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『ホーランジア』09 ずっと5人で

全員が調子を取り戻したあとも、向井さんはまだ微妙な顔をしていた。

「相変わらずお前は腹が弱えなぁ、向井」
「山根さんたちが丈夫過ぎるんすよ」
「まあ、一番食ったがらじゃねえか? わはは」

それでも私たちはゲニムを目指して足を進め続ける。不調といえば、昨日から雨が降り続いていて、私は風邪をひいてしまった。歩けないほどじゃないけど、熱が少しあるようなだるさで朝を迎えた。
「生弥、しんどそうだな。大事けぇ?」
「はい、大丈夫であります、阿久津上等兵殿! お気遣い感謝します!」
「おいおい、兵長殿を昇さん呼ばわりしといて俺を上等兵殿はねぇわ。こっぱずかしい」
「は、はぁ」
「まさかマラリアじゃねえといいなぁ」
「山根、滅多なこと言うな」
「へーい」

阿久津さんは声が大きくて豪快。体も大きくて毛むくじゃらで、元の時代だったらちょっと怖くて近寄りがたいタイプ。だけど気さくで明るくて、年下で格下の私にもすごく優しい。面倒見がいい、体育会系の先輩って感じ。山根さんはクールで、向井さんは食いしん坊でかわいい感じ。

「阿久津は熊みてえだからな」
「なんだと山根ぇ、もっぺん言っでみろ!」
「ははは、間違いないな」
「松田まで言うが! わはは。しっかし、こう雨が続がれちゃ敵さんも飛べねえが俺らも歩げねえな」
「まったくだ」

軍隊って、下っ端がタメ語なんか絶対許されないようなイメージがあったけど、この人たちはそうじゃないみたい。それに、昇さんが兵長だったなんて知らなかった。その昇さんのことも、みんな呼び捨てなんだから、すごく仲がいいんだなって思う。ふたりで歩いていたときより、昇さんの笑顔が増えた。こんなふうに冗談を言いあって、歌を歌ったりしている。日中は敵がいるかもしれないから大きな声は出せないけど、それでもこうして笑っていれば目先の空腹も先行きの不安も、ずいぶん和らぐ。

ちょっと困ることといえば、やっぱり私が女だってバレないようにすること。虫が嫌でも昇さんに乗せてもらって寝るわけにはいかなくなったり。けど、もう虫が顔を這ってもわからないくらい爆睡だから、平気。それくらい毎日へとへとで、今日も本当はそろそろきつい。だけど昇さんと2人だった時みたいには休めない。昇さんも気にかけてはくれるけど、私の都合で休憩を挟みすぎると、男じゃないことがバレてしまうかもしれないから。
とりあえず、今は向井さんを気遣ってペースダウンしているのがありがたい。

「お、少し予定より早いが、窟がある。今夜はここで休もうか」
「んだな、そうすんべ」
「窟はありがてえなぁ」
「すまねえっす」

洞窟なら、お米が炊けるかな。

***

雨が降り止まない。足元がぬかるんで、靴が沈んで重い。蒸し暑さはあるのに、服が濡れているから体は冷えまくる。天幕をレインコートがわりに使うけど、全身を覆えるわけじゃない。

私も途中で亡くなってしまった人の背嚢をお借りして、その天幕や毛布を使わせてもらっている。食べ物は入っていなかったけど、毛布と携帯天幕はありがたかった。それまでは昇さんが貸してくれていたから、今は昇さんも濡れなくなってホッとしている。

向井さんはお腹の調子が治らないままこの雨に晒されて、日に日に悪くなっている気がする。それでも向井さんは食べることが大好きで、いつも食べ物の話をする。

「ああ、また魚、食いてえっすね」
「コイヅ、散々クソまみれになっでもまだ食い足らねえとよ!」
「まあ向井から食い意地とったらなんも残らねえからなぁ」
「よーし、爆弾乞いでもするか」
「んだな! っそれ、ばーくだん降れ降れ大漁だぁ~明っ日も魚が食いてぇなぁ~、あそーれ! ぴっちぴっちじゃっぶじゃっぶどっかんかんっとぉ!」

