大切なのは『真実に向かおうとする』意思だと思っている
お久しぶりです。
いえ、六日ぶりと言った方が正確ですね。
最近は、noteの更新ができなくて、すみません。
五日間ほったらかしにした挙句、昨日出した記事が文章読解の回答(しかも、めっちゃ長ったらしいやつ)だったので、もしかしたらガッカリされた方もいるかもしれません。
その方には、改めて謝罪をお伝えいたします。
お気づきかもしれませんが、ずっとルー・タイスの文章読解に挑んでおりました。
あとちょっとで解ける、あとちょっとで解ける、をズルズル繰り返して、ここまで長引いてしまいました。お恥ずかしい。
まだまだ、私の頭は未発達でして、文章読解に取り組んでいる最中に、記事を書く余裕がなくて……。
いつか、そう遠くないうちに、高難易度の課題に頭をうんうん悩ませながら、その隣で淡々と記事を書いているわたしになれると思うので、ご期待いただけると幸いです。
それで、「ルー・タイスの文章読解って何のこっちゃ」という方に少しだけ説明すると、ヒーラー・メンターとして必要な言語能力を高めるための、いわゆる訓練のようなものです。
まといのばのブログで、言語能力を高めるメリットが書かれていますので、引用させていただきます。
(引用開始)
ちなみに、タイトルにも書きましたが、構造的に文字が読めるようになると、言語能力が身につくばかりか、ヒーリング能力が高まり、大周天が大きくなり、容易に深い変性意識に入れるようになり、そしていわゆる飛ばし読みではない速読も簡単に可能になります。深い精読にも関わらず、猛烈に早い読みが可能になります。
何が言いたいかと言えば、本当に良いことづくしなので、、、、ともかく痛みに耐えてがんばりましょう
(引用終了)
ついでに、問題文も引用させていただきますね。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。方法や手段を固定するのも良策とはいえません。結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。(p.295-296 ルー・タイス『アファメーション』)
Q.ここで、なぜ「しかし」を用いているのか、説明しなさい。
原著の英語だとこちら。
My life is very different from the way I thought it would be.
Your success may not come the way you thought it would either. But if you stop and reflect back, you may say with me, "Well, what do you know, I am a coach." So, be careful that you don't map the way to some of your big ideals. Don't lock on to some method or means. Keep the end in mind, but be flexible about ways and means.
Q. 2文目の「Your success may not come the way you thought it would either. 」の文法的構造を解きほぐしつつ、なぜこの次に続くのが「But」なのかを説明しなさい。
この問題が出されたのは、わたしの先生いわく二年ほど前とのことで、多くのまといのば受講生の方が挑まれたらしいです。
わたしも先生に「文章読解ができるようになりたい」とリクエストしたところ、この問題をいただいたので、喜び勇んで挑みました。
そして、はじめの一歩からつまづきました。
えーと、はい。
この課題文なんですけど、真剣に考えれば考えるほど分からなくなってしまうんです。
もしかしたら、わたしだけかもしれませんけれど、疑問符が頭の上を飛び回っていました。
多くの方がこの課題に撃沈したと聞きますし、「わたしなんかが解けるハズないよなあ。でも、挑んでみたいなあ」という精神でした。
だから、喜び勇んで、というのは正直に言うと嘘で、「やべえ、マジやべえ」と思いながら、課題分をノートに書き写していました。
だから、この問題を解くのに二週間ほどかかり、お世辞にも、「解けた!」とは言いづらいのですが、この課題文に全力で挑んだ感想といいますか、朧げに見えた感覚を共有したくて、noteに書き起こしてみました。
だから、ここまで読んで下さった方には今更かと思いますが、最後まで読んでもらえると嬉しいです。
この課題文を解くにあたって、わたしが初めにしたことは、『解くことを諦める』ということでした。
歴戦の猛者方が苦戦したというのに、わたし程度が解けるなんて、傲慢も甚だしい。
幸い、二年も経ち、他の受講生の方々の回答文や本家主宰のネタバレありきのブログなどもあったので、思考の補助線は多くありました。
でも、それでも、解けるとは思えなかったんですよね。
少なくとも、今のわたしでは。
なにせ、文節の切り方も、品詞も、修飾文も何ひとつ知らなかったものですから。
わたしは、国語は勘でそこそこ解ける系の生徒だったので、文法とか真剣に学ばなかったんですね……。
もしかしたら、「勘で解けるならいいじゃん」と思われる方もいるかもしれません。
でも、「文法とか分からないけれど、文章読解できるよ」、という方は、「音楽理論とか分からないけれど、作曲できる」という方に近いように見えます。たまたま解けたってだけです。
わたしたちは、日本語に馴染みがあるので、文章読解は作曲よりかは難しくない、と思いがちですが、それは大きなスコトーマなのかもしれません。
ただ、できている、と錯覚しているだけ。
だから、いざ真剣に文章を読解しようとすると、まるで解けない訳ですね。わたしのように。
でも、わたしは解きたかった。
できるできない関係なく、やってみたかった。
だから、一から泥縄式で文法について学び直しました。
課題文はどうやって文節分けすればいいの?
助詞ってなに、助動詞ってなに?
課題文を品詞ごとに分別するの難しい!
