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おばあちゃん

 先月、祖母が亡くなった。82歳の誕生日を迎えようとしていた頃、突然の別れだった。

 小学校に上がるまで、父方の祖父母とは向かいの家に住んでいた。母がパートに出ている日には保育園の送り迎えにも来てくれたり、買い物に連れて行っては好きなものを好きなだけ買ってくれたり、事ある毎に世話を焼いてくれた。
 両親が離婚し私が母と二人で暮らすようになってからも、時折会いに行っては可愛がってもらっていた。私が中学生になった頃には祖父が亡くなり、その後飼っていた犬も亡くなって、それからこの数年、祖母は広い家にひとりで暮らしていた。向かいに住む父が様子を見てくれていたが、80を過ぎても祖母はとても元気だった。きっと長生きする、そう誰もが思っていたと思う。

 母から連絡があった時の頭が真っ白になるような感覚を、私は一生忘れないと思う。本当に、本当に突然の別れだった。父が発見した時には既に風呂場で息を引き取っており、後に聞いた警察の見立てではその時点で死後2日ほど過ぎていたらしい。俗に言うヒートショック現象のようなことで、苦しむことなく亡くなったという。死亡したとされる日の晩まで祖母はお姉さんと電話をしており、いつも通りの日常を送っていたことが窺えた。

 父はずっと自分を責めていた。祖母を気にかけていなかったこと、その死にさえ数日気づけなかったこと。実の母を亡くして一番苦しいであろう父を責めることなどもちろん出来なかったけれど、もっと早く気づいてほしかった、と思ってしまう孫としての気持ちも、本当はあった。

 祖母の口癖は「ポックリ逝きたい」だった。病気をしたりして誰かに迷惑をかけることなく、ある日突然眠るように死にたいのだと昔からよく話していた。ほとんど祖母の望んだ通りの死に方で、責めることは出来なかった。でもやっぱり、もっともっともっと生きていて欲しかった。

 孫思いのとても優しい祖母だった。今年のお正月も、遊びに行くからとちらし寿司をリクエストしたら、それだけでなくこんなにも沢山のおかずを張り切って作ってくれた。

 来年も再来年も、祖母の手料理が食べられると思っていた。就職が決まったら真っ先に報告しようと思っていたし、いつか結婚なんかをすることがあったら、きっと式にも来てくれると思っていた。ずっと生きて、ずっと見守っていてくれると信じていた。

 毎日、毎日。祖母が生きられなかった今日を生きている。
 「あなたが死にたいと言った今日は昨日死んだ人たちが生きたかった明日」という言葉が、ずっと大嫌いだった。今だって、他人が生きたかった今日のことなどどうだっていいと思っている。それでも、祖母が生きられなかった今日を、見られなかった景色を、私はこの目で見なければいけない。そんなことを思っている。

 おばあちゃん。ひと月が経った今も、まだおばあちゃんの居ないこの世界が信じられません。あと10年は生きていると思っていたし、お正月に会った時だって100まで生きるならまだ20年はあるね、なんて言っていたのに。結婚するまで生きていて欲しかったよ。おばあちゃんを結婚式に呼ぶことだけが、叶えられないかもしれないけど夢だった。本当に。
 卒業式の袴、ウエディングドレス、晴れ着の私を見て一番喜んでくれるのはきっとおばあちゃんなのに。旦那さんも紹介したかったし、曾孫の顔だって見せたかった。私には贅沢すぎるくらいの幸福な家庭を夢に見ること、どうしても諦められなかったのは、おばあちゃんがいたからなのに。

 輪廻転生も天国も信じていないけれど、もし、もしいつかどこかでまたおばあちゃんに会えるなら。おばあちゃんが話してくれたみたいに、今度は私が歩んだ人生のこと、沢山話をするからね。そのために生きるから、これからも頑張るから、おばあちゃん、どうかそちらで、幸せに待っていてね。

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