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『ホーランジア』10 後悔の先に

私たちはあの日以来、ほとんど話すことなく歩き続けた。

向井さんを丁重に埋葬した日、予定より少し遅く出発した朝は快晴だった。流されてきた川に沿って森の中を歩くと、生い茂る樹々の隙間から川面が覗いた。太陽を反射させてキラキラ光って、私たちをあんな目に合わせた川と同じだなんて、とても思えないくらい綺麗で。水も、かなり引いていた。それを見た時の昇さんの顔が忘れられない。きっと自分を責めていたんだと思う。一晩だけ待てば、って。

だけど、前日あんな勝手なことを言った私が掛けられる言葉なんか、あるはずがなくて。そんな私と昇さんの空気を読んで、腫れ物に触るような、というか触らない阿久津さんと山根さん。いっそ昇さんが俺のせいだ! とか言って喚いてくれたらいいのに、なんて思うけど、昇さんは絶対そんなところ見せないだろうなということもわかっている。

今、私たちを繋いでいるのは、向井さんの形見だ。軍服と鉄帽、天幕と刀をひとりずつ持つことにした。生きて帰って、家族に渡そうと。私は鉄帽を被っていなかったから、鉄帽を。向井さん、私。必ず、届けるから。

***

パチパチと焼ける今日のメインディッシュは、カエルの野草包み焼き。聞こえはグロいけど、ごちそうなのである。ここに来た頃の私じゃ絶対に無理だ。見ただけで、ううん、聞いただけで吐く自信ある。乾パンを「意外とおいしい」とか、みそ煮缶で炊いたごはんを「たったこれだけでも」とか散々なことを言っていたなと、自分のアホさが嫌になる。今思えばあれは、最高級レストランレベルの食事だった。誰よ、カエルは鶏肉の味がするなんて言ったの。土臭くて生臭くて、カエルはカエル味だよ!

それでもカエルならまだマシで、本当に魚、カニに次ぐごちそう。何日か前に食べたのはダンゴムシ。もう本当に嫌で嫌で仕方なかったけど、エビだと思えば食えると言われて頑張って食べた。殻がいつまでも苦々しく口の中に残るし、肝心の身なんかほとんどない上に土の味しかしなかった。しかも、少ししてみんなで中毒になって、一時は全滅かもって考えが頭をよぎるくらいだった。舌がなんとなく痺れるなって思ったら頭がクラクラして、吐いて、吐いて、吐きまくって。吐くものがなくなったら暫くして治まったけど、危なかった。前に食べられると聞いたことがあると阿久津さんが言っていたけど、葉っぱと同じで似ていても毒のないものと有毒の種類がいるのかもしれない。
それか、前の魚の時みたいに、何か本体に毒がなくても別の要因で中毒になったのかもしれない。原因を突き止める余裕はないから、もう虫はやめておこうとなって、カエルをせっせと捕まえる毎日。
川がある時は、早朝のカニ獲りを決行する。視界が開けて敵に見つかる危険はあるけれど、飢えたらオシマイだから。カニだって川の臭さはあるけど、それでも食べたことがある味がちゃんとする。魚の時と違って、お腹も下さない。カニは私たちにとって一番のごちそうだというのは間違いない。

でも今日はカエル。これだって、ごちそう。自分にそう言い聞かせて、口に運ぶ。そんな毎日。火を熾すのは昇さんが一番上手らしく、反対に阿久津さんはからっきしだという。俺がはぐれて独りになったら火が熾せなくて死ぬと言っていた。だけどそのかわり、カニやカエルを一番多くつかまえる。それから、山根さんは食べられる葉っぱを見分けるのが得意。うっかり毒草を摘んでいたとき、よく似た食草との見分け方を教えてもらった。『勉強は好きじゃねえが、本を読むのは好きでな。戦術指南書の中にはこういう知識も載ってるんだ。まさか実戦で使うことになるとは思わなかったけどな』って。

