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『ホーランジア』15 見上げた夜空に

筒入りポテチにクッキー、キャンディやキャラメル、醤油せんべい。たくさんのお菓子と、外袋を開けたら温まってホカホカを食べられる非常食のパック、薬や便利グッズの数々を、リュックから全部だして昇さんに見せた。

「すごいな……少し食い伸ばせばひと月はいけるぞ。ラムネは未来でも同じなんだな!」
「うん。ガラスじゃない容器で売っているのもあるけど、これ見たら昇さん喜ぶかなと思って」
「喜ぶにきまっているだろう! 懐かしいなぁ」

昇さんは23歳の男の人とは思えないほどの無邪気さで目を輝かせた。私の持ち物をひとつひとつ手に取っては興味深く眺めている。だけど、そんな嬉しそうな昇さんに、告げなくちゃならないことがあるんだ。そのために来たんだから。

「昇さん、これから私が言うこと、よく聞いて欲しいの」
「日本は、負ける。そういう話か?」
「え!? どうしてそれを」

昇さんはいつにも増して冷静に言い放った。それは私がこれから話すことの最重要事項で、どう切り出して話せばいいか、まだ迷っていたこと。

「輜重兵はな、要は運搬係だ。いろんなものを運ぶ。それに島へ来てからは兵の区別なくあらゆることを皆でやった。倉庫番に農場管理、海で食糧調達と、何でもやった。襲撃を受けたホルランヂヤの飛行場には島の飛行戦力が終結している状態なこともわかっていたし。兵の数と物資や補給の感情が明らかに合わないのはお前に会う前から気付いていたよ」
「……」
「ゲニムでの補給だってほとんどされなかったんだ。迷わずサルミに着けるとしてもまるで足らん。本土にコメがないとお前が前に話していたのは軍需優先だからのはずだが、優先しておきながら足らないでは、一体コメはどこにあるんだ? この分じゃおそらく、サルミにも我々を養うだけの用意はないだろう」
「昇さん……」
「兵糧が尽きたら、このニューギニヤ島という籠城作戦で勝鬨をあげることは不可能だろう。そして本土も島。土地が焼かれ作付けできる面積が減り、労働できる体力のあるものも減りでは、この島と同じくいずれ消費に生産が追い付かなくなるのは目に見えてきた。武器や火薬の材料も一体どこから調達する? 同盟国があるとはいえ、空海の補給路を断たれれば孤立する小さい島だ。時間をかければかけるほど、日本は不利になる」

昇さんは、気付いていたんだ。それなのに私たちの前ではそんなこと全然みせなかった。

「……負けるよ。日本は。嘘ついてごめんなさい」
「俺たちをがっかりさせたくなかったんだろう。謝ることじゃない。で、いつ終わる?」
「昭和20年の8月……本土に、大きな爆弾が落ちて、それで終わるの」
「酷い終わり方だ。それでも未来じゃ仲良くやっているというのか。全く理解できん」

昇さんが呆れたように首を振った。そうだよね、普通はそう思うよね。

「生き残ってみたら、わかるのかも」
「そんなものか」
「うん。それでね、もうひとつ大事なお話があるの」

私は、この数日間で調べたことを、ひとつずつ、昇さんに話した。サルミに行けないということも。けど、全て話しても、昇さんのサルミヘ向かう決心は揺るがなかった。『そうか』とだけ言って、あとは話を逸らすみたいに持ってきた食べ物のことをアレコレ訊いてきたりした。

それでも日没が来て暗くなると、昇さんの気持ちにも陰りが見えた。パチパチと懐かしい火の音。たった1週間かそこらなのになぁ、なんて物思いに耽っていたら。炎を眺めながら缶詰を頬張り、うまい、うまいと言っていた昇さんがポツリと呟いた。