阿久津さんが童謡の替え歌を即興で歌いだした。

「おいおい、いつ敵が嗅ぎつけるかわからないんだぞ」
「なんの! このまま逃げ隠れるより俺は戦って死にたいぞ!」
「同じく!」
「そっすね」

変なハイテンションになってみんなで合唱。爆弾が落ちたらいいなんて誰も本気で思っているわけはないけど、あのタナボタな光景は、空腹で歩き続ける私たちにとって、本当にそれくらい魅力的なものだった。

あの日、湖に戻ったら湖岸に信じられないくらいの魚が浮いていた。昇さんの言ったとおりだった。半日かけて小さなカニやエビしか獲れなかった湖なのに、たった一度の爆発でこんなにも魚が、って、悔しさすらこみ上げた。
それをかき集めて、食べて。結果、お腹は壊したけど、食べているときは最高の気分だった。少し大げさだけど……明日死ぬとしても、また食べたいと思うほどに。

夜になって、向井さんは大好きな食事の時間にも草陰で呻き続けて、あんまり遅いと心配した山根さんが様子を見に行くと、その場で気を失っていた。
翌日。晩にみんなでテントまで運んで寝かせた向井さんは、なんとか起きて水を少しだけ飲んだ。食欲がわかないらしい。出せるものは全部出してしまったはずなのに、お腹ぺこぺこのはずなのに。食べるのが大好きなはずなのに。昨日の昼間も痩せたなぁと思ったけど、今朝の向井さんはもうガイコツみたいにげっそりしていた。当然、まともな速度で歩けるはずがなくて、私たちはふたりで歩いていた頃よりも多く休憩をいれながら、ゆっくりと進んだ。

「向井、川だぞ。いけるか?」
「行けるか、って、そりゃぁ、行くっす。死にたくねえすから」
「少し増水しているな。流れも速い」
「水が引くまで待づか?」
「今より増す可能性も否定できん上に食糧に限りがあることを考えると、様子を見ている時間はないだろう」
「俺もそう思うぜ」

私と昇さん、ふたりの頃にいくつか小さな川を渡った。でもそのときよりも大きな川だ。木の葉や枝、折れた木の枝、そんなのがザアザア、ゴウゴウと音を立てて目の前を流れていく。

「なんだ生弥、脱がねえと流されっぞ」
「えっ」

川の荒れように目を奪われていたら、阿久津さんが茶化すように笑って言った。私がただぼんやりして脱ぐのを忘れていると思ったのだろう。しまった、というような顔の昇さんと目が合う。河越えのとき、昇さんは褌一丁で荷物を頭に担ぎ上げていた。目のやり場に困るけど、それが普通の渡り方。私は昇さんの前で脱ぐなんてできないから、軍服は脱いでロンTとハーフパンツで渡っていた。今はみんながいるから、アメリカ国旗プリントのロンTなんか見せられない。もちろん褌一丁も無理。そもそも褌じゃないし。

「ああ、こいつはこのままでいいんだ」
「なんでよ」

昇さんが言ってくれたけど、阿久津さんは納得していない。山根さんも向井さんも脱ぎだして、私を不思議そうにみている。ふう、と昇さんが大きく息を吐いた。

「こいつらにはもうきちんと話しておかないか」
「昇さん」
「ああん? 何の話だべ」
「わかった」

こいつらなら大丈夫、昇さんの目がそんな風に言っているように見えて、私は小さく頷いた。大粒の雨がとめどなく降り、水面を打つ音と濁流のうねるような轟音が響く。昇さんが低い声でゆっくりと語り始めた。

「古賀は…………記憶喪失でも、生弥でもないんだ」
「はぁ? 何だそれ」
「あ?」
「どういうことすか?」

途端、3人の顔から笑いが消えた。当然だよね。私たちが嘘をついていたってことなんだから。

「……女なんだ。古賀、弥生という」
「お、女ぁ!?」

阿久津さんが、目を白黒させて私を見る。山根さんと向井さんは驚きのあまりぽかんとしていた。昇さんが続ける。

「こいつは、何故だか理由はわからないが、2020年の未来から飛ばされてきたんだ」
「ちょっど待っでくれよ松田ぁ! んな話信じられん」
「嘘だろおい……」
「嘘じゃない。俺も最初は信じられなかったが本当の事だ」
「証拠は? そんな馬鹿みでえな話、証拠もなしに信じられっが」

阿久津さんが掴みかかりそうな勢いで昇さんに詰め寄る。スマホ! スマホ見せれば!