この3人だから、こうしてジャングルの中でも生きて歩いていられるんだなと思う。私は……何の役にも立っていない。夜になると熱がでたりしてみんなを心配させてしまったりもするし。一晩で回復するのは若い証拠だ、なんて昇さんが言ってくれたけど、相変わらず以前みたいには笑っていなくて、私は嬉しいのとさみしいのでへらへらと変な笑いしか返せなかった。もう、前みたいには戻れないのかな。

***

仲直りの機会は、望まない形で訪れた――
山根さんがここのところずっと熱っぽい。この感じはマラリアじゃないかって、昇さんと阿久津さんで話しているのを聞いた。

「なあ山根、お前、もしかしで……」
「ただのカゼだよ、心配すんなって」
「ならいいげどよ、無理すんなよ」
「あいあい」

時々、こめかみを押さえて眉間にしわを寄せていたり、ハアハアと呼吸が小刻みで荒い。ただのカゼだとしたって、栄養状態だって最悪な今の体は、こじらせて肺炎にでもなったらきっと簡単に死へ向かってしまう。心配だけど、休息をとる余裕もなければ薬はおろか、満足な食事だってない。してあげられることが、全然ない。ここに来てすぐ、この軍服をもらった人が倒れていたのを見た時、私は助けなきゃ、って思った。実際にはもう亡くなってしまったあとだったんだけど、助けようとしない昇さんに、酷いこと言ってしまった。今は、あのときの昇さんの気持ちが、少しはわかる。どうにかしてあげたくても、限界があるんだ。というか、何もしてあげられることがない。本当にない。人間って、こんなに無力なんだって、つくづく思い知った。道具がなきゃ、ジャングルの中では虫以下の生物なんだ。だけど逆に熱を出したって中毒になったって、治るときは治る。そんな強さも持っている。だから体調を崩したら自分でなんとかふんばるしかないんだ。でも、向井さんは回復出来なかった。私たちはお腹を下しても大丈夫だった。この違いは何? 元々の体力? 悪いものを食べた量? それもあるかもしれない。けどきっと、本当にちょっとした、運みたいなものなんじゃないかと思う。あと数m爆撃がずれていたら、私はここに来た瞬間に死んでいたかもしれない。あと数㎝川の幅が広かったら、私もあの川で死んでいたかもしれない。かもしれないの連続をかわして、今私は生きてる。これから先もきっとそう。運任せ。出来ることは、水も食べ物も必ず火を通す、ケガをしたらとにかく洗う、そんなことくらい。山根さんがこのまま自力で解熱してくれるのを、私たちはただ、待つだけだ。

その夜、待望の焼きガニを食べた後、早めに休んだ山根さんが、これまでにない高熱でうなされ始めた。訳のわからないことをうわごとのように呟く山根さんを、私たちはやっぱりただ見ているしかできなかった。

「山根ぇ、耐えろよ、一晩耐えりゃ、なんとかなんだがらよぉ」
「頑張れ、山根、頑張れ」

だけど、私は見てるだけなんて、嫌だ。天幕に潜り込んで、軍服の中に着ていたロンTを脱ぐ。星明りを頼りに、すぐそばにある湿地へ歩いて、それを浸した。きれいな水じゃないし、きれいな布でもないけど、ないよりはきっとマシなはず。うなされる山根さんの額に湿らせたロンTをあてる。

「なあそれ……まさか米国旗け?」
「あ」

阿久津さんが、いかつい顔をさらに強張らせて言った。
いけない! 山根さんに何かしたい一心で、ロンTの柄の事をすっかり忘れていた。

「なんでそんなもん!」
「あの、これはっ」
「未来には、こういうものが溢れているんだそうだ」
「……」
「ごめんなさいごめんなさい! ひっくり返します!」

私は慌てて柄を内側に折りたたんで、山根さんの額にそれを戻した。阿久津さんの唇が、震えている。怒らせてしまったかもしれない。そう思って肩を縮めていたら、予想外の落ち着いた声で阿久津さんが話し始めた。

