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『ホーランジア』11 あの河の向こう

森に潜んで進むこと2日、とうとうゲニムを目前にした河まで着くことができた。だけど天気はあいにくの雨。晴れでもバケツをひっくり返したみたいに降るこの島の雨だけど、今日は空も薄暗い。雷鳴も激しく轟いて、ドラムとか太鼓とかって悠長なレベルじゃない。知らない人に窓をドンドンと叩かれてるみたいな差し迫った恐怖を感じる。雨が川面を砕くように打つ様子も滝壷みたいで恐ろしさしかない。

「さすがにこれでは止したほうがいいだろうな」
「雷、すごいね……」
「お前が来てからはここまで鳴ったのは初めてかもな」

割れるような轟音は、頭上を掠める爆撃機を思い起こさせる。だけどこんな雨の時はそれも来ないから、ある意味じゃ一番平和で、安全ともいえる日。それだけが救い。向井さんと山根さんの携帯天幕で、寝袋を3つ覆える屋根を作った。雨でもこれのおかげで凌ぎやすさが全然違う。

激しい雨で垢を落として、不格好なざんばら坊主頭を洗う。昇さんと阿久津さんは天幕の向こう側で。だからって完全に脱げるわけじゃないけど、できるだけ丁寧に服の中を擦り流した。こんなにサッパリしたの、何日ぶりかな。4月の25日にここへ来て、もうGWも終わる頃なのに、軍服に着替えた日以来の気がする。そのあとの毎日は、いつ何をしたかなんて憶えていない。歩いて、食糧を獲って、食べて、寝る。ただそれだけを必死に繰り返してきた。その間に仲間を亡くした。憶えているのはそれだけ。

「さぁー! 腹いっぱい雨水食うぞぉ」

阿久津さんが褌一丁で妙な雄叫びを上げる。昇さんがそれを見て笑った。よかった。私、ずっと川が怖かった。渡るのが怖いわけじゃなくて、そりゃ渡るのももちろん怖いけど、そういう意味じゃなくて。川で山根さんが危ない目にあって、向井さんが死んじゃったこと、昇さんがずっと自分のせいだって抱えてるんじゃないかって思って。もちろん忘れてなんかいないだろうけど、それでも。渡河を前にして笑えるんなら、それで充分。この河を渡るときは、今度こそ無事に全員で向こう岸へ行くんだ。

***

雨は強まったり弱まったりを繰り返して、時には天幕に穴が開きそうな勢いで朝まで降り続いた。その音が銃声みたいで、なかなか眠れなかったし何度も目が覚めた。昇さんと阿久津さんも同じだったみたいで、時々うーん、と唸っているのが聞こえた。何度目かの目覚めで、阿久津さんが天幕から出ていくのが見えた。まだ夜明け前には少し早いのに、どこに行くんだろうと思った。はじめはトイレかなくらいに思っていたけど、なかなか戻ってこないからだんだん心配になってきた。暗いから迷っちゃった? それともぬかるみにはまって動けなくなった? いてもたってもいられなくなって、昇さんに声を掛けた。

「昇さん、昇さん! 起きて。阿久津さんが戻ってこない」
「ん……、ああ? 阿久津?」
「うん、だいぶ前に出ていって、そろそろ明るくなってきたのにまだ戻らないの」
「ほんとか!?」
「俺が、どうしだって?」
「阿久津さん!」

私たちが慌てているところに、夢のような甘い香りと共に阿久津さんが戻ってきた。手には、大きな木の枝というか……あれは?

「阿久津! バナナじゃないか! よく見つけたな」
「河を見だ時によ、向ごうのほうに葉が見えだから、朝んなっだら見にいぐべと思ってだんだけど、何度も目ぇ覚めで腹へっぢまっで」
「すごい……バナナってこんな風にたくさん実がなるんだ」

木に実っている姿を初めて見た。南国ならバナナくらい普通にあると思っていたのにぜんぜんなかったし。腕ぐらいの太い茎にぐるりと房がついて、それが4段くらい。らせん? ううん、互い違いになって重なっているのかも。とにかく、3人でも食べきれるかわからないくらいの量がある。天幕の中が、あっという間にバナナの香りでいっぱいになった。