「証拠ならっ」
「わあっ! なんだその高い声!」
「おお……本当に女すね……」

作ってた生弥の低い声じゃなくて地声で喋った私に、山根さんと向井さんが尻もちをついた。女だって分かるって、そんな驚くかな? ……驚くよね。前に昇さんが言っていたのは、軍にも医療や通信とかの部隊には女の人がいるって、だけどこんな戦場にはいない。

「おお、おおお……おおう……」
「どうした阿久津」
「だって、だってよ?女って、女ってよぉ……」

何故か阿久津さんが嗚咽を漏らして泣いている。

「だって松田、こんな汚ぐで、なんもねぐで恐ろしい所、女っごが来っとこじゃねぇぞ、それを文句も言わず俺らの後くっづいて歩ってきでんだもんよ、大したもんじゃねえがぁ…おおっうおおっ……」

だけど、山根さんと向井さんは、顔を見合わせて黙りこんでいた。意を決したように、山根さんが口を開く。

「悪ぃけど、俺は認めたくねえな」
「山根……」

向井さんも静かに頷いた。私、嫌われてしまったみたいだ。私が女だって話をしたせいで予定外に時間が過ぎてしまったけど、雨は少し小降りになっていた。渡河の準備をした私たちは、樹に守られたジャングルの茂みから川へと向かう。敵、来ませんように。

「弥生ちゃんは俺が担いでやっか」
「こいつはこう見えて意外と根性があるから一人で渡れる。阿久津は向井を頼む」
「俺も一人で行けるっす」
「そんな剥げた木の皮みたいな顔の奴、あんな風に流されるのがオチだぞ」
「間違いない」
「木の皮…すまねえっす……」
「おっしゃ、行ぐどおー!」

私とは目も合わそうとしない山根さんと向井さん。ずっと昇さんが説得してくれて、置いていくわけにはいかないからと渋々で同行を認めてもらった。

昇さんは何もなかったみたいに相変わらずの調子で、失礼な冗談を言いながら朗らかに笑っていた。この時代の人たちは、言葉だけ抜き出したらパワハラになりかねないことを当たり前に言う。だけど、その言葉の奥に、深い、深い責任感や優しさとかがちゃんとあるのがわかる。義理人情ってやつかな。すごくすごく、あったかくて、しっかりしている。私も、しっかりしなきゃ。男女平等、男女平等! そうだよ、女だから大目にみてもらおうなんて、この状況じゃあり得ない。足手まといだと思われたら終わりだ。

「先に行くぞ」
「うん。気をつけて」

ツタのロープを持って昇さんが先に渡る。私たちも昇さんに続く。腰に巻いた巻きゲートルを昇さんが渡したツタに絡めて辿って渡る。巻きゲートルは足を保護するものだけど、渡河のときは命綱になる。歩くのもギリギリな向井さんは阿久津さんに支えられながら、山根さんはみんなの荷物を乗せた筏を引いてツタの一番うしろについた。川に入ると膝まであっという間に浸かり、進むにつれてウエストが隠れた。

流れに逆らわず、むしろ少し流されるようにして斜めに進む。一番体力を消耗しない渡り方なんだって。だけど流れてくる木屑や草が当たりそうになるから、のんびり流されているわけにはいかない。みんなは?