「……なあ。弥生ぢゃんの話じゃぁ、日本は勝づんだろ? そんでアメリカとも仲良くやっでるって言ったよな」
「う、うん」
「負けた国の国旗を胸につげてりゃ、仕返しされねぇって寸法なのかい?」
「え、っと。そういうわけじゃ、ないけど。なんとなく柄がカッコイイから? みたいな」
「カッコイイだと!」
「ごめ……」
「……や、こっちごそデカイ声出して悪がった。でもよ……弥生ぢゃん見てると思ってしまうんだわ」
「阿久津……」
「俺、あれがらずっと考えでた。弥生ぢゃんが言っだこと。勝っでも負げてもあとで仲良くなんなら、本当にこの戦争は何なんだろうっでよ」
「阿久津さん……」
「俺ら、アメリカ人は人の姿をしだ鬼だって言われでここまで来てるんだ。けんどよ、本土にいた頃にゃジャズなんかも流行っててよ。ありゃアメリカのもんだろ」
「……」
「俺…どっかで思ってだんだ、本当にあいづら鬼なのかっで」
「阿久津、考えるな」
「だってよぉ、松田、俺らの着てる軍服だってよ、元はあっちのもんじゃねぇか。それにドイツが人間でアメリカが鬼って、俺にはさっぱり区別つがねかっだしよぉ」

阿久津さんは、優しい。だから、私が無駄な戦いだって言ったことを、こんなにも抱えてしまっていたんだ。この戦争に参加してる軍人さんたちはみんな、本当に本心から相手を憎んで、敵を殺すことに罪の意識なんかないとか、そんなふうに考えていた。でも違うみたい。向井さんだって、生きたいって言った。そして阿久津さんも、戦うことにずっと疑問を持っているんだ。考えるなと言っている昇さんも、きっと。みんな、抗っても抗えない時代だから。そう、私がカエルをご馳走だって自分に言い聞かせるみたいに、お国のため、鬼畜米英、なんて言って自分を騙してるのかもしれない。

だって、相手が鬼じゃなくて人だったら、この戦争は人殺しになってしまう。私のせいで、阿久津さんは蓋をしていたその答えにたどり着いてしまいそうになっている。この時代の人が辿り着いてしまったら、とても耐えられない答えに。異質なんだ。私は、異質。私がここにいたら、みんながおかしくなってしまう。

「昇さん、明日、山根さんがこのままだったら先に行くんでしょ?」
「仕方ないが、そのつもりだ」
「じゃあ、私は山根さんとここに残る」
「え?弥生ぢゃん?」
「…………わかった。ゲニムまでは、この川沿いだ。ずっと西に向かって、大きな河にぶつかったら渡る。その先にある」
「おい! 松田、何言っでんだ!」
「わかった」
「松田!」

 阿久津さんが私を止めるのを、昇さんが遮った。『何があっても守る』なんて言ったけど、不穏分子で役立たずの私にきっと愛想が尽きたんだ。ロンTタオルの水分で少し落ち着いたような山根さんの横で、私は出会ったときからここまでの事を思い出して、肩を震わせた。

***

朝早くに、昇さんと阿久津さんは出発した。阿久津さんは、必ず2人で来いよって言ってくれた。昇さんは、無言だった。私は、自分でその手を離したくせに、振られた感でいっぱいだった。付き合ってなんかいないし、告白すらしていないのに。

けど、今はそんなことで悲しんでいる場合じゃない。山根さんの症状は落ち着いているけど、熱はまだ高い。朦朧としていて、朝ごはん分の焼きガニを鉄帽の中ですりつぶすようにしたものを口に運んでみたけど、口を開ける気にもなれないようだった。もしも山根さんがここでダメだったら、ひとりで何もできない私もそのうち飢えるかなにかで死ぬんだろう。逆に山根さんが回復したら、一緒になんとかやっていきたい。いつまでも昇さんに甘える私じゃなくて、足手まといの私じゃなくて。なんてね……これって、山根さんで賭けをしているということだ。最低。でもこれしか思いつかなかった。

「や、よいちゃん?」
「おはよう!」

 朦朧としていた山根さんが、意識を取り戻した!

