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嫉妬につける薬はなくて、妬みが世界を駆けめぐる 第1話【創作大賞2023】

あらすじ
ティリーは憂鬱だった。入社当時から面倒を見ていた後輩がいつしか自分より営業成績がよくなっていた。その彼女と一緒に出張へ出かけることになったのだ。後輩は取引先に宇宙船を七隻販売するという大型契約で、先輩である自分は資料の受け取りという雑用。惨めな気持ちで出張先を訪れたティリーを待ち受けていたのは立てこもり事件だった。運悪くティリーは人質になってしまう。
ティリーを好きだと公言しているボディーガードのレイターは警察の特殊部隊に潜り込む。単独犯と見られた事件の裏で組織が暗躍。追いかけたレイターは怪我をしてしまった。タイムリミットが迫る中、恋の嫉妬と仕事の妬みが入り乱れ、事態は思わぬ方向へ進んでいく。

「わぁい、両手に花だぜ」
 厄病神のレイター・フェニックスは、わたしと後輩のサブリナの顔を交互に見てうれしそうに笑った。

 フェニックス号は、ヨマ星系へ向かっている。大手宇宙船メーカーに勤めるわたしたちは、たまたま同じ時間に、洗剤メーカーのコッペリ社にアポイントが入った。

 サブリナが明るい声で挨拶する
「レイターさん、厄病神が出てこない様に、よろしくお願いしまぁす」
 今回、彼女は新型船七隻の売買契約を締結する。大きな仕事だ。この厄病神の船には乗りたくなかっただろうな。その点では同情する。
「ティリー先輩、わたし、仕事でフェニックス号に乗るの初めてなんです。いろいろ教えてくださいね」

「ホストコンピューターのマザーに聞けば何でもわかるわ」
 ぶっきらぼうに答えてしまった。
「銀河一の操縦士である俺が、手取り足取り教えちゃうよ」
 女好きのレイターがおちゃらけている。
「荷物、整理してきます」
 わたしは自分の船室へと向かった。

 窓の外を星の光が線を描いて流れていく。深く息を吐く。気持ちを落ち着けよう。
 今回、後輩のサブリナは大型契約。一方、わたしは、フレッド先輩に頼まれて、資料を受け取ってくるという雑用仕事だ。
 元々、コッペリ社へはわたしたち営業企画課が、フレッド先輩を中心に新型船の売り込みをしていた。ところが、先方の担当者が誤って隣の法人営業課に問い合わせをし、たまたま窓口となったサブリナが、トントンと話を進めてまとめてしまったのだ。
 わたしたち営業企画課は面白くない。陰では契約を横取りしたサブリナの悪口が飛びかっていた。サブリナは営業成績がいい。
 はあぁ、ため息が漏れる。

 サブリナはすぐ下の後輩だ。彼女が入社した時、わたしは彼女のメンターに選ばれ、社内のことを一から教えた。明るくて、よく気が付くサブリナ。わたしは彼女が好きだった。
 隣の課に配属されたサブリナが初めて契約を取った時は本当にうれしくて、祝勝会を開き、彼女に夕食をおごった。
「ティリー先輩、ありがとうございます。先輩の様になれるようにわたし、頑張ります」と言われて喜び、そんなサブリナをかわいく思った。
 けれど……
 サブリナが月間賞を取ったあたりから、素直に喜べなくなった。

 学生時代の出来事が重なるように頭に浮かぶ。
 わたしは化学が得意だった。苦手だと言うクラスメートに頼まれて、テスト前に一生懸命に教えた。
 終わってみたら彼女の化学の成績は、わたしより良かった。
 たったそれだけの小さな話。
「ティリー、ありがとう」と礼を言う彼女に「今度はわたしに教えてね」と明るく笑顔で応えた。思っていることと別の表情ができるのは人間に与えられた能力だ。
 教室で彼女の姿を見るだけでイライラして気持ちが塞いだ。彼女がわたしをあざ笑っているように感じた。
 そんな自分が嫌だった。彼女は何も悪くない。力が足りなかったのは自分だ。頭ではわかっている。なのに、悔しさと恥ずかしさと苛立ちが入り乱れ、恨めしい気持ちを振り払えない。
 真っ黒なクレヨンを握って自分の心を塗りつぶしていく。力を込めれば込めるほど手がどす黒く汚れる。誰にも知られたくない自分。しばらく忘れていたのに。

 サブリナが隣の部署でよかった。
「契約取れちゃったんです」と笑顔で報告してくるサブリナに、同じ課だったら「おめでとう」と言う余裕がなかっただろう。
 今では社内事情もわたしより詳しい。プライベートでは研究所に勤めるジョン先輩という彼氏もいる

