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『ホーランジア』12 ベッドの上

何度目かの白い浮遊感と黒い閉塞感から目覚めて見たものは、白い天井だった。ここ、病院? 体が重くて、全神経を研ぎ澄ましてやっと、自分の指を自分の意志で動かせることがわかった。どこかが痛いとかじゃない。ただただ、体が重くてだるい。

まともに首も動かない状態で、なんとか見える範囲を見渡す。白い天井はパネル状になっていて、照明が埋め込んである。天井からはオフホワイトの細いポールが等間隔に伸びて、同じ色のカーテンレールがぶら下がっていた。カーテンは清潔そうな明るいパステルオレンジ。上の方は目の粗いネットになっている。壁はピーナツクリームみたいな明るくて爽やかな薄茶色。ドアや棚がそれより少し濃いめの茶色い木目で統一されているようだった。全体的に、昭和19年のものじゃない気がする。

元の時代かどうかは確実じゃないけれど、とにかく安全な場所にいるのは確かなようだ。そう思って少し安心したら、少し痺れるような違和感のある左手に気づいた。神経を集中させると、腕を少し持ち上げることができた。

なんとか視界に入った手の甲には、肌みたいに透明なシールで覆われた清潔そうな極細の点滴針と、そこから伸びるしなやかな細いチューブがついていた。やっぱり、元の時代だ。

あの時代、しかもあの島に、こんな綺麗で進んだ病院や医療器具があるはずがない。戻ってきたんだ。そう思って少し思い直した。

そもそも、タイムスリップなんてあり得ない。この状況から察するに、きっと私は海でなにかあってここに運ばれたんだ。それで、長い夢を見ていたと考える方が自然。ということは、阿久津さんも山根さんも、向井さんもいないんだ。見送った人たちが実在しなかったのなら、辛い死に方をした人がいないということ。ホッとして涙がこぼれた。

だけど同時に、安堵の涙はすぐに例えようのない喪失感の涙へと変わった。タイムスリップが夢なら、あんな、ただ死ぬのを待つだけみたいな酷い戦場が存在しなかったのなら、それは良いことのはず。だけどずっと必死に私を守ってくれた昇さんもいない、ということになってしまう。

胸が張り裂けそうなほど苦しい。涙が後から後から溢れてくるのが、余計に辛い。だって、さっきまでは汗も涙も、まともに出ることなんかなかった。食べ物も水も、全然足らなかったから。今、私の体はきっと点滴や薬で万全に満たされている。私だけが健康で元気で、それが辛い。あれが夢だったとしても、全部さっきまであったことみたいに憶えているから。この満たされた健康が、申し訳なくて受け入れられない。

嗚咽で息が出来なくなる。会いたい。会いたい! 夢だったなんて、嫌だ!

もう歩き疲れて、臭くて汚くて、お腹がすいて仕方がなくて、悲しくて辛くてどうしようもない日々だったけど、それでも。昇さんと過ごしたことの全部が夢だったなんて、そんなの嫌!

***

「古賀さん、点滴交換しますね……っきゃあ!!」

カーテンが開いて、看護師さんが声をかけてきた。と同時に、幽霊でも見たのかというくらいに叫ばれた。

「え? えっ? 意識、戻ったんですか!? って、気がつかれてから勝手にどこか行ったんですか!?」
「え? いえ、まだ、どこにも」
「だって、その恰好、しかもそんなに汚れて、病院なのに困ります! おまけにその頭!」

そう言われて、自分の指が泥汚れで真っ黒なことに気がついた。そういえば確かに、さっき点滴チュープを見た時に違和感があった。汚れた腕に点滴針を刺すはずがないのに。だけど自分が薄汚れていることを、私の脳はごく自然に受け入れて、その違和感をスルーしてしまっていたんだ。しかも私の腕に軍服らしき袖も見える。看護師さんの驚き具合からして、間違いなく着ている。入院患者が軍服でベッドにいたら、驚いて叫ぶのも無理はない。

つまり、私がタイムスリップしていたのが夢じゃないってことだ。はじめに砂を付けて戻ったのと同じで、私は身に着けたものそのままで戻ってきたんだ! 夢じゃなかった! それだけで、胸が高鳴る。行っていたんだ、私。確かに、あの時代の、あの場所に。思い出したくないような出来事ばかりだけど、ただひとつ。昇さんと過ごした時間が夢じゃなかった、ただそのことが、本当に本当に嬉しい。

「先生呼んできます!」
「あっ、待って! 今日、何月何日ですか!?」
「5月7日ですよ、2週間近く眠っていたんですよ、古賀さん」

……あっていると思う。防水のはずのスマホが渡河のせいか充電切れか、ここ数日は電源が入らなくて正確な日付の確認をしていなかったけど、毎朝昇さんと日付を確認しながら進んだから、たぶん。やっぱり同じだ。時間の進み方が同じ。