「そうか、弥生ちゃんがいてくれたのか。だから……」
「なに?」
「嫁さんの夢を見てたんだ」
「奥さん? 結婚してたんだ!」
「ああ。俺なんかにゃ勿体ない別嬪でよ」

そう言って、ニンマリしてみせた山根さんがなんだか可愛かった。それから、その別嬪の奥さんのノロケ話をたくさん聞いた。山根さんは、少しだけカニを食べてくれた。日が高くなってきた頃だった。

「寒い」
「え?」

キャミソールワンピ1枚で過ごしたいくらいの暑さなのに、山根さんがガタガタと震えだして、寒い寒いと言っている。また、熱が上がっているのかも。そう思って額に手を当ててみたらすごく熱かった。でもこの熱と震えなのに、山根さんは汗ひとつかいていない。水分足りていないよね。

「山根さん、水。お水飲んで」
「い、嫌だ、寒い、寒いよ、身体じゅうが痛い……」

私の知っている病気でいったら、インフルエンザみたいな感じだ。みんなが言っていたマラリアか、何か他の感染症かはわからないけど、山根さんの体力が勝つか、ウイルスとかそっち系のほうが勝つか、そういう感じ。でも病名がわかったところで薬も何もないんだから、そこは考えても無駄。とにかく、熱が出たら頭を冷たく、それだけをなんとかこなそう。

「死ねっ! これでもくらえぇっ!」
「山根さん!?」
「はあ、はあ。どうだ、参ったか!」

山根さんが、急に叫びだした。どうしちゃったの? 幻覚?

「うわーっはっはっはっ!!」

 病人とは思えないほどの声と動きで、どうやら敵と戦ってる? みたい。

「あああ! 来るな! 来るなぁ!」
「山根さん」
「うわあぁぁ!」

今度は様子が変わった。目の前を手で必死に振り払っている。さっきまでの猛々しさはなくって、まるで怯えた子供みたい。

「山根さんっ! ねえ!」

どんなに声を掛けても、私の声は聞こえないみたいだった。

「か、和子、和子か! あぁ、和子!!」
「きゃっ」
「会いたかった、会いたかったぞ和子ぉ!皆は無事か? 元気か?」
「ちょ、ちょっと」

今度はたぶん奥さんの幻覚。これは、ちょっと困る。だってこんなにもきつく抱きしめられるなんて。

「う、ううぅ」
「山根さん?」
「頭が、痛い……割れるようだ。助……け、て、くれぇ……」

信じられないくらいにシャッキリしていた山根さんが、また元の具合に戻った。しかも頭を抱えて横たわって、暴れまわっている。どうしよう、すごく痛そうだよ。私はオロオロするしかできなかった。何もできない上に、山根さんの声が大きくて、不安になる。しかもこんな大声、敵がいたら聞こえてしまう。

「はあ、はあ……み、ず……」
「あっ、は、はいお水!」

のたうち回っていた山根さんが、ようやく静まってお水が欲しいと言った。口からなにか摂るっていうのをしなくなっていたから、ホッと胸を撫でおろす。どうかこのまま、回復に向かって!

「なあ……弥生ちゃん」
「はい」
「俺、ここで死ぬんだな」
「え? 死なないよ!」
「いやいや。わかるさ、不思議だけど、わかるんだぜ」
「…………」

私の願いとは裏腹に、水分の飛んだ淀んだ目。まるで生気がない。諦めてしまっているのかな。

「あーあ。ついてねぇや。せめてサルミに着いて、敵と一戦交えたかったぜ……」
「戦いたいの?」
「ああ、そうさ。男に生まれたからにゃぁ、この命と引き換えに鬼畜米英を1人でも多く葬る! それが帝国陸軍の男の死に様よぉ」
「死に、様」

阿久津さんは悩んでいたけど、山根さんは芯から軍人なんだなって、思った。でも、死に様、死に様か。

「昇さんや向井さんとは、一緒の部隊じゃなかったの?」
「師団は同じだ。第41師団、河兵団っていうんだぜ。けど河兵団が溺れちゃ世話ねえな、はは」
「あ、はは」
「けど俺と阿久津は歩兵で、兵長と向井は輜重兵だ」
「んっと? どっちがどんな? しちょうへい?」
「歩兵は、戦闘員だ。輜重兵は、まあ、輸送隊だな」
「じゃあ阿久津さんと山根さんは敵と戦う人ってこと?」
「そういうこと」