 一体どこで差がついてしまったのだろうか。

 今回、コッペリ社へ厄病神の船で行くことが決まって、隣の席のベルに言われた。

「良かったじゃん。契約だったらレイターの船で行くのは御免だけど、どうせ頼まれ仕事でしょ」と。
 フェニックス号は厄病神の船と呼ばれ、仕事がうまくいかない、というジンクスがある。わたしもこれまでに大規模デモに巻き込まれたり、テロに襲われたり、散々な目に遭ってきた。
 ベルの言葉を聞いてわたしは、恐ろしいことが頭に浮かんだ。厄病神の船で出かけて、サブリナの契約が失敗すればいいのに、と。
 手が真っ黒に汚れたような感覚に襲われ、頭を思いっきり左右に降る。
 そういう事を考えていると、自分が失敗するのよ。とにかく、わたしは自分の仕事をしっかりやり遂げなくては。
 と、気合を入れてさらに落ち込む。
 そんな大層な仕事ではないのだ。わたしの仕事は、コッペリ社の事業計画資料を受け取ってくる、というもの。
「大事な資料だから。よろしく頼むよ」

 と、フレッド先輩は言ったけれど、はっきり言って誰でもできる。
 頭が重い。眉間の奥がツンとする。骨に皮膚が張り付いてしまった様な嫌な感じ。
 頭痛、いや、これはストレスだ。

「食事できたぜ」
 インターフォンからレイターの声が聞こえた。食欲もないし顔もあわせたくない。かと言って気を使われるのも嫌だ。きょう何度目かわからないため息をつきながら、わたしはゆっくりと腰を上げた。

「すごいですね。フェニックス号のキッチンは」
 エプロンをつけたサブリナが興奮している。
「わたし、料理が好きなんです。炎が出るコンロ、憧れです」
 フェニックス号には電磁調理器の他に、宇宙船には珍しく業務用のガスコンロが備え付けてある。サブリナに悪意はない。なのに、料理が下手なわたしへの当て付けに聞こえる。
「料理好きの彼女を持って、食いしん坊のジョン・プーは大喜びだろ」

「わたしの手料理、なんでも、喜んで食べてくれるんですよぉ」
 明るくのろけ話を聞かされる。
「今日の野菜炒めは、サブリナさんのお手製だぜ」
 レイターがダイニングテーブルへお皿を運んできた。ガーリックの香りが鼻の奥を刺激する。サブリナが作った野菜炒めは文句なく美味しかった。食欲がなかったはずなのに手が伸びる。

「こりゃうめぇ。ジョン・プーがうらやましいぜ」
「ありがとうございます。やっぱり、火で炒めるのは違いますね。それに、包丁もそろっていて、レストランの厨房みたいです」
「へへん、俺、調理師免許持ってるから」
 五つ星レストランのシェフに鍛えられたレイターの腕は確かだ。
「プロだったんですね。納得です」
「サブリナさんは、あすの晩はジョン・プーと祝勝会かい?」
「はい、ソラ系のお店を予約してます」
 サブリナがうれしそうに笑う。大型の契約を取って、彼氏と祝勝会のディナーとは。羨ましい限りだ。
「店なんて予約しなくても、俺が豪勢な料理作ってやったのに。ヨマ牛はうまくて有名なんだぜ。土産に買って帰ろうと思ってんだ」
「どうぞ、ティリー先輩と食べてください」
「そうするかい、ティリーさん」
 普段はのんびりできるフェニックス号の居心地が悪い。頭痛がひどくなってきた。
「ティリーさん、どうした?」

 レイターがわたしをじっと見た。ボディガードでもある彼は、見た目によらず細かいところにすぐ気づく。
「何でもないわ」
「ならいいけど。明日はサブリナさんが七階の開発管理課で、ティリーさんが十五階の経営総務課だよな。俺、サブリナさんについて行くけど、ティリーさん大丈夫かい? あんた方向音痴だから」
「大丈夫です。サブリナの契約の方が大切でしょ」

 声を荒げてから、自虐的な発言だったと気付いた。
 レイターは気にするでもなく明るく言った。
「じゃ、ティリーさんは仕事が終わったら、一階のロビーで待っててくれ」
 どう考えても、サブリナよりわたしの仕事の方が早く終わる。どうしてサブリナの契約の日に、こんな仕事頼まれちゃったんだろう。

 コッペリ社の自社ビルは、古めかしい石造りの建物だった。今時珍しいけれど、老舗らしいと言えば老舗らしい。
 一階ロビーの待ち合わせ場所を確認し、レイターたちと別れた。最上階行きのエレベーターに乗り込む。
 コッペリ社は、創業ニ世紀の大手洗剤メーカー。去年発売した速乾洗濯洗剤のフイールが爆発的に売れて、商品番付で一位を取った。とにかく洗濯物がすぐに乾くのだ。新技術を採用した、というその洗剤をわたしも愛用している。白い液体洗剤のフイールはミント系のクールな香りがする。洗濯機にかけてから自動でクローゼットに並ぶまでの時間が圧倒的に速い。家事の時短は働く女性の味方だ。

 レイターが言うようにわたしは方向音痴だ。助かったことに、このフロアはドアが少ない。
 経営総務課と書かれた看板をしっかり確認し、インターホンを押す。
「クロノス社のティリー・マイルドです。十時のお約束で参りました。バッハさんを、お願いいたします」
「はいはい、バッハです」