「サルミへ行けないということは俺も結局、無駄に死ぬのか」

無駄って。

「ちょっ、無駄なんかないって言ったの、昇さんでしょ? なんでそんなこと言うの」
「だってそうだろう。同じ死ぬにしたって、サルミでもう一戦かまえて敵と刺し違えるなら名誉なことだ。だが向井も、山根も、阿久津も……他の奴らも皆ここで何も成せずに野垂れ死んだ。お国から立派な装備を賜って戦地にありながら、敵の目からこそこそと逃げ回るだけの軍人など」

昇さんが言うこともわかる。ここに数日いれば、私みたいな平和ボケにも、少しは戦争中の考え方と私の暮らしてた時代とは全然違うってことがわかってくるんだ。同じ死ぬなら敵もろとも、山根さんも言っていた。

だけど、名誉って何? 百歩譲ってお国のためはわかるよ、わかんないけど、気持ちはわかる。家族のためとかもわかる。これは超わかる。でも、でも。名誉って何! 人殺しだよ、殺人なのに。

殺らなきゃこっちの命が、日本が、危険にさらされる、だから仕方なくでしょ。それ以上でもそれ以下でもないはずなのに、名誉って。そもそも、向井さんも山根さんも阿久津さんをそんなふうに言うなんて。前に無駄だって言った私を叱った昇さんなのに。

「野垂れ死にって何? 名誉って何? 結局昇さんが一番弱虫だよ!」
「お前……」
「死にたくない、生きたいって言った向井さんが一番普通だったよ、殺した人にも家族があるって夢にうなされ続けた山根さんもまともだった! 疑問を持ちながらもやるしかないならってなんとかお国のためって大義名分に納得しようとしてた阿久津さんは立派な軍人だった! でも、昇さんは何? 名誉に縋らなきゃ立ってられないの? ずっとそんなふうに思ってここまで歩いてきたの? 勝てないなら、負けるならせめて名誉が欲しい? バッカじゃないの」
「なっ……」

私は知らなかった。こんな時代があったなんて。こんな考え方があったなんて。だけど、こんなの絶対間違っているから。無駄な死に方とか、名誉な死に方って考え、絶対に違う!

「私のいた時代にはね、名誉の死なんてないんだよ。あるとすれば例えば誰かを庇って死んじゃったとか、たぶんそういうのくらい。だけどそれだって名誉がほしくて庇った結果なんかじゃない。みんなね、死ぬときは突然だよ。時々そんなニュースを見た。コンビニに車が突っ込んで高校生が死んだとか、仕事場にいきなりガソリン撒かれて爆発死とかね。じゃあさ、それはみんな無駄な死?」
「それとこれとは話が違うだろう。戦争なんだ」
「違わないよ! 戦争があったってなくったって、私たちはただ生きて、ただ死ぬだけだよ、生まれたらみんな死ぬんだから。じゃあさ、無駄なんだったらなんで生まれたの? なんで生きてるの?」

私は、昇さんにこの戦争に負けることを恥じてほしくなかったし、この島で起きたことや亡くなった人たちが、戦争に負けたら全て無駄になるなんて、思って欲しくなかった。だけど、慰めとか、励ましなんてぜんぜん浮かばなくて。責めたいわけじゃないのに、怒りみたいなものばかりが口から飛び出す。少し、少しだけ落ち着け、私。すう、と小さく呼吸を整える。

「……戦争じゃないけど、大きな地震があったの」
「地震か」
「その時のことはまだ小さかったからよくは憶えてないんだけどね、テレビで追悼番組やっていて、自分の避難が間に合わなくなるまで避難を呼びかける放送をして津波に飲まれて亡くなった人の話を見たの」
「……立派な死だな。それこそ名誉じゃないのか」
「ほらまたそうやって。その時のテレビでもそんな感じだったんだけど、私はなんか嫌だなって思ってたの。その嫌だなの理由が、今ならわかるよ」
「どういうことだ」
「立派に、生きたんじゃないかな。その人。名誉のためにそこに残ったわけじゃないはず。逃げ遅れるかもって覚悟はどこかであったかもしれないけど」
「……」
「無駄かどうかは考え方とか、生き方で変わるんじゃないかな。死に方じゃない……私、ここにきてずっと役立たずで、それこそ無駄な存在だった。なんでこんなとこ、なんでこんな目に、ってずっと思ってたし。でも、変わりたいって思ったの」