このあと島の日本軍がどうなるか、調べなきゃ。日本は負ける、それはもう誰もが知っている事実で。だけどあの島の事を私は何も知らないから。

まもなくやってきた先生にも驚かれ、看護師さんたちに体を拭いてもらった。その時、鏡で見せてもらった顔は浅黒く日焼けしていて、髪も不揃いなあの坊主頭。なぜこんなことになっているのかをかなりしつこく聞かれたけど、わかりませんの一点張りで通した。だけど自分のこの姿を水鏡以外でみたのは初めてだったから、予想以上に男前で笑ってしまった。この姿を見て笑うって、かなり変な患者だと思われたに違いない。でも本当の事を話したって、誰も信じないだろう。

***

夕方になって、学校の終わった葉月を連れてお母さんが見舞いに来てくれた。

「なんだよ姉ちゃんその頭! わはははっ! ダッセェの!」
「こら葉月! お姉ちゃんずっと意識なかったんだから。だけど本当にどうしたの」
「私にもよくわかんないんだよ、お母さん。葉月、来てくれてありがとうね」
「え、姉ちゃん頭打ってねえ? なんかキモいんですけど」
「打ってないよ、また葉月に会えてうれしいなって思って」
「え? ええー? まじどうしちゃったんだよ、まじキモい、まじウザい」
「お母さんが言うのも変だけど、弥生、いつもだったら「うっさい」とか「死ね!」って言うとこじゃない? やっぱりちゃんと検査してもらわないと……」
「大丈夫だよ。死ねとかもう言わないことにしただけ」

私の変わりように、葉月とお母さんが困惑気味でおもしろい。前は、死って言葉をものすごく簡単に口にしていた。もちろん本気でなんて言っていなかったけど。だけど目の前であんなに人が死んでいくのを見てしまって、自分もいつ死んでもおかしくない状況の中で過ごして、そんな簡単な言葉じゃないって、思った。だからもうそんな風には使わない。

「それより、持ってきてくれた?」
「ああ、ノートパソコンね。はいこれ」
「ありがとう」

これで、あの島の事がきっとわかる。

***

約2週間ベッドで眠り続けた私は、身体じゅうの筋肉がすっかり落ちてしまっている。体のダルさ重さの殆どはこのせいらしい。自分の腕を上げる筋肉もないってどんだけ……。毎日少しずつの運動で元に戻るといわれて、リハビリの先生に教えてもらいながら筋トレをすることになった。それ以外の時間は遅れた勉強を進める……じゃなくて、私にはやることがあった。

持ってきてもらったノートパソコンを起動して、インターネットブラウザを開く。スマホと違ってフリックじゃないからやりづらい。画面は大きいから、そこはパソコンのほうが好き。検索ボックスに「ゲニム」と入れる。……ナニコレ。遺伝子がどうとか、塩基配列が、って、生物の授業みたいなのがズラリ。もしかしてゲノム、じゃないよ!「ゲニム」がマイナーなのか、自動的に検索頻度の高い語句に変換されてしまった。もしかしないの! ゲニムでいいの!

「サルミ」と入れてみた。今度は肉料理がずらり。違う。美味しそうだけど、知りたいのは料理じゃない。えっと、なんだっけ……そうだ、ホルランヂア!

「ホルランヂヤ」と入れると「ホーランジア」と変更されて検索結果が表示された。そこには、知りたかった情報が並んでいて、私が戦争について持っていたイメージや知識とは全然違う文字もたくさん出てきた。

『ホーランジアの戦い』
『西部ニューギニア戦線』
『地獄の戦線』
『死の行進』
『命をトル川』
『敵は飢えとマラリア』
『仲間の肉を食べた日本兵』

……何?どういうこと……仲間の、肉って? 人間の肉ってこと? 確かに食べるものがなくて辛かったけど、私たちはカエルやカニで何とか凌いだよ?さすがに人の肉は都市伝説でしょ……恐々ページを開くと、私たちのいたエリアとは違う場所の話だった。だけど、そんな話がいくつもあって。信じられない気もしたけど、あの状況であと数日、なにも食べるものがなかったら? そう考えると、どうしても否定できない気もしてしまう。

地図で確かめたら、ゲニムからサルミへの距離は私が歩いた距離の5倍くらいあった。昇さんが言ってたとおり、約250㎞。途中、川はあるけど湖はない。タナボタで魚が食べられる機会だって、そうそうないはず。迷わず直線を進んで250㎞だから、実際はもっと長い距離をさまようことになると思う。もしそんな時、近くで虫もカエルも獲れなかったらと思うと……もしかしたらこのあと昇さんも? そんな考えが頭をよぎって、ぶんぶんと横に振り払う。

やめやめ、よそう。本当かどうかわからない話をちゃんと調べるのは、後だ。私が知りたいのは、このあとあの島が、昇さんがどうなるか。気を取り直して検索を続けた。だけど、読めば読むほど目を覆いたくなるような結末ばかりで、援軍が来て逆転したとか、補給物資が届いたみたいな話はなくって。それどころか真逆。向かっていた補給船が撃沈とか、そのあとはまるで見捨てられたように追加の補給も援軍も途絶えていたとか。

