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見返りを求めない行為は、過去に誰かから受け取った恩を別の人に返す形なら照れくさくない

柴田(@4bata)です。これでもう「善行(?)」を恥ずかしげもなくできる気がします!

考えたきっかけ:noteのサポート機能で2200円もらったので、100円×22人にサポートしてみた

オープンでフラットな組織が突然閉鎖的と言われるとき」の記事がたくさんの人に読まれた。サポート機能で総額2200円もらった。もらった分だけ自分もサポートしてみた。100円×22人。

最近あまり連絡取ってない人に「ご無沙汰です〜」と100円送った。フォローして記事は読んでいたけど、直接メッセージを伝えたことがない人に、自分が興味をもった記事についてのメッセージを添えて100円送った。すぐに22人に達した。「サポートしてもらった分だけ、自分もサポートする」という言い訳があるとやりやすかった。このあたりに何かのヒントがありそうだ。

新入社員にご飯を奢るとき、「自分も先輩に奢ってもらった。だからみんなも後輩ができたら、奢ってあげてね」というと照れくさくない

これは経験上知っていた。似た構造だ。

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思い出したのが「ペイフォワード(映画)」。

彼の提案した考えは、「ペイ・フォワード」。自分が受けた善意や思いやりを、その相手に返すのではなく、別の3人に渡すというものだ。(wikipediaより)

個人的な感覚では、自分が受け取ったものを3倍(?)にするのは頑張りすぎだし、私が求めてるものとは違う。1対1交換でよい。ただ、「自分が受けたものをその相手に返すのではなく、別の人に渡す方が継続する」という考え方は同じだ。

「お客は店員から、前の客がコーヒー代を払ってくれたと告げられ、次の人の分を払う気はあるかと聞かれる。こんなものは気前のいい行為ではない。罪だ」

単純化するために、全員同じ価格のコーヒーを頼んだとしよう。自分でコーヒーを買う場合と負担額は同じなのに、次の人のコーヒー代を負担することで何か違う要素が加わっている。これは面白い。

自分がリターンを得ることが動機ではなく、誰かから受け取ったものを別の人に贈ることが動機であることが伝われば、照れくさくない

世界は贈与で出来ている」という本にたどりつく。贈与と偽善の違いが書いてある。この本は面白いので、内容をきちんと理解したい人は買うべき!

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リターンを求めている行為だと誰かから思われる可能性があるだけで、「見返りを求めない行為」をためらってしまう気がする。なぜ「リターンを求めていそう」と思われるのか?それは、世の中の行為がお金を中心とした「等価交換」で説明されることが多いからだ。

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ボランティアをすることで人からよく思われたい、褒められたい、誰かに貢献することで自分が満足したい、という目的が透けて見える行為を、人は偽善と感じるのです。(「世界は贈与で出来ている」第1章)
なぜ偽善かというと、それは等価交換を贈与だと言い張るからです。(「世界は贈与で出来ている」第1章)
自己利益を見込んでの行為なのにもかかわらず本人の主観的には純粋な善意による一方的な贈与であると装うことを、僕らは偽善と呼ぶのです(そして、僕らはその違いを鋭敏に察知し、その相手が信頼できるか否かを瞬時に判定します)。(「世界は贈与で出来ている」第1章)

等価交換や見返りなんて考えずに、何かをしたいと思うことも結構ある。今回noteのサポートをしてみた人だって、その前から「この記事いいなあ」と思っていた人だった。何もきっかけがないのに、「この記事いいですね!」と伝えるのは相当ハードルが高い。「サポートしてもらった分だけ、しただけだ」と自分に言い訳するだけで、この行為ができるようになった。

先輩が後輩に奢る例だと、こうなる。

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では、この言い訳の仕組みを使って、「見返りを求めない行動」をやりたくなったときにためらいなく実行できる方法はあるのだろうか?

