#10 私の得意なこと

 文章を書くとき、私はまるで息を吸うかのように、という大袈裟かもしれません。
 なんというか、そう。まるで、幼児が砂場で遊ぶかのように、その行為に私は苦を感じない。
 勿論、何を書けば良いのかで迷うことはある。
 だがしかし、一度テーマが定まってしまえば、私の指は完成にまで一直線。
 どうやら私という人間は、そうできているらしい。
 つまりは、得意ということだ。
 
 得意とは何か。才能とは何か。
 私は、その行為に苦を感じないことだと解釈した。
 私は文章を書くことに苦を感じない。だから得意だ。
 また、私は文章を読むことに苦を感じない。
 例えば、神社に参拝したとき、私は必ず神社の説明文を読んでしまう。
 だから、文章を読むことも得意なのだろう。
 
 得意とか、才能とかを、人より優れているかどうかで判別しようとすると、結構難しいかもしれない。
 人間のエゴが入ってしまうからだ。他者との比較は、人間のエゴがもろに出てしまう。
 他人より優れているだとか、他人より劣っているだとか、そんな余計な情動が発火してしまって、客観的に自分を観ることはできない。
 だから、他人というモノサシで自分を理解するのは駄目だ。
 
 だから、他人なんて要素が入ってこないモノサシを使う必要がある。
 それが、その行為に苦を感じないかどうか、だ。
 私たちは、どうしても自分だけの武器が欲しい。即戦力として使える武器が欲しい。でも、そんなものはない。
 どんな才能だって、私たちが意識的に磨き上げなければ、石ころと同じだ。
 
 石ころを磨き上げるのに必要なものは、当たり前だが時間だ。
 他に必要なものは沢山ある。教師、環境、お金、その他諸々は確かに必要だが、仮に無くても構わない。
 でも、時間だけはどうしても必要だ。
 何故なら、どんな原石の才能であろうとも、一分だけ磨き上げて、それで完成とはならないからだ。
 才能とは、長い年月をかけて磨き上げられるものだ。
 
 その時に、大切なのが、その行為に私は苦を感じないのかどうかだ。
 何度も言うが、石ころを磨き上げる作業には時間がかかる。しかし、その石ころが苦に繋がるのならば、磨き上げる時間全てが苦行になってしまう。
 そうすると、続かない。
 つまり、時間が注がれない。
 時間が注がれないと、石ころは宝石にはなれない。
 
 だから、私たちは自分が苦に感じない行為を探すべきなのだ。
 時間を注いでも苦にならない行為が、いつか私たちが人生を生き抜く為の心強い武器になってくれるはずだ。
 
 つまり、才能とは、苦に感じない行為のこと。
 それが、普通だと感じる常識のこと。
 極論を言うと、私たちは呼吸や歩くことに苦を感じないので、私たちは呼吸や歩行が得意だ、と言っても良いかもしれない。
 そして、その行為を磨いて、呼吸や歩行の達人になっても良いかもしれない。
 
 今まで無意識だった自分の普通の行為を意識に上げ、意識的に磨き上げる。
 呼吸なら、意識的に呼吸をする。ゆっくり長く息をし、吸い込んだ息が身体のどの部分に入るかを観察する。
 上の文は例え話だが、それを年単位で続けることで、いつしか得意技になっているはずだ。
 
 とはいえ、それでも見つけられない。自信がない。という人もいるかもしれない。
 別に間違ってても良いんじゃなかろうか、と私なんかは思うけれど。そうすると、過去を思い出してみるのも良いかもしれない。
 
 私は、中学生の頃、文章を書く授業で先生に反発したことがある。先生の指示した形式通りに文章を書く授業だ。
 その形式とは、意見・根拠・事例の順に文章を書くことだ。それ自体は別に良いと思う。
 間違っていないと思うし、むしろ、最初にこの形式を癖付けられたら、結構人生が上向きになるんじゃないかと、今ならば思う。
 文章に慣れていると思っていた私からすれば、正直ちょっと鬱陶しいけれど、でも十分許容範囲内だった。
 