「あっ、筏が! 昇さん、山根さんが大変!」

山根さんの筏に木の葉や小枝が引っかかって、それがどんどん溜まっていた。そのせいで流れをもろに受けて筏がどんどん流されそうになるのを、山根さんが必死に引っ張って止めている。あれでは止めるので精一杯で、前に進めない。

「山根! なんとか荷を担いで筏を捨てろ!」
「おうよ!」
「無理するなよ! いよいよとなったら荷も捨てて構わん!」
「米が入ってんだぜ、絶対に捨てんさ」

山根さんが少しずつ流されながら筏との距離を詰める。私は肌に貼りつく小枝や枯れ葉を払いながら、息を飲んでその様子を見つめた。山根さんのほうでも絡まり合った枝や葉の塊が流れていて、山根さんの背中にかかっていた。それを取り払おうとして体をひねった山根さんが、一瞬にして濁流にのみ込まれてしまった。

「山根っ!」
「山根さん!」

流されてしまうかと思った山根さんが、ロープをたぐって筏のそばで顔を出した。だけど、筏に腕を伸ばしてもたれかかったまま、動かない。自力で泳ぐだけの力は出ないってこと?
でも一番近くにいる阿久津さんは、向井さんを連れているから手出しができずにいた。
どうしよう! こうしている間にも、筏にはどんどん木屑が溜まっていく。あれじゃ重さにツタが耐えられなくなってしまうかも。

「山根っ! 耐えろよ!」

阿久津さんが何度も呼びかけた。山根さんからの返事はない。山根さんが流されそうになっているのに、私のロープまでは筏の重みが来ていないことに気がついた。阿久津さんがロープを引っ張って支えてくれている。大自然の脅威を前に、私たちに出来ることは限られている。私には何が出来る? 陸まであと2mくらい。唇をきつく結び、巻きゲートルをほどいた。怖い、怖いけど。

「弥生! 何をしている!」
「私、山根さんを引っ張れる力ないから! 自力で渡る! 私が抜けたら昇さんが引っ張る重さが軽くなるでしょ!」
「無理だ! お前が流されるぞ」
「昇さん、私のこと意外と根性あるって言ってたよね!」
「勝手なことを……必ず生きて渡れよ!」

ロープの支えがなくなると、自分だけの力で川の流れと戦わなければならない。恐怖で視界が狭くなって、胸が苦しくなるような不安が襲ってきた。体が強張りかける感覚……だめ! びびっている場合じゃない! 踏みしめろ! 足! かきわけろ! 腕! 服が水で纏わりついて、重い。水圧に抵抗して力を込めると、余計にマズくなる。焦らない、焦らない。流れに逆らわない、だんだん岸に近づけばいい。水を飲んだりしないように、落ち着いて。視線の先に、ロープを引く昇さんが見えた。頑張って! 昇さんは、もうすぐ岸に上がる。

岸に着いた昇さんが、ロープを力強く引いている。私も必死で岸に向かう。

しばらく私を心配そうに見ていた昇さんも、自力で岸に近づいている私を見て、やっと山根さんのほうを向いてくれた。少しずつ昇さんが遠くなる。阿久津さんも岸までもうすぐだ。私も頑張ろう。だけど手足が重くて思うようにいかない。けど、根性あるって言ってくれたんだから、足手まといにはなりたくない。その気持ちだけで、手足を前に出す。踏ん張っていてもじりじり流されて、なんだか意識が朦朧としてくる。もう気力だけで立っているような感覚。どれくらいそうしていたか、ぼんやりした視界に昇さんが走ってくる姿が見えた。

「弥生! 手ぇ出せ!」

昇さんが私に向かって手を伸ばす。岸まであともう少し。だけど、手を上に出すと水の中の体を支えきれない。

「出せないよ! 無理! このまま行くから大丈夫!」

そう私が言い終わるより先に、昇さんが川に入って私に向かってきた。すぐに昇さんの腕が私に届いて、川下側から体ごと支えるように抱きかかえられた。

「よく頑張ったな。皆無事だ」
「あ……りがとう。よかった……」

こんな時なのに、昇さんに抱きしめられたことで、ドキドキしてしまった。だけどそういうのは今、封印しなきゃ。

昇さんと私は岸に上がり、山根さんたちがいる場所まで戻った。私は思っていたよりも流されていたようで、川から上がったあとみんなのところまで歩くだけでヘトヘトになってしまった。でもみんな無事で本当に良かった。ロープから離れたのは怖かったけど、不安だったけど、本当に良かった。だけど、向井さんが水を大量に飲んでしまったみたいで、みんなのところに着いたら山根さんだけじゃなく向井さんまでもが横に寝かされていた。