 ドアが開き、年配の男性が出てきた。優しそうな雰囲気の人だ。
「こちらへどうぞ」
 資料を受け取るだけだと言うのに、奥へと案内され椅子を勧められた。
「出張の土産で、おいしい紅茶をいただきましてね。いかがですか?」
 色鮮やかなパッケージはおいしそうだ、断るのも悪い気がした。どうせ一階ロビーでサブリナを待つだけの身だ。
「お言葉に甘えて、いただきます」
 バッハさんは棚からカップを取り出し、丁寧にお湯で温め始めた。
「フレッドさんから頼まれた資料はこちらです」
 ディスクの入った小さな封筒パックを受け取る。
「ありがとうございます」
 これで仕事は終わった。
「わざわざご足労すみませんねえ。フレッドさんには転送する、とお伝えしたんですけどね」
 バッハさんの何気ない一言がわたしを傷つける。転送できる程度の資料ということだ。でも、せっかくここまで足を運んだのだ、フレッド先輩の狙いは、顔を合わせて営業してこい、ということじゃないだろうか。配布用のデジタルパンフレットは持ってきている。
「この後、ほかの皆さまにも、ご挨拶させていただければと思いますが、いかがでしょうか?」
 わたしの提案に、バッハさんが申し訳ないと言う顔をしながら、ティーポットに茶葉を入れお湯を注いだ。香ばしい香りが立ち上る。
「皆、忙しくしてましてね。出払っているんですよ。僕は来月定年で、資料整理などさせてもらっているけれど」
 フイールの大ヒットで外回りに出ている人が多いのだろう。オフィスは閑散としていた。何のためにわたしはここへ来たのだろう。下の階で後輩が大口契約を結ぼうとしている時に。
「こちらに、パンフレットを置いていきますので、皆さまにもお渡しいただければ幸いです」
「わかりました」
 バッハさんはゆっくりと蒸らして抽出したお茶を、回転式の茶こしを手にしてカップに注いだ。真っ白なティーカップに、透き通ったオレンジ色のティーが映えていた。
「どうぞ」
 口にした瞬間、甘い香りが目の奥に抜けていった。ハーブティだ。尖った心がまろやかな匂いにくるまれる。
「おいしいです」

 バッハさんがにっこりする。
「ゆっくりしていって下さい。今回は残念でしたね」
「え?」
「新型船の大型契約が、隣の課に決まったと聞きましたよ」
 フレッド先輩が伝えたのだろうか。
「弊社から船をご購入いただき、感謝しております」
 当たり障りのない応対をしておく。 
「この部署へ来る前は営業の第一線にいましてね、私は他社より自分の社の同僚に契約を取られるのが嫌でしたよ」
 そう言ってバッハさんが笑った。
 サブリナの顔が頭に浮かんだ。

「そのお気持ち、わかります」
 つられてうなずく。
「まあ、今回うちと契約を結んだ御社の担当者は、随分と丁寧な仕事をされていたようですからね」
 サブリナが契約を横取りしたことは知らないのだろう。わたしは話題を変えた。
「フイールは素晴らしいですね。わたしも使っていますけど、働く女性としては本当に助かっています」
「ありがとうございます。いい商品でしょ。私は女性だけでなく男性にも評価されているのが嬉しいんですよ」
 そういえばフェニックス号もフイールを使っていた。家事の多くは自動化されているけれど、女性が担当することが多い。料理や手芸が得意な女の子は人気がある。わたしはどちらも苦手だ。料理上手なサブリナがまた頭にちらついた。
「フイールの大ヒットは、男性客を取り込めた点にあるんでしょうか?」
「そうですね。でも、いい製品もここまで売れると営業としては面白みに欠けますな」

「そうですか?」
「私は、売れないと言われていた洗剤を売った時が一番嬉しかったですよ。営業冥利に尽きますからね。何もしなくても売れてしまっては、営業の出番がないじゃないですか。困ってしまいますよ。ははは」
 随分と贅沢な悩みに聞こえた。それにしても、バッハさんは話し上手な人だ。優秀な営業マンだったことがうかがえる。

 とその時、
 リリリリリリ……

 火災報知器の音がした。耳障りな音だ。
 首をかしげてバッハさんが立ち上がった。
「火事ですかね」
 嫌な予感がする。

 厄病神の顔が頭をよぎった。   

* *

 レイターは、サブリナとともにコッペリ社の七階にいた。 
「こちらへどうぞ」
 円柱形のボディーに球体の顔が乗った旧式の受付ロボットが、開発管理課のドアを開け、サブリナさんと俺を応接室へと案内する。
 さすが今話題の企業。活気あふれる職場ってやつだ。管理セクションと営業が隣り合わせのこのフロアは、通信機の着信音と忙しそうな会話がオフィス中に響いている。

 アーサーの奴に集積カメラを極秘に設置しろ、って頼まれたのが、ここコッペリ社七階の開発管理課。この部署は速乾洗濯洗剤フイールの企業秘密を管理している。
 俺は部屋に入る際、ドアの横にこっそりと直径五ミリの集積カメラを張り付けた。壁の色と同化させる。ちょろいもんだ。
 これで俺の仕事は終わり。あとはアーサーの仕事だ。

 去年発売された速乾洗剤は画期的だった。
 落ち込んでいたコッペリ社の株が急騰し、フイール特需でこの本社ビルを建て替えるという噂があるほどだ。確かにこのビルのセキュリティは甘すぎるな。