そう、変わりたいって思った。思うこと自体が、私が変わった何よりの証拠。誰かの役に立ちたいとか、そんなこと考えたこともなかった私が、死を待つ向井さんや山根さんの話を聞いてあげられただけでも、少しはここに来た意味があったのかなとか、その程度だけど。だけどそんな小さな寄り掛かり合いだけでも、人が生きた意味にはなるってことを知った。

「ここに来たこと自体、初めは私にとって本当に意味不明だった。でも、ここに来なかったら、私は気付かなかったし、変わらなかったと思うの」

たった数日でも、たったひとことでも、関わっただけでそれはもう意味なんだ。昇さんと出会ったことが、5人で歩いたあの数日が、私を変えた。気付かせてくれたんだ。ここでの全てが、私に教えてくれた。クリックひとつでなんでも揃うことのすごさを、蛇口をひねれば飲み水が出るすばらしさを、そして、食べ物のありがたみを。ううん、食べ物だけじゃない。私をとりまく全てのものが、ありがたいんだってこと。

「だから、私がここに来たことも、意味があることで無駄なことじゃないの。勝ったか負けたかとか、無駄か名誉かなんて分けてほしくない」
「まるで支離滅裂だが……本当に、変わったな。虫が怖くて寝れなかったようなやつが俺に説教できるまでになるとは」
「あ」

少しは冷静になって話せたかと思ったことも、結局は変な自分語りで、昇さんは怒るを通り越して呆れたような声で言った。

「ご、ごめんなさい」
「いや、いいんだ」

昇さんが、空を仰いでクスリと微笑んだ。

「そうだな、俺は弱虫だ」
「違うよ、今わかった。やっぱり一番強いのが昇さんなんだ」
「おいおい、随分と極端だな」

うん。極端だ。だけどこんなこと言われて怒らない昇さんは、きっと、理不尽でもなんでも、全部を納得して受け入れているんだ。だからきっと、この戦争は負けるかも、無駄かもって思ってたのに、ここまで来られたんだ。すごいよ。昇さんは、凄いよ。どこか寂し気な、諦めたような昇さんの笑顔で、なんだか全部納得がいったような気がした、その時。ぐにゃりと、座り位置をずらした手のひらで何かを踏んだ。

「だめだっ!!」
「きゃ」

それが何かを確認する間もなく、私は昇さんに突き飛ばされた。驚きと体の痛みで何が起きたのか把握するまで、私は突き飛ばされて倒れた姿勢のまま動けなかった。

「いっ痛……っ」

やっとなんとか体をさすりながら起こした私が見たのは、腕を押さえながらヘビを蹴って追いやる昇さんの姿だった。

「噛まれたの!?」
「ああ、やられた」
「どうしよう! あっ、薬! そうだ薬! なんの薬が効くんだろう!?」
「未来には毒ヘビに効く薬があるのか?」
「そんなのっ……」
「油断した。お前にケガがなくて良かったよ」
「とにかく! とにかく傷口洗おう! ミネラルウォーターいっぱいあるから!」
「それは助かる」

どうしよう。私のせいで、昇さんがヘビに噛まれた。手元、ちゃんと見てなかったからだ……。全然体調良さそうだったし夜は敵襲もほとんどないから、って、きっと私が来たことで歴史が変わって、昇さんは死なないんだと思ってた。これで死んじゃうってことなの? 嘘だよね? 毒のないヘビのほうが、多いって言うし!