 しかし、何故かこれ二枚続きなのだ。
 つまり、二枚のページがあり、一枚目のページはいわゆる設計図だ、意見・根拠・事例がそれぞれ枠で囲まれており、その枠に沿って記入していく。
 そして意見・根拠・事例の枠に書かれた文章を繋げて、下の空いたペースに記入する。
 それから、二枚目のページ、いわゆる清書に、一枚目のページに書いた文章をそのまま書き写す。
 一枚目と二枚目の文章に差異があれば、減点対象。
 
 これを纏めるなら、計三回、同じ文章を書かされる、ということだ。もうとにかく面倒臭いし、時間がかかり過ぎる。私はそれがどうしても我慢ならなかった。
 だから、私は授業中に先生に抗議した。
「このやり方は、明らかに非効率的ですよね。なんで三回も同じ文章を繰り返す必要があるんですか? なんで同じ文章じゃないと減点されるんですか? 何か意図があるんですか? 教えてください」
 
 他の生徒たちが黙って従ってる中、私は二人の先生にひたすら質問責めしていた。そうすると、先生は根気負けして、「もうあなたの好きにしなさい」と吐き捨て、私を放置しました。
 私はある種の達成感と共に、不満も抱きました。
 
 私はただ、理由を知りたかっただけなのに、と。
 
 先生に失望した私は、先生が提示した形式をろくに守らず、テーマだけは守って、好きに文章を書きました。テストですらその姿勢を貫いたので、点も当然低かったです。
 
 何故、私は先生に対して、これほどまでに反抗したのでしょうか?
 納得がいかなかったからです。納得できなければ、従えなかったからです。
 なぜ納得できなかったのかと言えば、それは私が書くことに対して、一定のこだわりを抱いていたからです。
 
 書くという行為は、ある種、私の聖域に近かった。
 だから、それを侵害されたことで、私は怒り狂うとまではいかなくても、攻撃的な姿勢を見せました。
 
 この私の過去から、一つの事柄が読み取れます。
 
 それは、先生や親などの大人たちに対して、反抗した子供の頃の記憶から、私たちは得意なことを見つけられるかもしれない、ということです。
 親や教師は、私たちにとって上位者です。
 親は私たちのライフラインを握っているので、言わずもがなですが、先生も一つのクラスを支配している上位者と言えるでしょう。
 そんな上位者に反抗したのですから、それは決して譲れないものだったのでしょう。その譲れない“何か”が、あなたにとって得意なことなのかもしれません。
 
 別に、その反抗が間違っていたものだったり、恥ずかしい記憶だったとしても、構わないのです。
 重要なのは、それが大人たちに反抗するほど、大切なものだったということ。その一点です。
 
 一度、見つけられると、結構芋づる式に得意なことが見つかります。
 
 私は、先生に抗議するという行為に、あまり躊躇を感じませんでした。また、例えば授業で発表する時も、正直大して緊張しませんでした。
 代わりに、誰かと仲良くなることに、私は躊躇と緊張を感じてしまいます。
 
 つまり、私は人と仲良くなるコミュニケーションは(現時点では)苦手ですが、義務的な会話、否、人に自分の意見を伝える会話は得意と言えるでしょう。
 
 それが転じて、人に自らの意見を伝える文章が得意なのかもしれません。
 つまり、これを俯瞰して、私が得意なことを挙げるなら、私の得意なことは“伝える”ことなのでしょう。
 
 と、このように、見つけてしまえば、あとは鍛えるのみです。私はnoteに文章を投稿して、“伝える”ための技術を磨いています。
 未だ道半ば、というよりスタートラインに立った程度ですが、それが一年も続けば、ある程度は使える武器になっているかもしれません。
 
 その未来を信じて、文章を書いていきたい。
 私はそう思います。
 

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