 天才軍師のアーサーによれば、敵のアリオロン軍がフイールの開発資料を狙っているという。
「フイール? よく乾いて便利な洗剤じゃん。俺も使ってるぜ」
「連邦軍でも導入している。速乾は戦地でも有効だ」

「それをアリオロン軍も導入したいってか? 金出して買えよ。買う金がないのかよ」
「そのようだ」
「あん?」
「冗談だ」
 と言ってからアーサーは眉間にシワを寄せた。
「理由がわからないから、探るんだ」

 速乾洗剤フイールは、企業秘密ということで原料も製法も明らかにされていない。そのフイールの資料が入ったデータ金庫に、先日、不正アクセスがあった。が、幸いなことに最新のセキュリティシステムが優秀で、侵入されなかった。
 警察が調べたところ、アリオロン軍のハッカー集団による犯行と判明し、連邦軍が対応することになった。デジタルで失敗した奴らが、次はコッペリ社の本社にある現物の資料を盗みにくる可能性がある。ということで、コッペリ社には内緒で将軍家のアーサーが統括する特命諜報部が警戒することになった。なぜ、民間の洗剤技術を欲しがっているのかアリオロン軍の狙いを探りたいと。

 コッペリ社の耐火ロッカーの中に、フイールの資料が保管されている。あの壁面ロッカーがそれだな。俺が仕込んだ集積カメラの撮影範囲にばっちり入ってる。
 社員が帰る時には三重のロックをかけているが、勤務時間中の今なら暗証番号キーと個人認証だけだ。俺なら楽に盗める。闇で高く売れそうだな。
 現場を横目で観察しながら奥の応接室へサブリナさんと一緒に入る。
 受付ロボットは人工アームを使って俺たちにお茶を出した。紙コップに入ったインスタントの作り置き茶。
「誠に申し訳ありません。担当者が少し遅れます」
 感情のこもっていない声で、俺たちに謝った。

* *

 この人のことは、よくわからないな。後ろからついてくるレイターをちらりと見ながらサブリナは思った。フリーランスの操縦士でボディーガード。彼氏のジョンとは学生時代からのつきあいで、名門セントクーリエ校の出身。料理も上手で、使える人物なのは間違いないのだけれど、厄病神と呼ばれるだけあって、つかみどころが無い。

「誠に申し訳ありません。担当者が少し遅れます」
 旧式の受付ロボットが、お茶を出しながら謝る。時間通りにスタートしない、というのは厄病神のせいなのだろうか。予想外の出来事はわたしを不安にさせる。
 安っぽいお茶を飲みながら担当者の到着を待った。すっかりくつろいでいるレイターさんに話を振ってみる。
「ティリー先輩、大丈夫でしょうか?」

「あん?」
「昨日、先輩の様子がおかしかったので」
「サブリナさんは気がついてるんだろ、ティリーさんの元気がなかった理由」
 レイターさんがニヤリと笑った。鋭い人だ。
「わたしのせいじゃありません」
「もちろん、ぜ~んぶ、フレッドのせいさ」
 一週間前、コッペリ社との売買契約の日取りが決まり、配船室に宇宙船の予約をお願いすると、ちょうど同じ時間にフェニックス号がコッペリ社へ行くので、同乗するように言われた。
 ピンときた。これは、わたしに対する嫌がらせだ。
 厄病神のフェニックス号で出かければ、契約がつぶれると考えたフレッド先輩が、わたしの契約に合わせて、どうでもいい仕事をコッペリ社に入れたのだ。あの人は、厄病神のジンクスを信じている。

 情報を集めて調べてみた。レイターさんが出かける先で、トラブルが多く発生しているのは確かだ。偶然にしては多すぎる。大規模デモテロハイジャック……
 レイターさんには危険手当が増額して支払われていた。この人は、リスクの高い地域を仕事として選んでいるに違いない。それだけ優秀ということの裏返しだ。わたしはヨマ星系を徹底的に調べた。リスク情報はでてこない。船を変更する理由は見つからなかった。

 いずれにしても、わたしへの嫌がらせで仕事を頼まれてしまったティリー先輩はかわいそうだ。先輩にだってプライドはある。
 不機嫌な様子を隠せないところが、ティリー先輩の人間らしいところだ。

 わたしのことを妬んで、面白く思っていないことがみえみえ。でも、足を引っ張ろうとはしない人だから、害はない。
「器用なサブリナさんと違って、俺のティリーさんは不器用だからな。あんたなら、フレッドのあんな仕事受けねぇだろ?」
 その通りだ。わたしなら絶対受けない。先輩の頼みと言っても、断る理由はいくらでも見つけ出せる。あんな事業資料、転送してもらえばいいだけのことだ。
 レイターさんは、ティリー先輩のことが好きだ。「俺のティリーさん」と公言してはばからない。
「好きな人のことを、悪く言っちゃダメですよ」
「いやいや、あれは、ティリーさんのいいところなんだぜ。サブリナさんは、ありとあらゆる情報を先回りして集めてるじゃん。そうやって計算してねぇと不安なんだろ?」
 この人の観察眼は相当なものだ。
「まあ、そうですね」
「ティリーさんは、数字が得意なアンタレス人のくせに計算が苦手なのさ。不器用な上に感覚や感情が先にくる。人から頼まれたら受けなくちゃ申し訳ない、ってな」
 本当にそうだ。真面目で一生懸命なのは伝わってくるけれど、要領はよくない。
「だから、真っ当で強い」

