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欠落を力に変えた少女

 少し前に『ぼっち・ざ・ろっく!』というアニメが流行りましたね。
 わたしもハマりました。
 すごく面白かったですね〜。
 


 ぼっち・ざ・ろっく!(以下ぼざろと略します)は世界中で大流行しましたが、あなたはその原因はなんだと考えていますか?
 
 アニメ内で挟まれる曲がいいから?
 主人公やキャラクターの個性的な性格?
 主人公の極端なまでのリアクション芸?
 
 わたしは、そのどれもが流行する理由になったと思いますが、その根底にあるのは、主人公、後藤ひとりの欠落だと個人的に思っています。
 
 欠落というと?
 その疑問にお答えする前に、知らない人のためにぼざろのあらすじを解説していきたいと思います。
 
 ぼざろとは、万年ぼっちのギター少女、後藤ひとりが主人公のアニメ(漫画)です。
 後藤ひとりは、幼稚園のころから、「遊びたい人この指と〜まれ」という言葉に対して、「私なんかがあの指にとまっていいのかな」と思うような子供でした。


遊びに混ざれない後藤ひとり


 当然、友達を作ることはできず、先生とお弁当のおかずを交換する幼稚園生を過ごし、中学生になるまで友達をひとりも作ることはできませんでした。
 
 転機が訪れたのは、中学一年生のときです。
 
でも私、話す前に「あ」って言っちゃうし、目を合わすのも苦手だし、The陰キャのような日々が身の丈に合って
 そう思いながら後藤ひとりは、ひとりでテレビを見ていました。
 その時、出ていたバンドマンの「バンドは陰キャでも輝けるんで」という言葉に触発させられて、後藤ひとりはギターを始めることを決意します。
 
 そこから自分に課した練習時間は、なんと毎日6時間。
 1日の4分の1の時間です。
 正直びっくりしましたが、なぜかリアリティーがないとは思いません。
 むしろ、どこか、そうだよねえ、という納得が先に来てしまいます。
 
 中学一年の女子中学生が毎日6時間ギターの練習をしていたことに、なぜか、困惑よりも先に納得があったのです。
 
 どうして、そう思ったんでしょう。
 そう疑問に思って、考えてみたのですが、そのときコーチング用語の「want to」という言葉が、頭に浮かびました。
 
 「want to」については、まといのばのブログで解説されていますので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
Want to〜を「〜したい」と訳すことに違和感があります。

Want toはWant toです。
 
たとえば、「〜したい」ではうまく行かず、Want toだとうまくいくという感触です。
訳さない方が良いことってたくさんあるのです。

Wantはやはり欠けているというニュアンスがあり(a wantと名詞にすれば欠乏とか欠落とか欠如の意味)、その欠落を補うためにTo以下の行動があります。

最近のセッションやRaySalonセラピストBootCamp講習会などでも、話題に出ましたが、ゴールや夢というのは、「こうなりたい」ではなく「なぜ、私はこうなっていないのだ」という方が感触としては近いのです。

「なぜ、私はまだゴールを達成していないのか」、と自らに問うてしまうようなものが、Want toであり、ゴールです。
 

 
(引用終了)
 
 「want to」には、欠落を埋めるための行動、という意味合いもあるのでしょうか。
 たとえば、筋肉むきむきの自分になりたい、というゴールを設定したとします。
 そのゴールに臨場感を感じられると、今現在の自分がとてもひょろひょろに思えてきます。
 その不足を埋めるために、筋トレという「want to」があり、そのときの苦しさや辛さは喜びになり得ます。
 
 それこそが、コーチングにおける「want to」なのだとわたしは思います。
 
 その理論に当てはめると、後藤ひとりの異常な時間の鍛錬も理解できます。
 
 よくよく考えてみると、中学一年生になっても、友達をひとりも作ることができないのは、とても珍しいことだと思います。
 わたしも一時期、友達がひとりもいない時期はありましたが、それでも、小学生や幼稚園のころに遡れば、誰かと遊んだ記憶があります。
 
 普通に生きていれば友達ができる、というのは世間の大多数の認識で、そこから外れてしまうのは、どうしようもない孤独を感じさせるのではないでしょうか。
 
 自分は普通の人間のようには生きられない、とか。
 多くの人の普通が、私にとっては特別に見える、とか。
 
 ある種、そういった感情を、喪失感や欠落感、とも言い換えることができそうです。
 
 後藤ひとり。
 彼女の傍にも、常に大きな喪失感な欠落感があったのだとわたしは思います。
 そして、バンドマンの話を聞いたことで、その欠落をギターで埋めることができる、と。
 そう希望を抱いたのではないでしょうか。
 
