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紫煙はやがて涼風へ【オリジナルSS】

 夏の風が嫌いだ。

 爽やかと呼ぶにはあまりにもぬるく、じっとりと湿気を孕んで、アスファルトの焦げた臭いを纏いながら、馴れ馴れしく頬を撫でる夏の風が、私は大嫌いだ。

 と、まあ、そんなことを言いながらも、私は今日も茹だるほどに暑い夏の日の光が降り注ぐ、学校の屋上で一人座り込み、ぼんやりと空を眺めながら煙草の煙を口から吐いていた。美味しくもなんともない、唯々苦い煙を口から吐くたびに、体の中に溜まったドロドロとした気持ちや面倒くさい悩みなんかが煙に溶けて、外へ出て行くような。そんな心地が堪らなく気持ちが良くて、私はこんな狂いそうなほど暑い屋上にわざわざ上っては、人目も気にせず、そのくせばれないように隠れながらこうやって煙草を吸っているのだ。
 昼休みの校舎からは、生徒たちの楽しげな話声が溢れかえり、時折聞こえる甲高い笑い声が、激しく鼓膜に響いた。頭が痛む。

 うるさい。
 鬱陶しい。

 そんな言葉が浮かぶと同時に、自分はどうやってもあの声の中には入り込めないことを痛いほどに感じ、また紫煙を吐く。
 長い息を吐き続け、胸に溜まった黒い煙をすべて吐こうと思ったのに、うまく吐き出せない。それどころか、急に気持ちの悪い風が体を包んで、体中を強引に掻き回し、思わずむせかえった。

 触らなくてもわかる。髪の毛がぐちゃぐちゃだ。これだから風は嫌いなのだ。別に毎朝何時間もかけてセットしている訳でも何でも無いが、やはり髪の毛が乱れると心も乱れる。私の心は風が吹く前に比べて明らかにささくれ立っていた。自然と脚が貧乏揺すりを始める。

 そんな私の気持ちを知るよしもなく、屋上の重たい鉄の扉を開け、一人の女子生徒がやって来た。明らかに着色されている茶色い髪をシュシュで二つ結びにし、薄化粧をした女子生徒は私を見るなり、指を指しながらケラケラと笑う。

「不良少女はっけーん」
「うっせ」
「あれ、ちーちゃん今日はいつも以上に機嫌悪くない? 元気?」
「機嫌悪いときに元気なわけねぇだろ」

 女子生徒は依然笑ったままで、私の隣に腰を下ろす。砂糖を溶かしたような甘ったるい香水の香りが、ふんわりと風に乗って漂ってきた。

「そかそか。じゃあ、マリがちーちゃんを癒やしてあげよう。ほれほれ。今なら、マリちゃん抱きしめ放題だぞ」
「……いらん」
「いいの? 抱きしめ心地がいいと定評のあるマリちゃんを抱きしめなくても」
「あー……なんかもう色々どうでも良くなったわ」

 私は携帯式の灰皿で煙草の火を消し、吸い殻をその中に入れると、それをスカートのポケットの中に突っ込んだ。煙草の箱もライターもこのポケットに入っている。私にとってこのポケットは秘密の場所なのだ。

「時にちーちゃん、今日は何があったの」
「あ?」
「約束したじゃん。悩みがあったら相談し合うって」

 体育座りのまま、ゆりかごのように体を揺らしマリは首をかしげた。こいつは授業中に当てられたところはほぼほぼ外す癖に、変なところで勘がいいし、暗記科目の単語を一つも覚えない癖に、昔にした約束はきっちり覚えているのだ。
 言う義理はないが隠す理由もない。私は肺に残っている煙を吐き出すように空に向かって長く息を吐くと、短く言葉を吐き出した。

「隣の席のやつにウザ絡みされた」
「あー、小山くんねー。今日も授業終わるなりアプローチすごかったよね」

 思い出すだけで反吐が出る。食欲も失せたため今日の昼食は食べていない。
 一体あの男は、なんで平然と、あんな面を下げて私に話しかけてくるのだ。

「席替えの時もなんだかんだ言ってちーちゃんの隣に席持ってこようとするし、放課後もいっつも一緒に帰ろうって誘ってくるもんね。マジ露骨」
「こっちにはそんな気ないし、なんなら嫌いなくらいだし、てかあれストーカーじゃね」
「マリの周りの子は「青春~」とか「うらやまし~」とかノーテンキなこと言ってるよ。まあ、小山くん顔だけはいいもんね。顔だけは」
「うらやましいとか、人の身も考えろっつー」

 マリと一緒にやっと笑い声を上げることができた。愉快だから笑ったわけでも、楽しいから笑ったわけでもないが、なんとなく、本当に少しだけ、厚い雲間からわずかに太陽が覗く程度だけれど、心が晴れたような気さえする。