 わたしの中に疑問符が灯る。レイターさんの言っている意味がよくわからなかった。
 惚れた欲目か。あばたもえくぼか。恋愛は人の目を曇らせる。優秀なレイターさんもティリー先輩に関しては、判断がおかしくなるようだ。と、思ったことをそのまま口に出したりはしない。
「流石レイターさん、ティリー先輩のこと、よく見てますね」
「そりゃ、俺のティリーさんだもの。で、サブリナさんはジョン・プーのどこが好きなんだい?」
 一瞬答えに詰まった。でも、わたしはこの質問に対する一般的な正解を知っている。
「全部に決まってるじゃないですか」

にっこり笑って答えた。 

 * *

 サブリナさんと話しているとわかる。仕事ができる。細かいところによく気が付く。それにかわいい。ジョン・プーが惚れるわけだ。

 それにしても、サブリナさんはジョン・プーのどこが好きなんだろう。ジョン・プーは頭が良くていい奴だけど、昔から女性と話すのが苦手だ。俺は興味があった。
「サブリナさんはジョン・プーのどこが好きなんだい?」
「全部に決まってるじゃないですか」
 にっこり笑って嘘のつける女性も、俺は嫌いじゃねぇ。

 コッペリ社の男性担当者が頭を下げながら部屋へ入ってきた。
「どうもすいません。直前にお客様から通信が入ってしまって」
 勢いのある会社、ってのは雰囲気が明るい。男も社交辞令以上の笑顔を見せている。
「フイールのおかげで出張が増えたものですから、ここで一気に船を新しくすることにしたんですよ」
「ありがとうございます」

 サブリナさんが契約ボードを開いた。七隻の新型船契約。安い買い物じゃない。
 細かい契約書を先方が慎重に確認する。
 俺とサブリナさんはじっと待つ。まあ、事前に契約書は法務部門含めて双方で付き合わせているから、ひっくり返ることはまず無い。特にサブリナさんは水も漏らさない程詰める。ティリーさんとは大違いだ。
 それでも、難癖つけられると面倒だから、サブリナさんが緊張してるのがわかる。
 先方が顔を上げた。
「確認しました。じゃあ、これでお願いします」
「こちらにサインを」
 サブリナさんが渡した電子ペンで、コッペリ社の担当者がサインした。サブリナさんの肩から力が抜けた。 
 契約完了だ。
「来週には納船いたします」

 二人は笑顔で握手をかわした。

 とその時、
 リリリリリリ……

 警報音が館内に鳴り響いた。
「火災報知器ですね、このビル古いんで、よくなるんですよ」
 コッペリ社の担当者はのんびりしている。 
 俺の直感が騒ぐ。嫌な感じだ。何か起きてるな。
「サブリナさん、とっとと帰るぜ」
 契約ボードをカバンに入れたサブリナさんの手をとる。

 リリリリリリ……

 警報が鳴り続ける。
「変ですねぇ」
 男もおかしいと感じたようだ。部屋の横のドアから一緒に廊下へ出る。
 エレベータホールは人であふれていた。上から来るエレベータは定員を超えていて止まらない。
「階段で降りよう」
 廊下にできた列に並び、七階からのろのろと階段を下へ降りる。

 ティリーさんはどうしてる? 

 もうこの時間なら、一階のロビーに降りてるはずだ。腕の通信機でティリーさんの位置情報を確認する。思わず二度見した。信じらんねぇ。ティリーさんはまだ十五階にいる。資料受け取るだけだ、ってのに、一体何やってんだよ。茶でも飲んでたのかよ。 
 俺がさっき張り付けた集積カメラの映像を、アーサーは近くで見ているはずだ。
『何が起きてる?』
 人の流れに沿って階段を降りながら、片手で通信機に文字入力し、アーサーに送信した。
 即座に、耳に入れた無線からアーサーの低い声が返ってきた。
『コッペリ社の最上階で立てこもりが発生した。今からそちらへ向かう』
 な、何ぃ? 

 俺は思わず声に出しそうになった。最上階はティリーさんのいるフロアーだ。天井を見上げる。このまま駆け上って、すっ飛んでいきてぇが、今は無理だ。人混みで身動きが取れねぇ。
 七階にアリオロンの盗人が来るんじゃなかったのかよ。立てこもりなんて話は聞いてねぇぞ。とりあえず、サブリナさんを安全な場所へ避難させねぇと。
 俺は通信機の周波数を警察無線に合わせた。
『緊急通報によると、犯人は銃を手にしている』
『十五階にいた社員らが、人質に取られている』
 おいおい、勘弁してくれ。俺のティリーさんがいるんだぞ。階段を降りるゆっくりなペースがもどかしい。こいつら蹴倒して走り抜けてぇ。