「米が……すまねえ、すまねえ……」
「お前が生ぎてりゃそれでいいんだって言っでるんだけんども、さっきがらずっとこんなだ」

筏の荷は流されてしまっていて、山根さんは荷を守れなかったことをかなり気にしているみたいだった。そうだよね、私も湖で襲撃されたときはカニ置いてきちゃって、すごく凹んだもん。あんな少ししかとれなかったカニでさえそうだったんだから、みんなの分のお米や荷物を手放してしまったときの申し訳なさなんて、想像するだけで辛い。ホっとしたのと、その気持ちを考えてしまって、涙が止まらない。

「山根さん、よかった。本当によかった」
「俺、ずっと無視してきたのに、そんな顔して」
「こんな得体の知れないのと一緒に行動してくれるだけで、充分だから」
「すまねぇな、女なんか足手まといだと思ってたくせに、俺がとんだ足手まといだったぜ」
「山根さんのせいじゃないよ」
「だけどよぉ……」
「山根、判断を誤ったのは俺だ。すまん」
「誰も悪ぐねえよ、さ、ここは危ねえから、行くぞ」

阿久津さんの言う通りだよ。誰も悪くない。強いて言えば、いるはずのない私がここにいるのが、悪い。

いつまでも見通しの利く場所にいるのは、雨だからって危険だ。阿久津さんの促す声に任せて、私たちは重い腰を上げた。今度は昇さんが向井さんを、阿久津さんが山根さんを背負って、私たちは再び深い森に紛れ込む。付近を探索に行った昇さんが、北側にセンタニ湖があるのを確認して戻ってきた。目指すゲニムは、ホルランジヤから湖を通り過ぎて西の方角にある。私たちはだいぶ流されて、逆戻りに近いところへ来てしまっているみたい。

地図も何もかも背嚢ごと筏に乗って行ってしまったから、ここからはみんなの頭の中にある地図を頼りに進むことになった。命からがらの私たちに残されたのは、頭に乗せた軍服や刀と、それを包んでいた携帯天幕、ロープ、それから昇さんのカメラ。それに私の電波もGPSも使えないスマホ。地図にもならないし、わかるのは日時と気温くらいだけど、ないよりはマシ。はあ、明日からどうやって生きていけばいいんだろう。

山根さんはだんだん血色を取り戻してきて、良く眠っている。だけど……向井さんが衰弱しきっていた。

「向井。お前に言わなきゃならないことがある」

向井さんの頭のそばに座った昇さんが、蒼い顔で重苦しく口を開いた。

「わか、ってます……よ。そ、んな顔……しないでくだ……い」
「明朝、一緒に発てなければ、俺たちは先に行く。お前は……体調が戻り次第、後から来い」
「昇さん、そんなの無理でしょ! ひとりじゃ食べるものだってっ」
「弥生ぢゃん」

向井さんを置いて行くなんて、そんなの絶対ダメ! ひとりきりで回復なんて出来っこないよ。だけど食い下がる私を阿久津さんが遮った。その目は、とても悲しそうで、悔しそうで。昇さんの蒼白で悲痛な顔を見て気付くべきだった。みんな、わかってるんだ。置いて行ったらどうなるかなんてこと。……向井さん本人でさえも。

今の私たちは、さながら群れからはぐれた野生動物で。食べなきゃ死ぬ、群れに追いつけなければ死ぬ、そんな状態。だから歩き続けなきゃいけない。食うか食われるかの世界で、歩けなくなった者はもう、そこでおしまいなんだ……。

私なんかよりよっぽど付き合いが長くて、この戦争を生き抜いてきた絆で繋がっている昇さんや阿久津さんが、どんな気持ちでこのことを向井さんに告げているのかを思ったら、意見した自分の浅はかさが恥ずかしくて、腹が立った。なんとかして出発までに歩けるように……そんなことを考えてはみても、薬どころか体力を回復させる食べ物もない。どうしたらいいんだろう。本当に他に方法がないの? ああ、頭が上手く回らない。