「――と、そろそろ戻ろっか。チャイム鳴ってるし」
「だな」

 そう言って立ち上がると同時に、屋上全体を強い風が包み込んだ。この辺りすべてのアスファルトの熱を巻き込んだような熱風が吹きすさぶ。思わず足下がふらついた。飛ばされてしまうのではないかという錯覚。
 倒れそうな私の体をすかさずマリが抱きしめた。
 なるほど。確かに柔らかくて抱きしめ心地がいい。昔家にあった抱き枕を思い出す。

「お客さん、過度なお触りは禁止ですぜ」
「……」
「ちょ、マジで、お尻はダメ! 最近エグい肉がついたから! こら、揉むな! ちーちゃんのスケベ!」

 マリの体からは想像できない、割と強めの力で叩かれて堪らず手を離した。頬を膨らませながら腕を組むマリが可愛らしくて思わず頭を撫で、そのまま髪を掻き乱してやった。

「ちょ、ちーちゃ、」
「嫌いなんだ」
「え?」
「夏の風」
「夏の風?」
「うん。生ぬるくて、湿ってて、気持ち悪くて……」

 頭皮に汗が滲む。そこから滲み出た脂汗がじたっと額に伝った。
 嫌な記憶が頭に響く。今するはずのないの生臭い臭いが鼻腔に纏わり付いた。
 込み上げてくる酸っぱいものを飲むと――顔を歪めてしまっていたのだろう――マリが心配そうに顔をのぞき込んできた。

「だいじょーぶ?」
「大丈夫」
「よしよし、無理すんなぁー」

 そう言って眩しい笑顔をマリは浮かべる。本当にこいつは、染みこむように人の心の中に入ってくるのが得意だ。

「そーいえば、夏の風にも色々あるよね。マリ的にはさっきの、あの、なに? モワッと系? あぁいうのあんまり遭遇しないというか」
「マジか。私ああいうのばっかだぞ」
「ちーちゃん、運が悪いんだ。マリのよく会う夏の風はね、もっと、こう、さわやかぁーって感じの、涼しい風なんだけどな」
「運が悪い、ねぇ」

 屋上を出て、教室に帰るための廊下を行く。どうやら皆一様にクーラーという名の人工的な風が吹く教室の中にいるようで、廊下には驚くくらいに誰もいなかった。
 二人で夏の風論争をしている間に、私たちは教室の前につく。そして、その扉の前でマリは立ち止まると私に向かって軽く手を振った。

「じゃあ、ちーちゃん、またね」
「ん」

 そう、別れの挨拶を告げ、マリは教室の前の扉から、私は教室の後ろの扉から、ほぼ同じタイミングで同じ教室内へと入っていった。

 騒がしい、教室の雑音が耳につく。

「麻梨おかえりー。何? ちょー遅くね? どこ行ってたの」
「ちょっとそこまでー。あ、さっちんに頼まれてたジュース買ってくんの忘れた」
「はぁ? まじ、絶交なんだけど?」
「ごめーん! 次の休憩時間に買いに行くから許してちょ!」

 ガヤガヤとした会話を聞きながら、私は席に戻る。頬杖をついてマリの方を見るが、彼女はすっかり、私の友人のマリではなく、クラスメイトの水木麻梨になっていた。

 私たちは屋上以外ではたいして仲がよくない。たいしてどころか、教室の中では必要最低限の会話しかしない。その必要最低限も、すれ違うときに肩が触れた際の「ごめん」と「いいよ」位の、ものを落として拾ったときの「はい」と「ありがとう」位の、本当に会話を必要とする最低限のやりとり程度である。

 現に、初めてマリと屋上で会った今年の春以前に、彼女と会話をしたことなど私の覚えている限りでは一度も無かった。今思えば、あの時感覚的には初対面とも何ら変わらない彼女と打ち解けることができたのが不思議なくらいだ。

 マリが初めて屋上にやってきたのは、五月の――丁度ゴールデンウィーク明け初めての学校の日の昼休みだった。私がいつものように煙草をふかしていると、ドタバタと騒がしい足音と供に、転がり込むように涙でぐちゃぐちゃの顔をしたマリが飛び込んできたのだ。そして、彼女は私の煙草を咎めるでもなく、そもそも立ち入り禁止であるこの屋上に私がいたことに対して驚く様子もなく、唯々、掠れてガラガラになった声で、叫ぶようにこう言ったのだ。

「彼氏に浮気されてた」

 それを私に報告してどうする、と真っ先にそう考えた私であったが、私が口を開くより先にマリは私の隣に座り込みボロボロに泣きながら私に彼氏の愚痴を吐き散らしてきた。最初は戸惑っていた私だったが、適当に打つ相槌に対する「そうでしょう?」「早坂さんもそう思うよね?」というガラガラ声がやけに可愛らしく聞こえて、しかもマリの話す彼氏エピソードがこれまたあまりにも酷くて、面白くなってつい聞いていたら、いつの間にか完全にマリのペースに呑まれていた。