「外へ避難して下さい」
 一階ロビーは大混乱だ。念のため待ち合わせ場所を見るが、ティリーさんの姿はない。人の波からサブリナさんをかばいながら、ビルの外へ出る。
 警察車両のサイレンが、けたたましく鳴り響いていた。
「十五階で立てこもりが発生したらしい」と口々に人が話している。
「ティリー先輩、どこにいるんでしょうか? これじゃ会えないですね」

 サブリナさんが心配している。
「ティリーさんは、まだ十五階から降りてきてねぇんだ」
 サブリナさんの目が大きく見開かれた。
「資料受け取るだけなのに、どうして? 今、十五階で立てこもりが起きているって、言ってますよね?」
 信じられないと言う顔をしている。俺だってそうだ。
「大丈夫、俺が助けに行くから」
「レイターさんって、本当に厄病神なんですか?」
 サブリナさんの声が震えている。想定外に備えて情報を集めるサブリナさんの想定を超えた事態だからな。
 俺は安心させようと笑顔で答えた。
「そんな顔しないで。せっかくの美人が台無しだぜ。厄病神の登場がサブリナさんの契約が成立した後で良かったじゃん」

 サブリナさんはニコリともしなかった。

 その時、俺は見知った顔を見つけた。
「おい、カルロス」
 将軍家の下僕のカルロスは、サラリーマンのような目立たないスーツを着ていた。潜入捜査中か。
「レ、レイターさん」
 俺に見つかったのが面倒くさい、って思ってるのが手に取るようにわかる。文句は言わせねぇ。
「カルロス、あんた、こちらのサブリナさんをフェニックス号へ送れ」
「申し訳ありませんが、僕は仕事中なんで」

「俺のティリーさんが十五階にいるんだよ。勝手に動くぞ」
 将軍家秘書官のカルロスの任務は、アーサーの仕事が円滑に回るようにすること。俺が勝手に動くと聞いて慌てている。カルロスは頭の回転は悪くねぇ。何と言っても天才軍師アーサーの影武者だからな。
「待ってください。女性をフェニックス号へお送りします。ですから、勝手な行動はしないでください」
「サブリナさん、こいつ、腕はいいから、安心して船で待っててくれ。俺はティリーさんを連れて帰るから」
「は、はい」
 カルロスに任せとけば間違いはねぇ。さて、ティリーさん待たせたな。

* *

 リリリリリリ……
 甘い香りの紅茶を飲んでいる時だった。火災報知器の音をティリーは聞いた。
 バッハさんが、白いティーカップを置いて立ち上がった。
「火事ですかね。避難しましょう」
 部屋の外へ出るとオフィスから騒がしい声がした。何やら異様な雰囲気だ。
 ドアの前で男性社員が固まっていた。
「ここから動くな!」」
 奥から男の人の怒鳴る声が聞こえた。「動くな」と言われても火事だったら逃げない訳にはいかない。何をもめているのか。
 カウンター越しにオフィスをのぞいたわたしは、身体が硬直した。

 スーツを着た白髪の男性が、銃をわたしたちに向けた。
「全員人質だ。動くな」
 これは、厄病神の発動だ。
 レイター、何とかして!! わたしは心の中で叫んだ。  

* *

 レイターは、コッペリ本社前に停車している警察の指揮車へと向かった。
 銀河警察は基本的に信用してねぇ。だが、俺はボディーガードだ。警備部とは付き合いがある。
 こういう案件の時には、警備部特殊部隊長のあいつが現場へ来てるはずだ。
 ほら、いた。
 指揮車の前に立つ、背の高い隊長の後ろ姿に声をかける。
「なあ、バルダン、頼みがあるんだけど」
 短髪で三白眼のバルダンが振り向いた。

「何だおまえら、二人して」
 二人してだと? 
 振り向くと俺の後ろにアーサーが静かに立っていた。
「ネゴシエーター、交渉人のアーサー・ブラウンです」 
 偽名でアーサーが頭を下げた。スーツに眼鏡。これで変装したつもりかよ。

「アーサーの話は警視総監から聞いている。レイター、おまえの頼みってのは何だ?」
「突入部隊に入れてくれ。俺のクライアントが十五階にいるんだよ」
 俺一人でティリーさんを助けに行くより一番確かな方法だ。バルダンの部下たちは優秀だ。
 バルダンが俺に近づいた。
 俺は、慌てて手を引っ込めた。危ねぇ。バルダンの奴、俺の指をつかもうとした。
「ふむ、訓練は怠っていないようだな」
 バルダンは鼻で笑った。指をつかむだけで人を殺せる男。今の一瞬で俺は脇の下に汗をかいた。

 バルダンとの付き合いは十年以上になる。
 ガキの頃にはアーサーと乗ってた戦艦アレクサンドリア号で、格闘技の基礎をバルダンに習った。「一に練習、二に訓練」が口癖だ。
 バルダンは連邦軍の特殊部隊に引き抜かれた後、軍を辞め、警察に転職した。
 管理職になった今でも全く衰えてねぇ。昔と変わらず訓練を積んでるな。
「じゃあ、俺が教えた通りしっかり働けよ」
「アイアイサー。あんたも張り切り過ぎて、腰痛めるなよ」

