彼女はこちらを見た。
「やっていけるよ、多分」
根拠の無い自信。
こんなもので救えはしない。
抱えきれない重圧と、誰にも見せられない涙を、分かってあげられるなんて思わない。
「…そうだね。」
本当に逃げようなんて、僕らは考えてない。
そんな度胸も力もない。
僕らが直面しているのは、頭のいい人が考えてる何とかの定理とか、何とか理論とかよりもずっともっと不安定で、不確実で、不可解なものだ。
『次は、○○、○○、お出口は、右側です』
いつの間にか僕らの現実はすぐそこまで迫っていた。
どんなに長い旅も、近場の旅行も、ただの空想だって、旅には終わりが訪れる。
だけど僕ら、またこうやってさ、どこかに行けたらいい。
空想だってなんだって、はみ出してみたらいい。
それが今の僕らにできる精一杯の「悪いこと」だ。
「明日の一限、さぼるひとー」
「はーい」
「はいうそつきー」
自動販売機のあかりと、小さな街灯だけが、僕らのことを見ていた。