 みんな同じ仕事をしてると思っていた。

「だけど島に来てからはずっとお散歩の毎日だったからなぁ」
「お散歩って」
「寒いとっから来たからよ、あったけぇし、海は見たこともねえってほど青いし、初めは極楽かと思ったぜ」
「あ、私も、最初来た時にキレイだなって思ったよ。いきなりだったからびっくりしたし、すぐに戦闘機に狙われてそれどころじゃなかったけど」
「そうだろう? でもなぁ、やれあっち、今度はそっちって、転進転進と歩き続けて、地獄を見たよ。弥生ちゃんも分かってるだろ? ここまで生きていられたのが信じられねえくらいだ」

いつもよりは小さい、だけど割としっかりした調子で喋る山根さん。一安心だな、と思った。でも。

「ふう。疲れちまった」
「そうだよ、少し休んだ方が。私、カエル獲ってくる! 火、熾せるかわかんないけど、えへへ」
「いや、行かないでくれ」
「え?」
「本当に、疲れちまったんだよ。弥生ちゃんがこんなとこにいるのは気の毒だが、俺らにとっちゃぁ、いまわの際に観音様か天女様が迎えに来てくれたんだと思ってんだ」

そんな、いいもんじゃないよ。

「だからもう少しだけ……」
「山根さん……」
「おかしなもんだよな。敵と戦って死にたいなんて言っといてよぉ、妹みたいな歳の女の子に縋ってるなんてな」
「おかしくなんかないよ」
「そうか? まあなぁ。俺もガキんちょの頃はすっ転んでは痛てえ痛てえってピーピー泣いてたんだ。母ちゃんに縋ってよ。男ってのは……いつから強くなるんだろうな?」
「あはは。今だって弱いんじゃないの?」
「そうくるかよ。ったく、レイワの女は男に敬意ってもんがねえよな。けどだからこそ、こんな話ができるのかもなぁ」
「山根さんは死なないでよ」
「……俺も死にたくはねえよ? でもよ、もう腹ん中が腐ってるような、とにかくもうあちこち使いもんになんねえ感じしかしねえのよ。死臭がするんだ、自分から」

死臭……。そういえば、この辺り、甘い臭いがする。花の香りじゃない。知ってる、この臭い。最初に嗅いだのは、裏山で死んだヘビを見つけたとき。まだ小学生くらいで、干物のにおいに少し似ているなって思った。でもそのあと、中耳炎になって。自分の耳からその臭いがして、自分もあのヘビみたいに死んじゃうんだって、怖くて仕方なかった。それから、おばあちゃんの家に行くと、いつもこの臭いがして、怖かった。こっちでも、途中に倒れていた人たちからこの臭いがすることがあった。そうか。今、この臭い、山根さんからしているんだ。

「ああ、また寒くなってきた。弥生ちゃん、俺も向井んときみたくしてくんねえか?」
「膝枕? わかった」
「へへ、腹上死じゃねえが、御の字だ」
「ふくじょうしって?」
「知らんのか? なら知らんでいいさ」

言葉の意味はわからなかったけど、山根さんが膝の上で安心したように笑った。向井さんと同じだ。

「レイワって、いい時代なのか?」

急に、山根さんがそんなことを訊いてきた。

「うん。嫌なこととか面倒くさいこといっぱいあったけど、戦争ないからね」
「そうか。戦争ないのか。いいな。けど、それじゃ尚更、生きて帰れねえや」
「どうして? バカみたいに平和だよ」
「だからだよ。そんな平和なとこに人殺しがいちゃ駄目だろ」
「そんなこと……」