「フン、俺を年寄り扱いするな」
 懐かしい会話に、俺は思わず笑った。

* *

「全員人質だ。動くな」
 銃を向けられたティリーは、心の中でレイターに助けを求めた。
 レイター、何とかして!!
 十五階のオフィスにはわたしとバッハさんのほかに、コッペリ社の若い男性社員がいた。その男性社員が、恐る恐る、銃を手にした白髪の男性に声をかけた。
「ワトキンスさん、落ち着いて下さい」

 パリーン。

 ワトキンスと呼ばれた男性が発砲した。
 大きな音を立てて窓ガラスが割れた。身体中が縮こまる。本物の銃だ。
 若い社員が震えながら後ずさりした。男は銃をわたしたちに向けながら言った。
「お前たち、わしの近くへ来い」
 逃げられない。
 わたしはバッハさんの後ろについて、ゆっくりとカウンターで仕切られたオフィスの中へと入った。犯人とわたしたちの間は三メートルぐらいしかない。手も足も自分のものじゃないみたいだ。これは、どこからどう見ても、立てこもり事件だ。
 どうして、こんなことになっちゃったんだろう。絶対、厄病神のせいだ。
「おい、女」
「わ、わたしですか?」
 この場に女性はわたししかいない。犯人と目があった。
 眼鏡をかけた痩せた男性。真っ白い髪の感じからすると五、六十代だろうか。

「男たちの手を後ろ手にして、テープで縛れ。変な動きを見せるなよ」
 犯人から、オフィスにあった太目の梱包テープを投げ渡される。
「早くしないと、撃ち殺すぞ」
「は、はい」
 銃がわたしに向いている。手が震えてテープがうまく巻けない。
「ごめんなさい」
 謝りながら、わたしはバッハさんと男性社員の手を背中側で縛った。
「終わったら女は、こっちへ来て、椅子に座れ」
 犯人の横にオフィスチェアが置かれている。
 バッハさんがわたしの前に出て、身体で庇う。
「この人は、うちの会社の人じゃないんです。私がそちらへ参ります」
「うるさい。コッペリ社の社員じゃなくてもいいんだよ。わしには一番弱そうな奴が必要なんだ。文句言うな」
 犯人からすれば、自分の近くに置いておくのに、非力なわたしが都合いいというのは容易に想像がついた。
 犯人の隣に座ると銃が突き付けられた。これは、最初に殺される係だ。足が震えてきた。

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
 わたしは、フレッド先輩のお使いで、書類を受け取りに来ただけなのに。

* *

 コッペリ社地下一階の警備室に、現地対策本部が置かれた。立てこもりの現場である十五階の防犯カメラの映像が、複数のモニターに映し出されている。
 レイターは天井カメラの映像を凝視した。
 犯人は一人、人質は三人。ティリーさんが銃を手にした白髪男の横に座らされていた。俺の頭ん中はクールだが、胸ん中は怒りで煮え立っていた。 
「あの野郎、俺のティリーさんに銃を向けやがって、絶対、許さねぇ」

 アーサーがバルダンにたずねる。
「犯人の身元は割れていますか?」
「ああ、入館リストと顔認証から判明した。ノア・ワトキンス、五十八歳。コッペリ社のライバル会社であるハルタナ社の元研究員だ」

 コッペリ社の担当者が補足説明する。
「ワトキンス氏は、これまでも自分のアイデアがロットリンダ研究員によって盗まれた、と再三クレームを繰り返しておりまして、きょうも総務部が苦情対応をしておりました」
 ロットリンダ研究員。
 その名前に聞き覚えがある。テレビで見たな。速乾洗剤フイールの開発者だ。

 イケメンすぎる研究者、とか言って取り上げられていたぞ。
 コッペリ社の担当者が一息入れた後、続けた。
「ロットリンダは以前ハルタナ社でワトキンス氏の元部下でした。三年前に弊社に転職してきたんです」
 ヘッドハンティングか。
 アーサーが振り向いた。

「カルロス、ワトキンス氏とロットリンダ氏について調査を。クレームの詳細を聞き取ってください」
 サブリナさんをフェニックス号に送り届けて戻ってきたカルロスが立っていた。
「はっ」

 将軍家のポチが姿勢を正して部屋から出ていった。
「とりあえず、ワトキンス氏と交渉を始めますか」
 アーサーはゆっくりと立ち上がり通信機の前に立った。

* *

 フェニックス号に到着したサブリナは、身体の震えが止まらなかった。どうすればいいのだろう。私をここまで連れてきてくれたカルロスさんは
「現場へ戻りますので、失礼いたします」
 と帰っていった。
 一人にしないで、と言いたい気持ちを必死でこらえる。わたしは極度の心配性なのだ。不安でたまらない。

 まず、会社に報告を入れなくては。アディブ先輩に通信を入れる。
「先輩、取引先のコッペリ社が大変なことに」
「レイターから連絡が入ってるわ。サブリナはフェニックス号に着いたのね」
「はい。でもティリー先輩がまだ残っていて」
「大丈夫よ、レイターが救出に向かったから。あなたは、そこで待機していて頂戴」
「わかりました」
「契約が完了してよかったわね。厄病神があと五分早くでてきたら大変だったわ。とにかく、おめでとう」

