『正義の行方』を観たり聴いたり読んだりした
ライターの朝山実さんの「インタビュー田原町」シリーズを毎回楽しませてもらっている。銀座線・田原町駅の近くにある書店「Readin' Writin' BOOKSTORE」を会場に、朝山さんがノンフィクションの書き手に公開インタビューする企画。月1回ペースで各2時間(休憩あり)。生配信やnote記事もあるので、現地に行ったり、配信を見たり、記事だけ読んだり、自分の都合や興味に合わせて濃淡つけつつ追っていける。
取材する人のことを取材する、その様子をじかに見られるって、ライターには勉強になるところ共感するところ勇気づけられるところ打ちのめされるところなど満載で、本当に貴重なコンテンツだ。文字通りに貴くて重たいコンテンツ。
これまでを見てきて分かったことだけど、ノンフィクションを書く人はシンプルに皆さん、すごく勉強している。取材対象が200本も映画に出ている人であったり400冊も著書がある人であったりするとき、「全部は無理ですけど」と言いながら、事前にその大半をチェックしている。取材したい組織(施設)の現地へ行って、毎日ではないにせよ年単位で働いてしまったという人もいるし、10年かけて取材対象と関係を築いてからインタビュー(撮影)し、その成果物が世に出た後もフォローを含めて付き合っていくという人もいる。
それと、強い。取材しようとしてけんもほろろに断られたり、あっちにもこっちにも断られたりすると、心がくじけそうなものだけど、皆さん9人断られても10人目にいく。わたしなら2人続けて断られたら、自分のしようとしていることがバカで迷惑なことなのかと思って、やめてしまうかもしれない。だから到底、真似できないけど、その気概というか、丹田にしっかり力が入っている感じだけでもなんとか見習いたいものだと思う。そこが一番難しいんだけど。
映画『正義の行方』
先日の第10弾は、ドキュメンタリー映画『正義の行方』を監督し、同名の書籍を上梓した木寺一孝さんへのインタビューだった。現地にこの公開インタビューを見に行くことにしたので、まずは映画をユーロスペースで観た。
面白かった。飯塚事件*を題材に、関わった警察官、弁護士、新聞記者、犯人として死刑に処された男性の妻などから話を聞いている。ある事実について真っ向から対立する言い分が連続して映し出されたりして非常にスリリングだし、語る人物それぞれに個性があり立場があり信じる正義があって、人間ドラマとして見ごたえがある。
----- *飯塚事件 -----
1992年に福岡県飯塚市で女児2人が登校中に行方不明になり、翌日になって2人とも山中から遺体で発見された事件。2年後に同じ町内に住む50代男性が逮捕・起訴され、その8年後に死刑判決が確定し、それからわずか2年後に死刑が執行された。男性は一貫して無実を訴えており、主な証拠も当時導入されたばかりのまだ精度が不十分なDNA鑑定だったことなどから、冤罪の可能性を指摘する向きもある。今なお再審請求中。ただし、日本で死刑執行後に再審が開始された例はない。
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いろんな人が語れば語るほど、どちらが正しいのか、つまり元死刑囚はクロだったのかシロだったのか、分からなくなる。「普通はこうだから、この場合もきっとこう」というような類推が、まるで無意味だということに気づかされる。
例えば、元死刑囚が当時無職だったと聞けば、生産年齢ながら働いていない男性の心身の状態について何かと勘ぐってしまうけど、妻が“自分はほとんど子育てしていない”“夫は子煩悩だった”と言うと見え方が変わってくる。
例えば、一瞬だけ見かけた車のことを詳しく証言している人がいれば、そんなことは普通ありえないので証言の捏造を疑ってしまうが、たまたまその人が記憶力に優れていて、かつ、車に造詣が深かったというような偶然が、本当にあったりするのだ。
こういうのをいくつも見せられると、事実はちょうどその事実分しか事実を語らないものなんだということを痛感する。わたしはいつも、事実から夕方のように長く伸びた影を見てしまう。