ないよ、って、即答できなかった。もちろん、いちゃダメって意味じゃなくて。山根さんのその考え方に言葉が詰まってしまって。蓋を、していない? この時代に生きていて、戦争を人殺しと呼ぶ人が本当にいるなんて思わなかったから。そうか。山根さんがブレないのは、芯から軍人だからじゃなくって、自分を人殺しだと言い切ってしまうようなところからきていたんだ。また私の知らない軍人さんだ、なんて思って、ハッとした。私はこの期に及んで軍人さんはどう考えてたとか、映画はこうだけど本当はとか、『本当の軍人像』みたいなものを一生懸命になって固めようとしている。

違うよ。軍人さんだけど、そうじゃない。目の前にいるのは、山根さんだ。数日前に死にたくないって言って逝ったのは向井さん。こないだ戦争に悩んでたのは阿久津さん。

みんな、別の人間だ。軍人さんだからみんな同じ考えだったなんて、ないんだ。それぞれがそれぞれの思いを抱えて、だけど選択肢がなくてただひとつの同じ道を選んだ、それだけのことなんだ。

「俺はよ、明治維新でちょんまげ切られたお侍さんの気持ちがわかるような気がするぜ」
「……」
「それか戦国時代の武士だな。平和になったらよ、それまでの正義が悪になるんだ。生きて、帰って、子供がでっかくなって、孫が出来ても、俺はこの人殺しの腕では抱いてやれねえよ」
「そんな……時代だもん、仕方ないよ」
「自分が、我慢できねえんだ。戦場じゃ殺るか殺られるかだから、んなこと考えちゃいねえよ。でもよ、夢に見るんだよ、毎晩。嫁さんと子供たちがアメリカ人になって、なんだこれは、と思ってると自分もアメ公になってんだ。そんで普段通りに暮らすんだよ」

ああ。山根さんには、元から鬼なんかじゃなく、ちゃんと人間に見えてるんだ。人間だって分かってて殺してしまった自分を、許せないでいるんだ。

「俺は、俺は、この手で……、俺が守りたい幸せと同じ幸せを、いくつも! いくつも奪ってきたんだ……っ!」

泣いていた。涙も流さないで、泣いていた。

「……ああ、寒いなぁ、だけど、あったけえ」

寒いと言い出した山根さんを、また熱が出る予兆かと思った。けれど山根さんは熱くなんてならなくて、反対にどんどん冷えていった。まるで向井さんの最期みたい。氷みたいだ。色んな後悔が、山根さんの中で溢れてもう抑えられなくなっているのがわかる。

それでも生きて、歳をとって、おじいちゃんになって孫を抱っこしてほしいと思うのは、私側のワガママなのかもしれないと思った。この地で命を終えれば誰にも彼が人殺しをしたかなんてわからない。それが山根さんの幸せなのかもしれない。どのみち、選択肢なんかない。山根さんが静かに閉じた瞼から、一筋だけ、涙がこぼれた。今度こそ、本当の極楽に行くんだね。
 
もう動かない山根さんを膝に抱えて、私はぼんやりと辺りを眺めた。悲しいはずなのに、向井さんのときはあんなに乱れた心が、今はむしろ全然動かない。死って、慣れるのかな。それとも、麻痺しているのかな。心の出入口が閉まっているみたい。そのかわり、やけに視界がはっきりしていて、耳もクリアだ。

樹々の隙間から太陽の光が差し込んで、幹に絡みつくツタの葉の緑色が目に映る。時々、笛みたいな澄んだ鳴き声が空から降ってくる。あたりは湿地で水鏡になっていて、さかさまの世界に深く果てしない空が映っている。そのさかさまの空をオレンジ色の鮮やかな鳥が悠々と横切っていった。とても……綺麗な場所。
 
神聖、っていうのかな、そういう清々しさが漂っている。でもそれは、人の立ち入りを歓迎しないって意味でもあるのかもしれない。自然の美しさと、私たちのあいだに線引きがされている感じがする。だってここはこんなにも美しいのに、私たちはやせ細って泥まみれで死んでいく。カエルやトカゲのほうが、ずっと綺麗だ。私たちがこうして潜んでいるせいで爆弾が落ちてきたりするから、森が怒っているのかも。こんな、人間がいちゃいけない場所に、どうして私たちはいるんだろう。
 