「ああ、母ちゃん? なんかあったんけ? そんな浮かない顔して」
「え?」

どうしようどうしようと何も思い浮かばない頭をかきまわしていたら、向井さんが、急にハッキリと話しかけてきた。弱弱しくはあるけど、さっきまでみたいな途切れ途切れじゃない声で。

「頼む。側にいてやってくれないか」
「え? 私?」
「弥生ぢゃん、おっ母に見えでんだ。頼むな」

ふたりが、天幕を巻いて眠ってしまった。毛布がないから、今夜から私たちは天幕を寝袋にして寝るのだ。先に休んだ山根さんのイビキと虫の鳴き声が大きくて、向井さんの声が聞き取りづらい。もっと近くに、と、向井さんの頭と背中に手を差し込んで頭を自分の膝に乗せる。軽い……男の人って、たぶんもっと重いはず。やせ細ってげっそりした顔の向井さんが、私の膝の上で安心したように笑った。嫌われていてもいい。今だけは、こうして安心して休んで欲しい。

***

昼間の雨が嘘みたいに止んでいる。だけど森を通る風は長い雨に冷やされていて、弱った向井さんから容赦なく体温を奪う。ミノムシみたいな向井さんが、膝の上でカタカタと歯を震わせている。

「母ちゃん、今年はカエルが鳴ぐようになっでも随分と寒いんだねえの? 田んぼは大事け?」
「え? あ、ああ。じきに温かくなるよ。だいじだ」

普段より、方言が多く混じった言葉で話す向井さん。本当にお母さんと話しているつもりなんだな。

「ああ、そうだ。俺、ニューギニヤで仲間と敵機をまた何機も撃墜したんだ。天皇陛下の御為に、向井家の男子として。んだから勲章も賜ることになってんだよ」
「そう、なの。それはお手柄だねぇ」
「敵もなかなか手ごわかったけんどな、かわしにかわして空中でクルリと回転してよ、後ろからスババーン! っと! 目の前で俺の活躍を見せらんねかったのが残念だわ、あはは」

返事に困るよ。お母さん役なんて、難しくて。それに……向井さんは話をずいぶん盛っている。だって、昇さんが前に言っていた。基本的に昇さんのいる部隊は輸送とかの後方支援だって。嘘の武勇伝、か。この時、私はどんな顔をして聞いていればいいんだろうって、きっと変な顔をしていたと思う。

「母ちゃん、ああ母ちゃん、ごめんよ。そうだよなぁ。お見通しだよなぁ。俺はいっづもこうやって格好つけては『このでれすけが!』って母ちゃんに叱られてたもんなぁ」
「……」
「母ちゃん、俺は手紙に書いだような飛行機乗りなんかじゃねーんだわ。ずっと倉庫番だ。恰好の良いことばーっし書いてたけんど、最近は畑を耕したりの毎日だ。まったぐ、農家は嫌だと言って志願したのに、これじゃあ家に居るのと同じだんべなぁ。ははは……」

私が何か答える必要はもうなかった。向井さんは小さな声で、決まり悪そうに嘘だと自分で暴露して、あれやこれや思い出を語り続けている。いつの間にか、私は向井さんの頭をまるで子守りでもしてるみたいに撫でていた。自分が向井さんのお母さんになったつもりでとか、そんなんじゃなくて、なぜだか自分でもよくわからないけど、そうしたいと思った。しばらくそうしていたら、ふと、向井さんの表情が変わって、『私』と目が合った。

「弥生、ちゃん……? 俺、弥生ちゃんのこと、女だから認めたくないと思ってたんす。口もきいてなかったのに、なんでこんなに優しいんすか」
「ううん! 私が逆の立場だったらこんなヒョロヒョロのお荷物女なんか一緒にいたくないもん、気持ちわかるから!」
「はは……。本当にすまなかったっす。しかも俺、今、おかしなこと言ってたすよね?」
「え、っとぉ……」