 たとえば、それは、突然怪我をして歩けなくなった人が、死に物狂いで歩くための練習をするように。
 ギターを毎日6時間練習することは、後藤ひとりにとって、「want to」な行動だったのだと思います。
 
 後藤ひとりの欠落こそが、後藤ひとりをギターへと駆り立て、毎日練習させ、ついにはプロ並みの腕前にしてしまいました。
 
 後藤ひとりという人間は、アニメを見れば分かりますが、欠点だらけです。
 コミュ症で、人と目を合わせられず、卑屈で、猫背で、妄想癖があり、結構な頻度で人の話を聞いていません。
 それは明らかな欠点ですが、しかしその欠点なしには、後藤ひとりは語れません。
 そのコンプレックスがあったからこそ、後藤ひとりは6時間もギターの練習をすることができました。
 
 わたしは、それこそがぼざろの魅力というか、裏のテーマだったように思えます。
 
 16歳でプロとして活躍できる腕前の持ち主を、わたしたちは、しばしば天才と呼びます。
 しかし、天才と呼ばれる者の背景には、その分野に費やされている膨大な時間の鍛錬があります。
 後藤ひとりであれば、1日6時間を365日、それを3年間で計算するとして、単純計算ですが6570時間。
 
 6570時間。
 それだけの時間をギターに注ぎ込んだことで、後藤ひとりは高校一年生で、プロとして活躍できるギターの腕前を手に入れられました。
 
 その努力の根底にあるのは、後藤ひとりのコミュニケーションに対するコンプレックスです。
 
 コンプレックスという名の心の穴が、彼女をギターの天才にしたのです。
 
 天才というと、わたしたちは努力せずに、なんでもできる人間をイメージしますが、もしかしたら天才とは、後藤ひとりのような人間なのかもしれない。
 
 そういうとき、私はニーチェの言葉を思い出します。
 
(引用開始)
 
 天賦の才能について、持って生まれた資質について話すのはやめてくれ! わずかな才能しか持たなかった偉大な人間はたくさんいる。彼らは偉大さを獲得し、『天才』(いわゆる)になったのだ。実体を知らない人々が褒めそやす資質を欠いていたからこそ。いきなり全体像作りにかかる前に、適切な一部を組み立てることを最初に学ぶ有能な職人のごとき真面目さを、彼ら全員がそなえていた。彼らはそのための時間を取った。なぜなら、華やかな全体像よりも、あまり重要でない小さなものを作ることのほうが楽しかったからだ。
 
(引用終了)

 
 つまり、ぼざろにおける天才とは、みんなが嫌うコンプレックスや喪失感、欠落感を、逆に、現状を変えていくだけのエネルギーに変えた人間のことを、言うのかもしれません。
 
 わたしたちがぼざろに熱狂したのは、無意識にその事実を知っていたからではないでしょうか。
 
 後藤ひとりは欠落こそを友とし、力へと変え、ギターによって世界と関わり始めました。
 彼女はギターを通して世界を認識し、ギターを通して世界と関わります。
 
 わたしは、後藤ひとりのその姿勢に見習うべき点がたくさんある、と思うのです。
 
 誰だって、欠落感や喪失感を抱いていると思います。
 わたしの、こんなところが嫌だ。
 もっと普通の人のようにできていたかった。
 
 たとえば、それは後藤ひとりのようにコミュニケーション能力かもしれませんし、あるいは他の何か、自分の過去にまつわるものなのかもしれません。
 
 もしかしたら、あなたは、自らの内にあるコンプレックスが永遠に自分を苦しめ続けると、そう思っているかもしれません。
 
 でも、わたしたちはそのコンプレックスこそを、力へと変えることができるはずです。
 どうやって? と問われますと、わたしはゴール設定だと答えます。
 
 自分にとって足りないもの。
 欲しい、手に入れたい、なりたい。
 そんな飢餓感や渇望。
 それこそが、ゴール設定に必要なのだと思います。
 
 以下より、わたしの先生のブログの文章を引用します。
 
(引用開始)
 