「具合、どう?」
「傷口は少し痛むが、とりあえずなんともなさそうだ。心配かけたな」
「よかったぁ」

心なしか顔色が悪そうな気がしないでもないけど、夜だからそう見えるのかな。びっくりしたけど、ホッとした。

「ねえ昇さん。戦争が終わったら、何したい?」
「そうだな。やっぱり写真だな」
「あ! それで思い出した! 見てこれ」

私は、リュックのポケットから写真を一枚取り出して、昇さんに見せた。初めて会った日の、海辺の写真。

「どうしたんだこれ」
「戦後ね、……昇さんが現像したんじゃないかな」
「ああ、なるほど。よく撮れてるな」

考えなしに写真を出して、形見のカメラに入ってたことを言ったら昇さんが戦死したって言ってるようなものだ、と咄嗟にごまかした。

「それをね、昇さんの弟さんに見せてもらったの」
「実にか? 家に行ったのか?」
「それがなんとね、うちの超近所! 幼なじみの男の子の家なんだよ」
「しょう……」

昇さんの口から、予想もしない名前が出てきて、心臓が止まるかと思った。

「え? なんでわかったの?」
「やっぱりな。前に寝言で呼んでたぞ」
「えー何それやだ! あんなの夢に出てきたとか悪夢なんですけど」
「好きなんじゃないのか?」
「まさか! ただの幼なじみだよ!」

生まれ変わるっていう話は、しない方がいいかな。

「なんだ。俺はてっきり……ああ」
「どうしたの?」

慌てて誤解を解いたところで、昇さんが目をこすった。

「おかしいな、マズイかもしれん」
「え……」

昇さんの手からラムネ瓶がすり抜けて、ゴトリと鈍い音がした。

「どうやら俺はここまでみたいだな」
「え、ダメだよそんなの、治るよ! 頑張ろうよ!」

ぐったりとして、私に寄り掛かるように倒れた昇さんが、力なく笑って言った。

その額には、玉のような汗がにじんでいた。

「暑いの? 冷やす? おでこひんやりシートあるよ!」
「すまないな」
「謝んないでよ、あとは、えっと……っ」

私はパニックだった。私のせいだ。私のせいで昇さんが死んでしまう。私が来なければ、昇さんは慎重に歩き続けて、サルミの受け入れ拒否にも絶望することなく、終戦の日まで生き抜けたかもしれないのに! 来るんじゃなかった。来るべきじゃなかった。

そもそも、向井さんたちだって、私がいなければ死ななかったかもしれないんじゃないの? そうだよ。だって私と昇さんが会わなければ、昇さんはもっと早くヤコンデに着いて、湖に爆弾が落ちた頃にはもうその辺りにはいなくて、そうしたら向井さんがあの魚に当たることもなくて。

心配要員の私がいなければ、渡河だって男だけでもっとスムーズで、きっと山根さんが流されることもなくて。

山根さんの熱は何が原因かわからないけど、マラリアにしてもなんにしても、流されて体調が良くなかったから病気に負けてしまったのかもしれない。

阿久津さんだって、私を気遣って中洲で休憩なんかしなければ、ずんずん進んで渡り切ってたかもしれない。

私と関わらなければよかったんだ。

「昇さん、私のせいで……ごめんなさ」
「お前を守るためならなんだってする、そう言ったろ」
「でも、でも……」
「これで俺は名誉の死だ。……いいや、お前を守る為に生まれて、お前を守る為に生きた。これなら文句ないだろう?」
「嫌だよ」
「お前が戻るのを見届けられないのが心残りだが、きっと帰れるさ」
「嫌だよ、昇さん。私戻らない! ずっと昇さんといるって決めて来たの!」

今日が終わるまであと数時間しかない。本当に昇さんが今日、死んでしまうとしたら、もう数時間で……嫌だよ、そんなの、嫌だ。

***

水も食糧も、薬だってあるのに、結局私は何も出来ない。何も出来ないまま、黙って弱っていく昇さんを見ているだけなんて。

「嫌だよ、昇さん、死んじゃ嫌だ」
「泣くな。ほら見てみろ」

私の肩にもたれたまま空を指さす昇さんの視線を追うと、空爆で穴があいた森の上に、満天の星空が広がっていた。深い紺色に数えきれないくらいの星が輝く、ラピスラズリみたいな空。