「しっかり食っで、河を渡っだらゲニムだ」
「うん」

阿久津さんがひとつもぎ取ってくれたバナナを持ったら、朝食バナナダイエットをやっていた元の時代を思い出した。毎日毎日、私はバナナを食べていた。テレビをぼーっと見ながら、牛乳で流し込むだけ。あの頃はなかなか痩せなくて微妙だなとか思っていたウエストも、今は2週間たらずでかなり細くなった。戦場ダイエット……誰にもおすすめしないけど。

手の中のずっしりした重みに喉が鳴る。皮を剥いて、かじりつく。なんて甘い。喜びが体の底から胸に押し寄せて、身体じゅうがぞわぞわ騒ぐ。甘みが口の中に広がって、耳の下がぎゅーっと痛くなる。バナナすごい! バナナってこんなに美味しかったんだ。

「弥生ぢゃん?」

美味しくて、嬉しくて。逆に今ままで私がどんな雑な食べ方をしていたかを思い出して、申し訳なさで自分に腹が立った。ヒモが渋いとか、黒いとこ邪魔とかいいながらそれを避けてちまちま食べたり、挙句の果てにぜんぜん食べないで捨てるなんてことも日常で。

「未来ではね、バナナって、基本的に地味でぜんぜん主役じゃない果物なんだよ。イチゴとかメロン、ぶどうに桃って、オシャレで美味しいのがいっぱいで。南国系でもマンゴーとかパパイヤみたいに高級感もインスタ映えもしないから子供は好きだけど大人で大好き! とかいう人あんまりいなくて」
「そうなのか」
「うん。バナナ味のお菓子とかはたくさんあって人気だけど、貴重な食べ物って感覚はゼロなの。私も毎朝食べてはいたけど、ちょっと黒いとこあるとポイって捨てたり」
「それは罰当たりなごとを」
「うん……もしかしたら私、バチが当たってここに飛ばされたのかも」
「あ、いやぁ冗談だ、冗談」
「神様がいるなら謝りたい。私、他にもたくさん食べ物粗末にしていたから。ここに来て、雑草に虫まで食べるようになって、ああ、なんて幸せだったんだろうって」

前ならバナナをありがたがるなんて絶対に考えられなかった。だけど今、私の体はバナナひとつでこんなにも幸せに満ちている。幸せ過ぎて震えるなんて、よくわからない例えだなとか思っていたけど、例えなんかじゃなくって本当に震えるんだ。たかがバナナで、鳥肌が立って震えている。たかがなんて言えない。

「まあ、その、なんだ。気付いたんなら、それでいいじゃねえが! ほれ、もっど食え、ウマイだろ?」
「ん。おいしい」
「最高だ」

私たちは無言でバナナを頬張った。夢中で、剥いては食べ、剥いては食べた。虫が食ったような穴も、熟れて割けた傷が黒くなっているのも気にしないで、全部、残さず、泣きながらむさぼった。雨音は相変わらずだったけど、最高の朝だった。魚の日以来の満腹に、私たちは満ち足りていた。昨日ほどではないけど雨はまだ降り続いていた。それでも今までにない勇気が湧いてくる。食べ物の力は偉大だ。そう思った。

「頑張ろうね!」
「おう!」
「……」
「何だ松田、腹でも壊したが?」

ただひとり、昇さんだけは違った。

「もう1日、待たないか」

ああ、大丈夫かと思ったけど、やっぱり前のことを引きずっているんだな。確かに天気は悪いけど、昨日よりは明るいし、雨も今は弱まっていて雷もなくて、この空なら敵襲もない。何より今はたくさん食べたから体力がある。明日また昨日みたいにゴロゴロ来たら、ゲニムでの合流の機会を逃してしまうかもしれない。そうしたらまた物資の補給がないまま、今度は200㎞以上も歩き続けなきゃならない。この3人のまま。3人じゃ、助け合うにも限界がある。やっぱりここは今だ、そう思った。

「松田、俺らは死なねえよ? 行ぐべ」
「うん、流れは速いけど浅そうだし」
「……わかった。注意していこう」

阿久津さんも同じく思っていたみたいで、昇さんもそれに頷いた。だけど、いざ川に入ると思ったよりも流れがまだ早くて、流れに足をとられそうになるのを支えるのがやっとだった。やっぱり、やめておいたほうが良かったのかな。いや、一歩ずつ慎重に行けば!