懊悩する元エース記者もそうだったのかもしれない。古尾谷雅人みたいな山下真司みたいなハンサムな人だった。「記者は常にいろんな人の正義を相対化する視点でもって取材をし記事を書かなくてはいけない」ということを述べた後に、その聡明な大人は「もし一つだけ願いが叶うなら、あの日のことをどこか空からでもカメラで撮ったものを、巻き戻して見せてほしい」と言っていた。いたわしかった。
一番いたわしいのは彼ではない。映画は、遺体発見現場に置かれた二体のお地蔵さんのシーンで終わる。“誘拐殺人事件を舞台にした人間ドラマ”として、この映画はあまりに面白くて、面白ければ面白いほど気まずいような思いもあったので、お地蔵さんが映ったのをいいことに、映画館の前列の背もたれの裏で低く、中途半端に手を合わせた。
書籍『正義の行方』著者インタビュー
映画を観て2日後がインタビューだった。会場のReadin' Writin' BOOKSTOREの2階に上がって、いつも通り靴を脱いで畳に座って、吹き抜けの階下で繰り広げられるインタビューを見物する。
1階のイスと2階のベンチと畳で25人ぐらい入れるそうで、この日は満席に近かったと思う。25人はイベントの規模として大きくないけど、そのわりに聴衆の間に結束がない感じが、このシリーズのいいところだ。いちげんさんでも誰何の視線を浴びずに気楽に座って聴けそう。
余談だけど、わたしは映画の試写会や映画祭などで、会場に入って知り合いを見つけて話し込む人が嫌いだ。そういう人たちはすぐに周りが見えなくなる。平気で他人の頭ごしに話を弾ませたりするし、例えばロビーの柱にもたれて開場を待っている人を柱といっしょくたに柱扱いする。その人の目の前まで“俺たちサークル”を拡げる。その人というか、まあ、わたしだ。息苦しい。そんなにうれしいですか、何年ぶりに会った人ですか、そもそも親しい人ですか、気持ち悪いな、と思って若干呪う。
インタビューは時間通りに始まって、最初のほうで、どういう話の流れだったか、木寺さんと朝山さんが自分には友だちがいないと言い合っていた。ライターはともかく、映像作品のディレクターは人の輪の中心にいるタイプだと思っていたので意外だった。でも、これが実は大事な証言(?)だった気がする。
わたしが一番びっくりしたのは、木寺さんが「(取材相手の前で)嘘はつかない」「嘘がないようにしたい」と言っていたことだ。木寺さんが質問したり、相手の答えに相づちを打ったりする声は映画でも聞こえていて、わたしはその半分ぐらいは嘘の反応だと思っていた。内心は「嘘をつけ!」と思いながら穏やかに「そうなんですね」と言ってのける、そういうタイプの嘘というか芝居をやっているはずだと思い込んでいたのだ。それが全然そうではないという。
なんでそんなに真実どっちつかずの場所に立っていられるのか、と不思議に思いながら、朝山さんが書籍や映画を、あるいは木寺さんを掘り下げていくのを見ていて、この木寺さんという人は生まれついてのインタビュアーなのかもしれないなと思った。
相手がどんな顔をして、どんな口調で、どんなふうに体を使って(例えば震えたりゆすったり)、どんなことを言うか、それを見たい聞きたいばっかりの人なのではないか。相手を好ましく感じるとか、その逆とか、そういうことは心底どうでもよくって。人間を見つけたら、それがどんな人間であるか知りたくなる癖(へき)があるけど、それは癖であって、愛や正義には関係なさげ。こういう珍しい人がこういう映画を撮れるわけなんだなと、勝手にすごく納得した。友だちはまあ、いないだろうし、欲しくならないだろう。
インタビューを聴いて印象が変わったのはもうひとつ、いわゆるシロかクロかのところ。わたしはもう自分で飯塚事件のシロクロを考えることを放棄している(そもそも映画がシロクロを考える用に作られていない)のだが、人がシロと思っていそうかクロと思っていそうか、それはつい邪推してしまう。