「あ、ありがとうございます」
 よくこんな時に契約のことを笑顔で話す余裕がある。いつも思っていたけれど、アディブ先輩は普通じゃない

 フェニックス号の居間にあるテレビを付けた。とにかく、情報を集めなくては。
 地元チャンネルは、どこも立てこもりのニュースを特別番組で放送していた。コッペリ社から二百メートル以上離れた規制線の外から中継している。
 十五階建てのコッペリ社のビルはそんなに高くない。ほかのビルの影になっていて、本社の様子はほとんど見えない。
 腕章を着けた記者やカメラマン、あふれ返る脚立と三脚が、現場近くの緊張感を伝えている。
「人質の情報が入ってきました。コッペリ社の十五階では社員ら三人が人質になっている模様です。女性が一人います。この女性は社員ではなく取引先の関係者ということです」
 これはティリー先輩のことだ。

 そんなに時間のかかる仕事じゃなかったのに、どうして先輩はこんなことに巻き込まれているのだろう。さっぱり、わからない。
 ホストコンピューターのマザーを使って、情報ネットワークを検索する。どれも、噂の域を出ていない。人質を全員殺す、という、たちの悪い書き込みもあった。モニターを見ているだけで不安が増幅する。 
 さっき、レイターさんに言われたばかりだ。
「サブリナさんは、ありとあらゆる情報を先回りして集めないと不安なんだろ?」

 その通りだ。心配性なわたしは、情報の収集と計算をやり尽くさないと不安で不安で仕方がない。わたしが欲しいのは正確な情報だ。誤った情報をいくら集めても判断を狂わせる。
 『コッペリ社 立てこもり情報』というまとめサイトに、大手メディアの情報が整理されていた。ソースが信頼できそうだ。交渉人が対応に当たると書かれていた。
 このフェニックス号にいれば、安全なのはわかっている。それでも、最悪の事態、という恐怖に押しつぶされそうだ。
 誰でもいい。そばにいて欲しい。彼氏であるジョンの顔が頭に浮かんだ。

 きょう、ジョンは大事な舞台に立っている。連絡はできない。でも、呼んだらきっとあの人は来てくれる。 
 レイターさんに聞かれた質問が頭に浮かんだ。
「サブリナさんは、ジョン・プーのどこが好きなんだい?」
 レイターさんに答えなかった本当の答えを、自分はわかっている。ジョンはわたしを好きでいてくれる、それが答え。

 わたしに惚れている彼は、わたしの頼みを何でも聞いてくれる。
 わたしが側にいて欲しいと言えば、すぐに来てくれる。
 無理を言っても、文句ひとつ言わない。
 それが、わたしがジョンと付き合っている理由。

* *

 コッペリ社十五階の総務部。
 ティリーは、立てこもり犯のワトキンスに銃を突きつけられていた。バッハと若い男性社員は、少し離れた床に座らされている。
 オフィス机の上にある固定通信機のスピーカーから、男性の声が響いた。「ノア・ワトキンスさん、聞こえますか。私は、今回の交渉を務めるネゴシエーターのアーサー・ブラウンと申します」
 聞き覚えのある落ち着いた声。
 ティリーは、急に目の前が明るくなったように感じた。 

 偽名を使っているけれど、アーサーさんだ。連邦軍将軍家の御曹司で天才軍師。アーサーさんならきっと解決してくれる。
「ワトキンスさん、あなたの要求を聞かせてください」
 犯人のワトキンスさんが受話スイッチを押す。モニターに黒髪を後ろで束ね、眼鏡をかけたアーサーさんの姿が映った。
「交渉人、よく聞け。要求を伝える。コッペリの社長とロットリンダをわしの前へ連れてこい」
「代表取締役社長とロットリンダ研究員を、本社の十五階へお連れしろということですね?」

 アーサーさんがゆっくりと復唱した。
「そうだ、社長はフイールが産業スパイによって開発されたことを認めろ。そして、スパイのロットリンダは私に謝罪しろ」
 ロットリンダさんのことはメディアを通じて知っている。フイールの開発者。イケメンすぎる研究者だ。

「二人の所在を確認いたしますので、その間、お待ちください。金品の要求等はございませんか?」
「とにかく、わしの名誉を回復するんだ。早くしないと、人質を殺すぞ。これを見ろ」
 ワトキンスさんが、五センチほどの透明なボトルを胸のポケットから二本取り出した。ガラス製だろうか。牛乳のような白い液体と、透き通った青い液体が入っている。
「白い液体は、XKZだ」
 XKZ? 化学は得意だったけれど、聞いたことがない物質だ。人質のバッハさんが怯えた表情で目を見開いた。
「ま、まさか」
 ワトキンスさんがバッハさんに銃を向けながら言った。
「お前、これが何に使われているか言ってみろ」

第2話に続く

#創作大賞2023 #お仕事小説部門


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ティリー「サポートしていただけたらうれしいです」 レイター「船を維持するにゃ、カネがかかるんだよな」 ティリー「フェニックス号のためじゃないです。この世界を維持するためです」 レイター「なんか、すげぇな……」