 そして、気がついたら、煙草の火を消して、マリを抱きしめながら、彼女の話を聞いていた。泣きじゃくるマリの背中を、自分でも信じられないくらい、優しく撫でてあげていた。

 そんな衝撃的な出会いから、私たちは約束をするわけでもなく昼休みになると屋上に集い、他愛のない雑談やら、どきつい下世話やら、愚痴やらを話すようになり、気がつけば「マリ」「ちーちゃん」と互いを呼ぶような仲になっていた。

 だが、それも屋上限定の話だ。

 屋上では屋上の、教室では教室の接し方と、何よりそれぞれの立ち位置がある。
 マリはクラスのムードメーカーだが、私はクラスの中でも厄介者のような扱いだ。片や話しやすい人、片や話しかけづらい人。片や中心、片や端っこである。

 私自身、自分がクラスにとって異質な存在であることは、理解している。愛想がないのも、クラスメイトに冷たいのも、目つきが怖いのも理解している。ただ、それが私なのだから仕方が無い。そういう考えが、甘えなのかもしれないけれど。

 そんなクラスの異端児が、ムードメーカーと仲良くしていたらどうなるか。面倒くさいどうこう以前に、マリに迷惑がかかる。
 私がどう思われようとどうでもいい。ただ、マリは、マリが私のせいで誰かに何かを言われるのは耐えられない。

 だから、マリは、教室では私と他人でないといけない。そう彼女に告げたわけではないが、さすが彼女は察しがいい。言わずとも彼女は私と教室では他人でいてくれた。不必要に私に話しかけることもないし、不必要に私に近寄ってくることもない。ここでは「ちーちゃん」とは呼んでくれない。

 だが、だからといって寂しいとか感じたことは一度も無い。ただ、たまに目が合ったとき、向ける視線が、屋上のマリと同じものでさえあれば、それだけでよかった。

 じっと、マリの方を見つめる。すると、聞きたくない雑音が急に耳に飛び込んできた。

「知花、水木さん達のことが気になるの?」

 内臓を撫でられるような気持ちが悪い感覚。
 それを払うように、相手を威嚇するように、思わず舌打ちをする。小さすぎて聞こえなったのだろうか。隣の席の男はかまわないといった様子で話しかけ続けた。

「確かに声でかいよね。俺、ああいうがさつな女ダメだわ。やっぱ、知花みたいな無口な女の方が、」
「お前があいつの何知ってんのさ」

 不意に隣の男が黙る。そのまま、隣を全く見ずに耳にイヤフォンをはめ込み、できる限り大きい音量でマリが勧めてくれたインディーズバンドの音楽を聴き始めた。訳のわからない歌詞と、やたら大きな音のギター。少し耳障りに思ったけれど、それでも、隣にいる男の、このクラスの騒めきを、私の知らないマリの声を聞くより、数百倍ましなように感じられた。

 教室の外を眺める。冷え切った室内からは想像がつかないほどの茹だる暑さに支配されているのであろうその空間を、静かに風が揺らしているのが見えた。


 あれだけ長かった授業も、学校での一日も、過ぎてしまえばあっけなく、一瞬であったかのように感じる。本当に不思議だ。
 ホームルームが終了し、皆が荷物をスクールバックに押し込み、解放されたような顔をして教室から去って行く。部活に入っていれば個々で足早に部活へ向かうのだろうが、そうではない私は帰宅を急ぐのみだ。

 机の中から教科書やノートを引っ張り出し、雑に鞄に押し込み、奴に話しかけられないうちに教室を出ようとしたのだが、今日もダメだった。

「知花」

 舌打ちをする。昼より大きな音を出したつもりだったが、やはり効果は無いようだ。しかも、今度は私の目の前に立ちはだかる形で現れた物だから、姿まで見てしまうことになってしまった。私は目の前に立つ男を睨みつける。だが、男はにやけ顔を貼り付けたまま、私の方へ近寄ってきた。

「なあ、駅の近くに新しくできた店知ってる? 知花が好きそうなケーキの店。奢るからさ、一緒にかない?」
「ケーキは好きだけど、お前とは行きたくない。てか話しかけんな」
「冷たいなぁ、知花」

 何でこの男は馴れ馴れしく私のことを下の名前で呼ぶのだろう。大好きな祖母につけてもらった、大好きな名前なだけあって腹立たしいこと極まりない。ポケットに突っ込んだ手を握りしめながら、なんとかして教室の出口に向かおうとしたが、続けざまに行く手を塞がれる。どういうわけか今日は、意地でも私を帰したくないらしい。拒絶反応で吐きそうだ。