「すごい…………」
「ここの空は、本土から見えない星座が見えるんだ。船乗りが南を目指す時に見る星もある。ほら」
「どこ?」

昇さんの腕が弱々しく伸びて、アングルを決めるみたいにフレームを形作った。その中を覗くと、周囲より強く輝く星があるのがわかった。

「南十字だよ。俺たちも夜が来るたびにこの星を確認して、また進んできたんだ」

南十字……校外授業のときにやったのを思い出した。あのときはただ眠くて面倒で聞き流していたけど、昇さんと見る星空はぜんぜん違って見えた。

「キレイ。本当に十字架みたい……」
「ただ方角を知る為だけの星空も、お前と見ていると違って見えるな」
「……昇さん」

好きって、言いたかった。ここにもういちど来たのは、それを伝えるためでもあった。だけど、もうその言葉だけで充分だと、思った。同じものを見て、おんなじことを感じて、もうそれだけで。歳も離れていて、女子力もなくて、なんの役にも立てない私が告白しても、優しい昇さんを困らせるだけだ。自分の死期が迫っているのに、私を安心させようとしてこんなふうになんでもない話をしてくれる昇さんを困らせちゃだめだ。

「未来ではね……フレームはこうやって作るんだよ」

私はまた嘘をついた。昇さんの両手の指が作った四角いフレームの片手をそっとはずして、自分の指をぴったりくっつける。人差し指を曲げて。私と昇さんが指で作ったハートの中で、南十字が瞬いていた。好きなんて、言わないから。これくらいは、許して……

「へえ、トランプのハートみたい……だな」
「……ハート、知ってるんだ」
「…………知って、る」
「え?」

昇さんが知っているのはトランプだけなのか、ハートの意味もなのか、その言葉からはわからなかった。だけど、昇さんの言葉はそこで途切れた。

「昇さん!?」

ハートを作った指も、腕も、からだじゅうが力を失って、だらりと私の膝に落ちた。昇さんの体から力が抜けていくみたいで、支えられないほどに重くなっていく。こらえきれなくて、一緒にそのまま倒れるみたいに土に転がった。そのまま、満天の星空の真下、耳元で浅い呼吸をくりかえす昇さんを抱きしめる。そのまま時間だけが過ぎて、昇さんの呼吸はどんどん小さくなっていく。

「私は……名誉なんかじゃなくって、なんにもなくってもいいから、ただ、ずっと一緒にいたかったよ……どこにも行かないでほしいんだよ。ひとりに、しないでよ……」
「、…………、………、…………、……」

昇さんの唇がなにか言いたげに動いて、だけど私には聞き取れなかった。昇さんの次の呼吸は、いつまで待ってもなかった。

「昇さん、今、何て言ったの? わかんないよ……」

私はこの瞬間が来た時、もっと取り乱すと思っていた。気が狂ってしまうんじゃないかって。だけど実際は逆だった。まるで感情の扉が防水仕様にでもなったみたいに、何も漏れないほどに閉じている。まだ生きているみたいな温かい頬に触れてみても、悲しいとかいう感情は出てこなかった。面白いくらい、何も感じない。心が、機械にでもなったみたい。

なにもする気になれなかった。だけど昇さんは夜の冷気と合わせるみたいに、硬く、冷たさを増してくる。隣にいると、湿った土と昇さんの冷たさで、私も凍えそうだった。のそりと、力の入らない体を起こす。そうしたら、遠くに灯りが見えた。たいまつだ。こっちに向かってくる。私たちよりも遅い人たちが、まだ、いたんだ。慌てて荷物をまとめて茂みに隠れる。