その頃にはもう敗戦前の秒読みで、本土決戦! とか一億総玉砕! なんて時代に突入しちゃっていて、見捨てたくなくても日本から遠く離れた島にはとても気を配る余裕がなかったんだと思う。私がいたニューギニア島だけじゃなく、その近くの島で似たような悲劇がいくつも語られているのを目にするだけだった。ほとんどの地域で、戦闘にもならずにただ一方的に攻撃され、ほとんどの兵は歩き疲れて飢えと病気で息絶えたとある。

生き残った人たちを取材した記事や本人の手記には、あの島で起きた惨劇がありありと残されていた。それは、私の記憶とも重なった。支給の食糧が尽きたらその辺のものを食べて、時にはお腹を壊したり中毒になったりしながら、空から降ってくる銃撃や爆弾に当たらないように進むだけの毎日。銃も持たない私たちは敵と遭ったところで一方的に乱射されて死ぬだけ、だからコソコソと隠れて逃げて、それでもサルミに辿り着きさえすれば、きっと武器も食糧もあって、じきに援軍がきて、きっと日本が勝つ。そんな風に信じて歩いていた。なのに。

嘘でしょ……。私は更に信じられないものを見てしまった。サルミで受け入れ拒否って。同じ頃にサルミで戦闘があって、それどころじゃない軍はゲニムからはるばる歩いてきた兵の受け入れを拒否したなんてことが書いてあった。そんなのって、そんなのって! 250㎞信じて歩いて、目前で拒否られるって、どんな気持ちだろう……悲しみ? 怒りかも。でも、向こうも必死で戦っているわけだから、ぶつけようがない悔しさかも。とにかく、75年前の今日より先には、私が見たのよりも酷い、本当の地獄しかないということだけが記されていた。このまま歩いても、昇さんはサルミに辿り着けない。私が向こうにまた行くことができたら、このことを伝えなきゃ。ううん、行って、伝えなきゃ!

***

私の気持ちとは裏腹に、現実はタイムスリップ希望者には優しくなかった。過去への戻り方、なんて検索しても、SF小説やマンガの類が出てくるだけ。当たり前だよね。ニューギニア島に行くだけなら、飛行機を乗り継いで行ける。しかも私がいた辺りとは時差もないらしい。途方に暮れて地図を眺めてたら、縦と横に線が引いてあるのに気がついた。

ああ、緯線と経線ね、1年の時に習った。なんとなく線をなぞる。おおよそ5度ずつに太い線が引かれていて、東経140度の線が地元を通っていた。調べると北緯37度と交わるポイントが近くにあって、切りのいい線が交わる所はそう多くはないからか、観光スポットになっているようだ。那須野ゼロポイント、なんて名前が付けられていた。

「へえ……って、こんな脱線してる場合じゃないのに」

地図を縮小しニューギニア島を表示しようとして、私は思わず手を止めた。息を、飲んだ。小さくなった世界地図の上で、日本とニューギニア島が、私がマークして赤くなった東経140度の線で結ばれていた。私の心臓は何に高鳴っているんだろう。自分でもなぜだかわからなかった。でもどうしようもなくその赤い線が気になった。なんで? だってただ、経線が1本引かれているだけの地図だよ。だけど私は何かに突き動かされるみたいに、マウスのホイールを回してニューギニア島を拡大していた。

ゆっくり、ゆっくり、拡大で経線を見失わないように。それがなんだっていうの? そこに何かあるっていうの? 息を止めて、更に拡大した、その先に。

「嘘……、本当にあった……」

140度の線、少し東に。ゲニムがあった。

もしかして、そんなわけないけど! でも他に手がかりなんかないんだから、調べてみるしかない! そこからの私は夢中だった。まずゲニムの合流場所の位置を確認して経度を記入。戦時中の古い地図と衛星地図では少しずれがあるけど、小さく開けた街があった。たぶんここだ。そしてその経線を辿って日本の地図を拡大。そこにあったのは……

すごい……こんなことって、あるのかな。偶然かもしれないけど、その線の上にあったのは、今、私がいる病院だった。ここは、かかりつけでもないし普段は使ったことがない病院。家からは少し遠いけど、千葉で倒れて向こうの病院からここに移送されたからしょうがないって、昨日お母さんがちょっと愚痴っていた。

もしかして私、この経線が重なったところでタイムスリップしてるのかも! そんなアホみたいなことを考えついて、まさか、でももしかして、そんな気持ちで、ひとつめの場所を表示した。初めて昇さんと海で会った時に私がいたのは、さくら宇宙公園。さくら宇宙公園の経度は、だいたい、140°41’……

そのニューギニアは……あった! やっぱり、ホルランヂヤ、いまはジャヤプラって地名に変わっているけど、日本軍の港のそばだ! ここまでくるともう偶然じゃないって確信があった。行けるかもしれない!

まだ行き方も戻り方もわからないけど、パズルのピースがひとつはまったみたいな気分で、胸が高鳴る。次! 次に私がいたのは、千葉の海岸! だいたい、140°32’……やっぱり!

センタニ湖の東端、昇さんと再会して髪を切られたのは、きっとこの辺り!

最初に調べたゲニムとこの病院の位置関係。合わせて、3か所の条件が揃った。私が、この線の上でタイムスリップしてるのは、きっと間違いない。だけど、どうやって行くか、戻るかの条件は、さっぱりわからなかった。


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