言わない方がいいのか、言ってもいいのか、私は返事に迷ってしまった。

「夢か幻か……、母親に会ったような気がするんす」
「実家の夢?」
「そうっす。父親が死んで、女手ひとつで兄貴と俺、妹を育ててくれたんす」
「3人? すごい」
「昔っから出来の良い兄貴は学校に行きながら家で米も作って、いつも母親に頼りにされてて……俺は何か役に立ちたいと思っても、どうにも反発しちまって」
「……」
「農家なんか手伝わんと言って志願兵になったのも、本当は……」

向井さんは視線を落として、ポツリポツリと話している。今にも氷になってしまいそうなほど冷たい体で真っ青な唇だけが動く。元気になってほしい。このまま、もっとたくさん話をしてほしい。だけど、いくら鈍感な私にだってわかる。話せているのがおかしいくらいの状態なんだ。きっと本人もわかっているんじゃないかな。目を閉じたら、きっともう開くことはないって。

「男親のいない家は、長男は残すって話を聞いたんす。だけど戦争が始まった時、俺はまだ兵役の年齢じゃなかったから、兄貴が徴兵されてしまうんじゃないかって、それで先に志願したんす」
「お兄さんのため……」
「なのに啖呵切って家出同然で志願したのに、俺はどうも変わったものに腹がついていかないようで度々下すもんだから、実戦向きじゃないとなってしまったんす」
「そっか。それで本当のことが言えなくて、操縦士になったって」
「俺、そんなことまで言ってたんすか。参ったなぁ、こんなにベラベラ弱音ばっかで、男のくせに情けねぇっすね。女は認めないなんて嫌な態度してたくせに」

笑ったような、泣いたような顔。この時代の男の人たちは、女の前で泣くなんて恥だと思っているんだよね。でも、私は令和の女だ。

「情けなくないよ! 普通だよ!」
「弥生ちゃ……」
「私のいた令和って時代はね、男だって泣くし弱音吐くし! 男女平等っていってね、仕事も大学も、男女一緒だよ。男だけ強くなきゃいけないなんて時代遅れなんだよ! それに男女っだけじゃなくって、いろんな国の人と一緒に働いたりしてる! そういうのが普通なの!」
「す、ごい時代すね……」
「この戦争が終わったら、そういう時代がやってくるの。男も泣いてよくて、天皇陛下のおんため、なんてもう誰も言わないの! それこそ天皇陛下がもう疲れたから天皇やめるね、って言っちゃうんだよ! それでみんなが陛下お疲れ! ってするの。長男だからとか次男だからもなくて、みんな自分の思ったこと言って良くって、辛かったら辞めてよくて、好きなことしていいんだよ!」

もっとマシなことを言ってあげたかったけど、なんだか上手く励ませた気がしなかった。だけど向井さんは、カラカラに乾いた頬に一筋の涙を零して。

「そっか……ぁ。未来は、いいなぁ……思ったこと、言っていいのかぁ……」

そう言って、笑ってくれた。

「そうだよ! だから生きよう! 生きて、帰って、戦争が終わった後の日本を見ようよ!」
「あぁ……、そうだなぁ……生きたいなぁ。死にたく、ないなぁ……」
「向井さん……っ」
「生きて、母ちゃんに謝りたいなぁ……本当の事、話したいらぁ……」
「話そう! お母さんも待ってるよ! お兄さんも、妹さんも!」

なのに、向井さんの瞼はどんどん下がってきて。ろれつも、だんだんおかしくなってきている。

「ダメだよ! 明日、一緒に歩くんだよ! 向井さん!」
「なぁ弥生……ちゃん、頼みがあるん、ら……」
「え? 何?」
「未来に戻ったら……俺の家族が生きてたら……ごめんって伝えてほしい……んら」
「何言ってるの? 自分で謝んなよ! それにお母さん、なんでもお見通しなんでしょ? きっとお兄さんの為に志願兵になったことだって、お見通しだよ!」
「そ、っかぁ……そう、らなぁ…………」