映画を観たとき、この映画を撮った人はシロ寄りの見解なのだろうと感じたけど、インタビューを見るとほんのわずかクロ寄りだったのかなという印象に変わる。フラットであることにこだわる木寺さんが撮った映画が、どちらかといえばシロ寄りっぽく見えたからだ。自分の心がちょうどど真ん中にはないのを自覚しているから、逆側へ少しだけ寄せたのではないかという気がする。邪推。
会場には映画の配給会社の人も来ていて、この映画の配給を決めたとき、社内は全員一致だったと言っていた。シンプルに面白い映画だからとか、他にもいろいろ理由を言っていたと思うけど、中で一つ、「見せ方も洗練されている」というふうなことを言っていて、それそれとわたしも思った。社会的な意義があるから、めったに取れない人からインタビューが取れているから、内容がいいから、見せ方は不器用でいいという考え方をしていない映画だ。
待てよ。わたしはドキュメンタリー映画をめったに観ないけど、これの前に観た『ミルクの中のイワナ』もやっぱりスタイリッシュだった。内容にあぐらをかいて見た目がダサいドキュメンタリー映画なんて、わたしの偏見の中にしかないのだろうか。いやしかし東風さんが“見せ方の洗練”に言及するなら、それが今のところドキュメンタリー映画のスタンダードにまではなっていないんだろう。徐々に変わってきてはいたとしても。
書籍『正義の行方』
インタビューから4、5日して本を読み終えた。インタビューで木寺さんが横山秀夫神推しだという話をしていたからか、西日本新聞の調査報道の辺りは、横山小説を読むようだ。かっこいいとかいう話じゃないけど、検証取材を引き受けた二人の記者の仕事ぶりは秀逸で、言っていることに変なところが一片もなくて、ここで少し整理がつくのがありがたい。
(ただ、細かいところで悪いけど、横山推しなら、なぜ「僕」を「ボク」にするのだろうと思った。腕利きの社会部記者も「ボク」、警察庁長官も「ボク」。ちょっと違和感がある。横山の『クライマーズ・ハイ』では“ぼくちゃん”な感じの若手記者でも「僕」である。)
誰かがおかしなことを言っていると、映画以上に飲み込みにくくなるのも、書籍版の特徴だと思った。人好きのする朗らかな表情やよく通る声、牧歌的な背景、そういうものに包まれない、むき出しの言葉だけの印象になるから、それはそうなる。「ジキルとハイド」とか「あれから類似事件がない」とか「科警研にそんなことする理由がない」とか。よう言うわ。
類似事件がないなら犯人はその土地にもういない。そう想像するのは理解できるけど、元死刑囚が真に犯人だった場合のほかに、可能性はいくらでもある。真犯人が別にいて県外に出た、海外へ逃げた、重い病気になった、死んだ。分かっているのだろうに、勢いよく変なことを言う。
それでも、書籍を読んで、元死刑囚はシロだと言えるほどのものも、やっぱり見えてはこない。分からない。分からないなら「疑わしきは被告人の利益に」の原則があったはずなのにと思うだけだ。
それと、1992年に7歳だった女の子たち、と数字を目で見て、'84年生まれか'85年生まれだと思ったりした。
テレビの世界では「85年組」というのがあって、それは中山美穂、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯、本田美奈子など'85年にデビューした女性アイドルがよく売れたからその意味と、モーニング娘。で後藤真希、藤本美貴、石川梨華、吉澤ひとみなど'85年生まれのメンバーが特に人気を博したのでその意味がある。
“泣かせ”をやらない映画だったし本だったし、なので、わたしも自分で泣きにはいくまいと思うけど、でも、7歳から先の人生があったら、歌ったり踊ったりしたのか、と思ってしまう。あの朝、登校する足取りが重かったという、それはなんでだったのか、気になってしまう。そして、どんなにあの日、怖かったんだろうと。
本を閉じると表紙に古処山の濃い緑があって、何もかもが吸い込まれていくような感じがする。この緑が少しでも鎮魂に作用していてほしい。第二次再審請求審の“行方”は年内に明らかになりそうなので、見守る。
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