「おい、見ろ、火が点いているぞ。眠っているのか?」
「いや、仏さんだな」
「そうか、ここまで来たのにな。何か名前のわかるものはあるか」

火を消さないで来てしまったせいで、気付かれてしまった。この人たちが、晶の家にカメラを届けてくれるのかな。ついさっきまで私もそこにいたのに、まるでテレビでも見ているみたいにその様子を眺めていた。すごく……昇さんを遠く感じる。ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。悲しいはずなのに涙が出ない薄情な私のかわりに、空が泣いてくれたような気がした。そんなわけはない。ここはいつだって時間を選ばないでこんなふうに雨が降る。今回、私はいつまでここにいるんだろう。昇さんがいないこの時代に、もう、用なんかないのに。

雨の中、ふらふらと歩きだす。夜目が効いてくると、月と星の明かりだけでも進めるものだな、と思った。なぜだか、疲れる気がしない。そりゃそうか。令和で健康を取り戻した体でたった1日、歩いただけなんだから。すごくすごく、長かった気がしたのに、ここへ来て1日とちょっとしか経ってない。

半分以上の時間を、鼻がおかしくなりそうな異臭の中で歩いて費やした。昇さんと過ごせたのは、最後の数時間だけ。……それでも、会えた奇跡に感謝しなきゃ。奇跡……? 奇跡なんかじゃないよ。こんなの奇跡じゃない。だって、昇さんは死んでしまったじゃないか。
『お前を守る為に生まれて、お前を守る為に生きた』なんて、映画みたいな言葉を私に遺して、逝ってしまった。

この先、生きていたってこんな言葉をくれるひとなんて他にいないよ。いたとしたって、昇さんじゃないなら、意味がない。命がけの恋がしたいなんて、私は何を考えていたんだろう。前の私は人が死ぬってことがどんなことか、全然わかっていなかった。こんな思いをするくらいなら、恋なんか知りたくなかった。こんな結末になるなら、恋なんかしたくなかった。ううん、会わなければよかった。だって昇さんは、私と会わなければヘビに噛まれて死んだりしなかった! 昇さんが死んでしまうくらいなら、私が噛まれて死ねばよかった。もう、私もここで死んでしまえばいい。

そうだよ、それがいい。同じ島で、同じ森で。同じ土に還って。ずっと南十字の下に眠り続けよう。昇さんのところへ戻りたい。でも、私は未来からきた人間だ。軍の人たちが歩きそうなところで死んだら、私やこの荷物が見つかって大変なことになる。歴史が変わってしまう。だからできるだけ、ルートから外れたところへ行かなきゃ。星明かりだけが頼りの群青色の森を、逃げるように駆けた。ぬかるみに足をとられては転び、だけど私は何かにとりつかれたみたいに死に場所を探して走った。それ以外の事を考えたくなかった。立ち止まったら、泣いてしまいそうだった。

無謀に動き回った私は方向を見失って、朝が来る頃には、足がいうことを聞かなくなって動けなくなってしまった。どこをどう歩いたのか、走ったのか、私は今までに見たことがないくらい澄んだ川を見下ろしていた。まるで海みたいなエメラルドグリーンのその川は、朝日が雨上がりの虹を掛けて、幻想の世界に迷い込んだかと思うほどに綺麗で。笛みたいな鳥のさえずりがまた、聴こえだした。これも戻った時にネットで調べてわかった。あの鳴き声は、極楽鳥。バードオブパラダイスっていうんだって。とても綺麗な鳥だった。

こうしてみると、この島は本当に『パラダイス』に見えた。花が咲いて、水は澄んで、森は豊かで、鳥や蝶、虫たちの、楽園。やっぱり、戦争を持ち込むような人間がいていい所じゃないのかもしれない。そんなことを考えるほど、美しい景色だった。

「ああ、もう疲れちゃったな……」

瞼が、楽園の残像を映したまま重たくなって、静かに閉じた。


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