過去にいろんな人から「自分に贈られてたもの」を知れば知るほど、照れずに「いろんなものを誰かに贈る」ことができる。その方法は「勉強」だ。

これも「世界は贈与で出来ている」から。自分が知らず知らずのうちに受け取っていたものは、知識がないと気づかない。だから勉強する。これはなるほど感がある。

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贈与は、受け取っていた過去の贈与に気づくこと、届いてた手紙の封を開けることから始まる(「世界は贈与で出来ている」第9章)
手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を、教養ある人と呼ぶのです。
そしてその人はメッセンジャーとなり、他者へと何かを手渡す指名を帯びるのです。(「世界は贈与で出来ている」第9章)

壮大な話になってきた。確かに過去の先祖の活動によって今の自分がある。それに対して感謝ができれば、「自分もやってもらったから、誰かにやろう」となりやすいのは構造としてはわかる。でもちょっと壮大すぎる。もうちょっと身近な例を考えたい。

みうらじゅん「親孝行プレイ」:友人経由で親孝行すれば照れくさくない!

この本のエピソードで覚えているものがある。自分の親に親孝行するのは照れくさいが、友人の親に親孝行するのは照れくさくない、という話だ。親との旅行に友人も連れていき、友人に自分のいいところを話してもらったり、「こんな旅行に連れて行くなんて、○○君はほんと親孝行ですね」と、客観性を持たせたりするのだ。

つまりこうだ。

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友人は、私の両親に「恩」はない。だから、私の両親を喜ばせることに「照れ」はない。

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そして、友人の両親を私が喜ばせるのだ!

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友人じゃなくて、夫婦でも同じだろう。自分に置き換えてみても、配偶者の親に対してのほうが照れくさくない。恩を受け取った人に直接返すのは、照れくさいのだ。なぜか。「動機」を少し疑われるからだ。いままで何もしてなかったのに、いきなり親孝行をするのはなぜか、と。夫婦なら、互いの親を親孝行すればよいし、友人を介しての親孝行をすれば照れくさくないということになる。

これは「贈与」の発想は活用していないが、「等価交換だと照れくさい」という観点は活用している。友人をはさむことで、「親孝行の照れくささロンダリング」をしているのだ。

まとめ:見返りを求めない行為に照れくささを感じない方法は二つある

1.自分が過去に誰かから受け取った恩の大きさを感じ、それを別の誰かに渡していくという方法

2.第三者をからませることで、「恩返しに関する照れくささロンダリング」をする方法

今回は以上です。ありがとうございました。

以下、わかりにくいので省いた原稿。

おまけコーナー:私が冬でもTシャツでいる理由

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私はTシャツ部という冬でもTシャツで過ごす活動を行っている。たまに「ブランディングなんですよね?」と言われることがある。等価交換の発想だ。冬でもTシャツでいることで、自分にリターンがあるからやってるんですよね?という指摘だ。でもこれは恥ずかしくない、なぜだろう。

冬でもTシャツで過ごすことは本当につらいから、仮に多少自分に「ブランディング」的な見返りがあったとしても、全然等価交換になってない。何年もやっていてこれは自信をもって言える。ブランディングっていうなら、お前もやってみろ、やらねーだろ、メリットないからな!と言いたくなる。

ではなぜやるのか。真冬にTシャツでいると「こいつ馬鹿じゃないの?」と周囲が面白がってくれるときがある。自分がつらいだけで、周囲が面白がってくれるなら、何もマイナスがない。自分みたいなものが生かしてもらっているだけでありがたいので、これぐらいはやらないとだめだろ、みたいな発想は確かにある。つまりこれも「贈与」なのである!(違うか?)

ここでTシャツ部のルールを紹介したい。

ルール2:「Tシャツで過ごす理由を考えてはいけない」
人はすぐに理由を求めます。しかしそれがよくない。Tシャツ部の目的を考えてはいけません。特に真冬は寒いので「なぜこんなことをやっているんだ」と考えてしまいます。ダメです。

いままでTシャツで過ごす理由を考えてはいけないということにしていた。しかしこれは「等価交換」という観点でTシャツで過ごす理由を考えるな、という意味だったのだ。「贈与」という観点なら考えてもよいと気がついた。「誰かにもらった恩を返すために、冬でもTシャツで過ごしているのです」というねつ造エピソードを話せる人だけが、Tシャツ部に入部できるようにしよう。「Tシャツの恩返し」的なエピソードを入部試験となる。ちなみに部員は1名(私)です。

誰かが書いてたけど、サポートしてもらったらそのお金をだれか別の人のサポートに回すと書いていて、それいいなとおもったのでやります!