弱音だらけです。
でも、やってみたら、なんかできました。
なんていうか、必要は発明の母だなあ、と改めて思いました。
別に、発明したわけではないですけれど……文法などという学生のテストくらいにしか役に立たなさそうな、学ぶ気が削がれるような知識でも、必要になれば全力で覚えるものなのですね、と。
そんなことを思ったわけです。
わたしは、どうも「こんなこともあろうかと」と言い出すために、必要になりそうな知識を集めようとする癖があるっぽいんですけど、それじゃ身に入らないとか、手から砂からこぼれ落ちるみたいに、知識がぼろぼろ落ちてしまうんです。
人間みんな、直近で知識が必要になって、行き当たりばったりで集めて、大慌てで問題を解決していくしかないのかもしれません。
格好悪いというイメージもありますけど、そうでないと身が入りませんし、そもそも物語のヒーローは大体そんな感じです。
恥じるようなことでもないのかもしれません。
まといのばのブログでも、そのような記述があったので、引用させていただきます。
(引用開始)
最初から全部なんて分からないのです。どんなに達人でも(でもパターンは分かります)。
やりながら、泥縄式に解決してくのです。
何を描きたいかは、描きはじめてみなければわからない(パブロ・ピカソ)
ザッカーバーグがビジネスにおけるユーレカなんてフィクションだと言っていました。
アイデアが細部まで細かく全貌が唐突に現れることなんて無いんです。
面白そうと思ったら、突っ走って見て(ダメならすぐに引き返し)、走りながらいろいろと学べば良いのです。
(引用終了)
そうして、泥縄式に集めた知識を実装し、課題文を文節ごとに分けたり、品詞に合わせてペンの色を変えたりして、ようやく問題文に取りかかれたのが、今日から六日前ほどのことです。
あとちょっと、あとちょっと、と必死に課題文の構造を分析して、文章にして、なんとその文章量は合計一万八千文字を超えました。
いつもの平均が大体四千文字くらいなので、四倍と少しの文章量です。
自分でもやり過ぎたというか、はっきり言うと、くどく書き過ぎたと思います。
ちなみに、その件の文章がこれです。
文章ひとつひとつを解きほぐし、全体と繋ぎ合わせて、とやっていたら、それくらい優に超えましたし、日数も予定より大幅に超えていました。
なんか、もう途中から、何やってんだろ、なんて空を見上げていましたし、終盤からは「……あとちょっとで解ける……あとちょっとで解ける」と繰り返し呟きながら、課題文を解きほぐしていました。
はよ終わってくれー! って感じです。
でも、そんなになっても、最後まで、細部にこだわり続けたのは(後から見返すと、手を抜いている部分はありましたが)、結果よりも過程、と思っていたからだと思います。
まといのばのブログで書かれていたブログは、わたしが執拗に過程にこだわり続けるための力となったと思います。
(引用開始)
自分の頭で考えないと、答え合わせの意味はないです。
重要なのは正解ではなく、プロセスです。
というか、思考のプロセスによる自己の変容です。
旅にとって大事なのは、目的地に着くことではなく、その過程です。
その過程で別な自己へと進化成長するのが重要なのです。
(引用終了)
もしくは、こちらでしょうか。
(引用開始)
ーーー長い間この業界にいますが、若い頃の自分に何か言えるとしたらどんなアドバイスをしますか。
プロセスをもっと楽しめ、と言うだろうね。自分の限界までがんばれ、でもその過程を楽しめってね。すべてに対して真剣に取り組むべきだけど、その旅路は楽しむように言うね。(レオナルド・ディカプリオ)
(引用終了)
だから、旅で大切なのは、どこに行ったかではなく、どのような旅をしたか、ではないでしょうか。
物語でも、結局、当初の目的は果たせなかったけれど、深く満足して旅から帰ってきた主人公はたくさんいます。
大切なのは、何を手に入れたかではなく、その旅で自分がどう変容したか、だとわたしは思います。
そのときに、必要となるのが、過程を重んじる意思なのかもしれません。
もしかしたら、ちょっと話の内容からはズレるかもしれませんが、ある漫画のセリフがとてもいいので、紹介させていただきます。
(引用開始)
「そうだな……わたしは『結果』だけを求めてはいない。
『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ………………
近道したとき真実を見失うかもしれない。やる気もしだいに失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。
向かおうとする意志さえあればたとえ今回は犯人が逃げたとしてもいつかはたどり着くだろう?
向かっているわけだからな………違うかい?」
(名もなき警察官)
荒木飛呂彦『ジョジョ奇妙な冒険』第59巻
(引用終了)
どこまで細部にこだわることができたかどうかで、訪れる未来は変わっていく、のかもしれません。
ただ、こんな未熟者のわたしでも、ひとつ言えることがあるとすれば、それは、こだわることはとても楽しい、ということです。
課題文を解くのは、ひどく疲れる行為でしたが、同時にとても楽しいものでもありました。
少しずつでも『真実』へと近づくことに、興奮と歓喜をわたしが覚えていたからです。
残念ながら、わたしの回答は『真実』からズレてしまいましたが、わたしの回答を見てくれた先生が、その『真実』へと近づくための道筋を示してくれました。
一応、明記しますと、
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
このふたつの文章『だけ』で、「しかし」の謎を解く、というものです。
この課題を出されたときは、ほぼ条件反射的に「え、無理じゃね?」と思いましたが、同時に「やってやる」という意志も沸々と湧いてきました。
もしかしたら、この心の働きをエフィカシーと言うのかもしれません。
全然分からないですし、できないと思っているのに……なのに、やってみよう、やってみたい、と思えてしまう。
不思議な心境ですが、悪くありません。
ふと思うのは、全力で走っていると、確かに転ぶと痛いかもしれません。
でも、全力で走ったことで、はじめて見える景色もあるのかもしれません、ということでした。
まだまだ全力とは言えませんし、転んで怪我をしたとも思っていませんが、そういう世界に自分がいられることを願います。
それでは、また。
またね、ばいばい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?