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『ホーランジア』 Epilogue

全身が酷く冷たくて、鈍く痛む。喉が痛い。

「ごほっ、ごほっ」
「弥生……おかえり」
「晶……」

気がついたら、私は焼け焦げたゼロポイントを臨む小さな東屋の下にいた。晶の膝で目が覚めた。私は向こうの時代でふた晩を過ごしたはず。その間ずっと、ここにいてくれたってこと?

「ずっと、そこにいてくれたの?」
「うん。もっと西まで移動しようか迷ったけど、ここにいた方がいいような気がしたんだ」
「晶……」
「会えたんだよな?」
「うん。だけど、私のせいで、昇さん……」
「俺はここにいるよ」

晶が、私を好きだと言ってくれたのは驚いたけど嬉しい。だけど、私が好きなのは晶じゃなくて昇さんなんだよ。昇さんを救えなかったばかりか、私が行ったせいで命を落としてしまったことの後悔やくやしさ、やるせなさがこみ上げてくる。涙が止まらない。

「ゴメン晶。私の中で昇さんは昇さんで、晶は幼なじみの晶なんだよ。だから、すぐにはその、晶を昇さんとして見れないよ」

「いいよそれで。75年も待ったんだ。待つのは慣れてる。俺も今は晶だし。これから晶のいい所をたくさん知って好きになってくれた方が嬉しいから」

顔は全然違うのに、笑ったときの表情が一瞬、昇さんに見えた。晶が青空に向かって両手をぐーっと伸ばした。その指先は、ハート型のフレームを作って。

「これの意味くらい、知ってたよ。お前、昭和19年の男バカにしすぎ」
「あ……」

あの時の……じゃあ、私の気持ちも知って……

昇さん。昇さんなんだ。本当に本当に、昇さんなんだ。目の前にいるのは晶だけど、笑顔と、仕草は見れば見るほどに昇さんだった。涙で晶の顔が滲んで、よく見えない。

「本当に……昇……さん?」
「死ぬ前に約束したろ。今度は俺がお前のいる時代に行くぞ、って。だから行かなくていいんだって言おうとしたのに、お前、聞かずに行っちゃうんだから」
「そんなの、聞き取れなかっ………」

言葉がつかえて全部が嗚咽になる。そんな私を、柔らかく包みこんだ腕はあったかくて、すごくすごく、懐かしい匂いがした。

「ていうか俺、バカだよな。未来の俺に嫉妬してたんだよ。しょうって誰だよ、って。気付いてなかったろ」
「全然。だって私こんな坊主頭で相手にされるなんて思ってなかったもん」
「なかなか似合ってると思うよ。さあ、帰って飯にしようよ。腹減った」

晶はタクシーを呼んで、私を家まで送ってくれた。だけど、2日も学校をサボって、幼なじみとはいえ男子とふたりきりでという状況は、当然のようにめちゃくちゃ心配されたし怒られた。ふたりとも酷い恰好だったから、那須の山で迷子になって避難していたと話してなんとかごまかしたけど、晶のお父さんは私を気遣ってもう近付くなと激怒りだった。うちの両親が気にしないで下さいとなんとかなだめたものの、晶は気の毒になるくらい叱られていた。それでも何も言わないでいてくれた晶は、やっぱりあの我慢強い昇さんなんだな、って、平和な時代でも、こうして晶は私を守ってくれるんだ。ま私はドラマティックなことばかりに憧れていて、日常にある優しさや強さに気づいていなかった自分に気づいた。

***

梅雨が近づく。この季節になるとジメジメ汗ばむ日も増えて、カエルの鳴き声も大合唱になってくる。この感じ、やっぱりニューギニアの森に似ていて懐かしい。昇さんに見せるために持って行った写真を向こうに置いてきてしまった私は、晶のお父さんのほとぼりが冷めた頃、晶のひいおじいちゃんに謝りに行った。

「おじいちゃん、いる?」
「いるよ」
「おとうさんは?」
「いない」

ふたりで、くすくすと笑う。

「おじゃましまーす」

おじいちゃんは、玄関に腰掛けていた。

「あ、ああ、ああ。よーぐ来だなぁ」
「えっと」
「ささ、入れ、すぐに茶をいれさせっがら」

おじいちゃんは、私を初めて見たみたいに丁寧に招き入れ、前と同じようにいそいそと自分の部屋の押し入れへ向かい、中から漆塗りの文箱を出してきた。

「この写真は、おじょうさんのだんべ」

昇さんのあの写真、「また」届けられてたんだ。晶とふたりで顔を見合わせて、小さく笑いあった。

「形見……、返しに行ったら、阿久津の実家も行こう」
「うん。そうだね、って、家、知ってるの?」
「世間って案外、狭いんだよ」
「えっ、それってどういう……」

ニヤリと笑って晶がカシャリとシャッターを切った。

「あ! だから変な時に撮らないでってば! もう」
「昇の時は1枚しか撮れなかったからね」

前はすごく嫌だったけど、もう嫌じゃない。でも照れくさいから、まだ嫌がっておこう。そんなことを考えてたら、構えたカメラを降ろした晶が、真面目な顔で私に言った。

「弥生。大人になったら、あの島へ行こう」
「うん。必ずね」

昇さんだったきみが仲間たちと眠る、あの島へ。そして私は名誉なんて必要のない、この平和でつまらない、別段キラキラしないありふれた日常を、「普通」のきみとしっかり歩いていきたい。私たちが大人になっても、ひいおじいちゃんくらい歳をとっても、ずっと、ずっと――

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