向井さんの目は、もうどこも見ていない感じだった。蚊の鳴くようなか細い、枯れた声もそこで途切れた。

「向井さん!? ちょっと、死んじゃだめだよ! 昇さん、みんな、起きて! 向井さんが!」

私は慌ててみんなを呼び起こした。

「逝かせてやってぐれ、最期が弥生ぢゃんの膝の上なんて、幸せすぎるじゃねえが」
「でも、でも……」
「魚たらふく食って女の膝で死ねるなんて、ここじゃ考えられないもんなぁ」
「上が聞いたら何と言うかな」
「構うこたぁねぇよ。死に方を選べるんなら俺は敵もろとも! それがだめなら腹上死って決めてんだ。マラリアやら飢え死になんて御免だぜ」
「はは、山根らしいな」
「向井ぃ、先行っで待っでろよ……」

勇ましいことを言った山根さんが、こっちをちらりと見て呟いた。

「まあその、なんだ。認めねえなんて言ってよ……悪かった。向井の事、ありがとな」
「い、いえ! 私、頑張ってついて行くので!」

向井さんの消えそうな命が、私と山根さんを繋げてくれたような気がした。虚ろな向井さんの目は、ただ一点をぼんやりと見つめていた。死んじゃダメ、だめだよ、と励ましたい自分と、お疲れ、もう安らかに、って思う自分がいる。過ごした時間は短かったから、悲しいというのはちょっと違う気がする。この感情は、なんだろう。向井さんは、なんでこうなってしまっているんだろう。川で冷えて? お腹を壊して? おかしくない? 体が冷えたら、あっためればいいんだよ。暖房付けて毛布たくさんかけて、あったかい飲み物飲んで。てかお腹壊すってなに? 薬は? なんで私たちは湖の得体の知れない魚なんか夢中になって食べていたの? そもそもなんでこんなジャングルの中を歩いているの?

「おかしいよ!」

こんなの、絶対おかしい! こんなところで戦争なんかやってるから、私たちはこんな目に遭って、向井さんも死んでしまいそうになっているんだ。

「こんなの、戦争なんて間違ってるよ! やーめた! ってみんなでボイコットしちゃえばいいのに! もう、やめて病院行こうよ、ねぇ、向井さん、ね?」
「……もう死んでるよ」
「え……」

気付いたら向井さんはもう、硬くなり始めていた。瞼を閉じる力もなく、静かに、いつの間にか。空を見つめる瞳はもう、星も映さないほどに乾いていた。

「なん、で……ねえなんで向井さん死んじゃったの? どうして……っ」
「弥生ぢゃん、落ち着いで」
「だって……、生きたいって、生きたいって言ってた! なのになんで……っ!」
「やめろ弥生」
「だって……こんなの……こんなのって……悔しくないの……?」

ああそうか。この感情は、悔しさだ。それから、憤り、ってやつだ。昇さんたちに言ったって、ただの八つ当たりなのはわかっている。でも止まらなかった。この時代の人はこれが当たり前だと思っていて、私の言うことなんかただの甘えだとか言われるのかもしれない。だけど言うのを止められなかった。

「戦争なんて、勝ったって負けたって、何千何万って死んじゃうのに、そうまでしてなんで領土取り合ったりするの? 別にこんななんもない島なんかいらなくない?」
「それは、本土には資源がないからで、それと本土に攻め込まれないためにもこの海域を……」
「資源なんか別にいらないよ! ガソリンがなくったって、電気で車が走って磁石で電車が走るようになるんだよ! アメリカとだって仲良くやってるし、土地がなくったって東京のビルの中で畑やって屋上でハチミツ採ってるよ! だから戦争なんて無駄なん――」

バシン! 昇さんに頬を平手で打たれた。

「それ以上言うな。俺たちは無駄なことなどしていない。この戦争が無駄なら、これまでに流れた血も無駄だったということになる。向井もだ」
「あ…………」
「俺らは……もう後に退げねえんだよ、弥生ぢゃん」

痛いのは、昇さんに叩かれた頬じゃない。心が、痛くて。苦しくて。私が叩かれたからじゃない。叩いた昇さんの手の痛み、違う、心の痛みを感じてしまったから。みんなの表情が、苦しそうで。彼らが当たり前に戦争してるなんて、どうして思っていたのだろう。

「ご、めんなさ……」

一言、口にするだけで精いっぱいだった。


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