僕の先生はゴールやwant toを「心の穴」と解説されるのですが、喪失感や欠落感を埋め合わそうとするから現状を変えていくだけのエネルギーが生まれるのだと思います。それをドラえもんの最終回の同人誌を読んで改めて感じました。
 
喪失感や欠落感はネガティブなこととされていて忌避されがちです。でも正しくゴール設定されると、それは必然的訪れます。あるいは逆に、喪失感や欠落感がゴールを見せてくることもあるでしょう。

そもそも「現状の外のゴール」は当たり前ですが現状にはないもので、そうであるがゆえに僕たちに喪失感と欠落感をもたらします。そしてそれを埋め合わせようと僕たちは勝手に駆り立てられます。

いまここにないはずのものをあると狂信して無理くりそれを現実にするのだから、正気の沙汰ではありません。多くの人はあなたを嘲笑い、時として罵倒してくるでしょう。

だけどそれにめげずに、自分の信ずる道を駆け上がっていけば、突き抜けて自分の望むものを現実にすることができます。無理も通せば道理となるのです。
 
うまくゴール設定ができればそれに必要な知識や技術や体力や人脈は勝手に召喚されます。これはマジです(しかしある程度知識がないと見えてこないものはたくさんあるので、学習は適宜進めていきましょう)。

 

 
(引用終了)
 
 ゴール設定をするとき、内なるドリームキラーが、こう語りかけてくることもあるでしょう。
 
「今まで、どうあっても改善できなかった欠点を、今さら改善できるものか」
「わたしは、この先ずっと、自分の嫌いな部分と付き合っていくしかないんだ」
 
 でも、どうかあなたに知っていただきたいのは、過去とは未来からの評価によって変わる、ということです。

 過去に実体は存在しないのです。

 中学高校でまったく勉強しなかった過去があったとして、大人になって成功できれば、「学校で勉強しなかったおかげだ」と誇るでしょう。
 逆に落ちぶれたとするならば、「もっと学校で勉強できれば」と後悔するでしょう。

 過去はどちらも同じなのに。
 
 過去は大切だとわたしは思います。
 過去の記憶によって、わたしの人格は形作られていますから、やっぱり過去は大切です。
 でも、そこに囚われたくないとも思います。
 
 囚われるというのは、つまり、コンプレックスやトラウマですね。
 
 それはやっぱり勿体ないです。
 どうせ不愉快な記憶ならば、なんとか力に変えて、有効活用できたらと思います。
 そして、それは決して、不可能なことではないのだと思っています。
 
(引用開始)
 
 いまがどんな状況であろうと、未来が幸せならば、いまも幸せなのです。
 たとえば、夢を叶えた人はよく、「あの不幸な時代があったからこそ、いまの幸せがある」というような言い方をしますよね? たいていは口では不幸といいながらも、苦労した時代を楽しそうに語っています。誇らしげでさえあります。
 なぜ、不幸を笑って話せるのでしょう?
 ダメだった自分を恥ずかしがらずにさらけ出し、胸を張れるのでしょう?
 それは、本人も気づいていないかもしれませんが、夢を実現した瞬間に昔の不幸が幸福に塗り替えられたからです。
 貧乏したことや、なかなか芽が出ずにもがいていたこと、失敗ばかりしていたこと、いじめられたりバカにされたりしていたことなど、当時は「できれば人に知られたくない。隠したい」と思っていた過去が、幸せを手に入れたことによって一種の「勲章」に化けちゃったからです。

 



(引用終了)
 
 はっきり言うと、わたしも、後藤ひとりのように、コミュニケーションは苦手です。
 知らない他人を怖いと思うときがあります。
 人の好意を素直に受け取ることができないし、どうしてみんな、あんなに軽々と友達を作れるのだろう、と疑問にさえ思います。
 
 だから、ぼざろの話は、わたしにとって決して、他人事ではありませんでした。
 後藤ひとりは、欠落を力に変えたわたしなのです。
 
 でも、だからこそ、思います。
 わたしも、後藤ひとりのように欠落を力に変えたいと。
 この文章も、その一環です。
 
 書きたいことがあり、吐き出したいことがあり、だから書いているのだと思います。
 読んでくださる人たちには、感謝の念が絶えません。
 どうか、この文章が少しでも、あなたの足しになっていただけたら、と思います。
 そして、この文章を通して、あなたとより深く関わることができたなら、それはとても嬉しいことです。
 
 長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。
 それでは、また。
 またね、ばいばい。

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