向井さんが死んでしまったときも、こんなとこで戦争やってるせいだって憤ったけど、じゃあそもそも戦争ってどうして起こるの? 資源が、領土が、って言うけど欲張らなきゃいいだけじゃないの? 国同士のケンカなんて規模が大きすぎてピンとこない私には、考えてもわからないことだった。だけど、目の前で理不尽に死んでいく人たちがたくさんいるのは、紛れもない事実。争いを防げたなら、失わなくてよかった命だ。

ごめんね、山根さん。私だけの力じゃ、山根さんが休めるだけの穴を掘ってあげられないや。それに形見になるものも、たくさんは持てない。ボタンだけちょうだいね。山根さんの軍服からボタンを引きちぎった。だけど私だってきっと何日かしたら死ぬんだろう。死んだと思ったら元の時代に戻れた! って、マンガやドラマみたいなことが起これば別だけど、山根さんの形見を持って帰れるかは怪しい。ボタンを胸ポケットにしまおうとしたら、中になにか入ってるようで指が当たる。

「昇さんのフィルムだ」

返しそびれてハーフパンツのポケットに入れていたのを、いつだったか軍服に入れ替えたんだっけ。すっかり忘れていた。

「これも……私がここで死んだら、せっかく撮ったのに無駄になっちゃうんだ」

 こんなふうに離れちゃう前に、ちゃんと返しておけばよかった。そう思うのに、昇さんと一緒にいた証みたいに感じて、胸がきゅうと締め付けられる。昇さんに、会いたいよ……。

「山根えぇ~!!」
「あっ、おい!」

突然、茂みの向こうから阿久津さんが泣きながら飛び出してきて、それを止めるように身を乗り出していたのは、昇さんだった。

「弥生ぢゃん、こいづの最期、看取っでくれであんがとなぁ」
「昇さん、それに阿久津さん、先に行ったんじゃ?」
「山根があの様子じゃ、お前が独りになって野垂れ死ぬだけだろう。お前に死なれては夢見が悪いからな」

昇さんが笑った。笑ってくれた!

「あまのじゃくも大概になぁ、昇さん?」
「よしてくれ、そんなんじゃない」

昇さんに会いたいって思ったら、本当に会えた!

「ふえぇ……」
「弥生ぢゃん?」

何も感じなくなってしまったように動くことのなかった感情が、一気に極限まで振れたのがわかった。昇さんに会えた嬉しさと、一緒にいるはずの山根さんや向井さんがいない淋しさがごちゃごちゃに入り混じって、溢れかえる。なかなか泣き止まない私を、阿久津さんが必死になだめてくれた。昇さんは、山根さんの身の回りを整理しだしたようだった。整理といったって手ぶらみたいなものだから、あるのは向井さんの形見くらい。

「これは、俺が持づ。弥生ぢゃんは向井のを持っでくれ」
「うん」

阿久津さんがそこへ寄っていって、昇さんから山根さんの刀を受け取って言った。

私に渡されたのは、向井さんの短刀。この刀、そうか。昇さんのと同じだ。阿久津さんと山根さんのは、日本刀って感じで長くて、これは長めの包丁くらい。これなら私でも持てる。

「できるだけ多く持ち帰ってやりたいし着替えとしても重宝すると思うが……」
「本当は骨を持っで帰ってやりでえけどなぁ」

向井さんの時は装備品を4人で持てたけど、ここからは3人だ。蓄えも大事だけど、体力の消耗も考えると多くは持てない。私はボタン、阿久津さんは刀と天幕、それから、昇さんは靴紐をほどいて持った。山根さんの眠る土に手を合わせたあと、私たちは日没まで進むことにした。

「これでお前もいっぱしの軍人だなあ、生弥」
「弥生です!」
「ははは、こりゃいい夫婦漫才だ」
「めお……っ!」
「男同士だぞ、夫婦なもんか」

重たい空気を払うように、昇さんが刀を持った私をからかった。それを阿久津さんがひやかすから少し焦ったけど、5人でいたときに戻ったみたいって思った。森の奥から、ふたりが笑う声が聞こえたような気がした。


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