 この男に絡まれているだけで気分が悪いというのに、私の耳にある声が聞こえて来た。

「せっかく誘ってくれてるのに、小山くんかわいそう」

 その声と供に数名の女性が小山の周りにやってきた。
 あぁ、この構図は知っている。面倒くさい奴だ。

 何も知りもしない、顔がいいだけの男に好かれたい奴が、私を踏み台に自分の地位を上げようとしている。その男に好かれたいのであれば好きにすればいいが踏まれるこちらの身にもなってほしい。踏むなら人の心以外を踏めばいいのに。

 女子達何かを言っている。
 面倒くさい。
 顔を真っ赤にして。泣きそうな顔までして。これを機に、気に入らないこと全部言ってやろう。そんなご様子で。
 面倒くさい。
 お前もお前だ。小山。何が、知花はそんな子じゃないだ。お前が私の何を知っているんだ。

 その問いに答えるように、何か生ぬるい物が背中を撫でるような感覚を覚えた。

 この男は知っているじゃないか。少なくとも、私の「腹の中」を。

 そう頭の中で答えが出た瞬間、激しい吐き気に襲われると同時になぜか私は笑っていた。自分でも驚くくらい、大声で、嘲笑うような。そんな笑い声が、耳に、頭に響いていた。

 これにはさすがに驚いたか、小山も女子達も戸惑いの表情と供に静止している。私は腹を抱えながら、小山を見上げ、女子達を一瞥した。

「お前ら、こいつに「無理矢理されても」同じこといえんの?」

 そう言った後のことはあまり覚えていない。だが、今屋上にいるということは、あの軍団をかき分けることができたのだろう。それだけで百点をもらってもいいくらいだ。

 頭に響くような青い空を見上げる。眩しい。青色が目にしみて涙が出そうになる。

 そうだ、煙草を吸わなきゃ。鼻に、肌に残ったあいつの臭いを消さなきゃ。吐き出さなきゃ。肺に溜まった黒い煙を。手が震える。煙草を咥える口が震える。うまくライターのホイールが回せない。火がつかない。思わずライターを床に投げつけた。震えが止まらない。暑い。寒い。汗が滲む。気持ちが悪い。一年前のあの時と同じ、あの時の校舎裏と同じ、生ぬるくて気持ちの悪い、夏の風が――

「ちーちゃん」

 声がして、振り向いた。無様に肩を抱いて、小さくなって震えている私の体をふわりと後ろから、マリが抱きしめた。柔らかく、温かい感触を感じると同時に、思わずこらえていた涙が溢れ出てきた。その涙が頬を伝うと同時に、マリが鼻をすすっている音に気がついて体を起こして、彼女の方を向く。案の定、彼女の目からも涙が溢れていた。

「なんで、マリまで泣いてんの」
「だって、あいつ、むかついて……殴っちゃった」
「え、殴ったの?」
「だってぇ! あいつ、想像以上にくず野郎じゃん! そんな、ちーちゃんに、あいつ、酷いことしてたの、知らなかったからぁ! ちーちゃんに謝れって、ぶ、ぶん殴ったの。二発、グーで」
「な、なんで、そんな」
「だって、友達傷つけられて、怒らない奴なんていないでしょ」

 そう言いながらマリは拳を握りしめる。確かにその拳は赤くなっていた。それが痛々しいと言うより可愛らしくて、こんな可愛らしい見た目のマリがあいつを殴ったという事実が面白くて、そして何よりマリの言ってくれた言葉が嬉しくて、思わず笑ってしまう。

「わ、笑わないでよ!」
「ご、ごめん、正直嬉しくて。ありがと、マリ」

 ぎゅっと、思い切り力を込めて抱きしめる。暖かい。夏の屋上で、暑いはずなのに、全く暑苦しいだなんて感じなかった。むしろ、この温度が心地いいくらいである。

 抱きしめあいながら、笑い泣く。これからどうしようだとか、この後どうなるかだとかは考えられない。ただ、肺に黒い空気が一切溜まっていない、澄み切った気持ちで身体の中が満たされた、今この時間が続けばいいと、そんな刹那主義的な考えしか今は思いつかなかった。

 不意に強い風が吹き、汗で濡れた髪の間をすり抜け、体を包み込んでいく。

「あ、この風」

 マリが呟く。今まで体を撫でてきた物とは違う、涼しく、緑の爽やかな香りを纏った夏の風。私はマリの背中に回した手をほどき、マリの手を握りながら空を見上げ呟く。

「私、この風は好きだ」

 目を閉じる。風の吹く音がする。風が汗と涙を乾かすのを感じると同時に、マリが静かに、私の手を握り返した。

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