「弥生、進めるか?」
「う、ん、頑張る」
「慎重になぁ!」

足元に大きな石というか岩がたくさんあって、歩きづらい。元の時代の地元にもこういう川があって、普段はあまり水がない川なのかもしれないと思った。そのぶん幸いにも、川幅の広さの割には浅瀬が続く場所で、私たちはなんとか中州に辿り着いた。中州に上がった私たちは、しばしの休息をとることにした。体がガチガチにこわばって、すごい筋肉痛の前触れみたいになっていた。

「あど10mってとこだな」
「うむ。あまり休むと却って疲労が溜まる。そろそろ行くぞ」
「うん」

そこから先は、頭が真っ白ではっきりとは憶えていない。私の目の前で立ち上がった阿久津さんが、一瞬で視界から消えたのは憶えている。今思えば、足を滑らせたのだろう。え、と思って下を向いたら、頭から血を流して川に身を沈めた阿久津さんが流されていくのを見てしまった。昇さんが叫びながら手を出していたような気がする。その全部がスローモーションの中で、赤いリボンみたいな血の帯を引きながら、阿久津さんがあっという間に遠ざかる。モノトーンの中に鮮血だけが赤くて、私はゆらゆら揺蕩うその帯を見つめていた。だけど赤い帯は見る見るうちに流れに消されて、すぐに見えなくなった。

「阿久津さん!!」

叫んだときは、もう阿久津さんの姿は見えなくなっていた。コントロールが利かない流れの中を下って追いかけることは、昇さんでも無理だ。どうやって渡り切ったかわからないけど、私たちはとにかく夢中で岸に上がって、川下に向かって走った。だけど、阿久津さんは見つからなかった。

「行こう。風邪をひくぞ」

昇さんが、私の肩を重く叩いた。その後、私たちは何事もなかったみたいに歩いた。何も考えたくなくて歩いた、が正しいかもしれない。何も言わない昇さんのあとをただ黙々とついて行った。

雨の日は暗くなるのが早くて、あと少しのはずのゲニムには着かないまま日没になった。私は唯一の出来ること、天幕張りをいつものように済ませて、渡河で使い果たしたカロリーをもうこれ以上使わないようにと、天幕製の寝袋を準備する。

「阿久津の形見だ」
「え?」

そう言って、昇さんがくたくたのバナナを差し出してきた。
昇さんは私とは目を合わさず、下を向いたまま言葉を続けた。

「渡ったら皆で食おうと思って、3本だけ軍服に挟んでおいたんだ」
「昇さん……」
「阿久津のぶんは半分に分けよう」

それは、潰れて、灰色みがかった中身が飛び出した、どうみてもゴミみたいな姿のバナナ。だけど、朝食べたのと同じ味がした。最高の朝だった、あの時の空気が蘇る。

『しっかり食っで、河を渡っだらゲニムだ』
『松田、俺らは死なねえよ? 行ぐべ』

…………っ。

「死なないって、言ったのに……っ。阿久津さんの嘘つき……っ!」

ゲニムはすぐそこなのに、私たちはまた大切な仲間を失った。別れも言えず、土に埋めてあげることも出来なかった。阿久津さんの大きな笑い声も朗らかな歌も、もう聞こえることはない。バナナの甘い香りが天幕の中に空しく漂っているだけだった。

次の日、私たちは朝日を浴びて目覚めた。晴れた朝は久しぶりだ。

「阿久津は……太陽みたいなやつだったな」
「そうだね」

本当に、太陽みたいだった。太陽が後ろから照りつける。西に向かう私たちの背中を押すみたいに。阿久津さんがもう少しだ、頑張れって言ってくれているのかも。くよくよしていられない。足に力を込めて、一歩ずつ。ゲニムは、すぐそこだ。

***

盆地のような少し開けた場所が見えた時、昇さんが立ち止まった。

「昇さん、もしかしてここ……」
「ああ、おそらくな」
「着いたんだ! やったぁ」
「まだだ。このまま森で少し待機だ」
「どうして? すぐそこなのに」

ここへきて慎重な昇さんに、私は尋ねた。いますぐにでも走っていきたいのに。

「あそこには将校はじめ他の兵たちも多くいるだろう。お前が女だとバレたら俺も終わりだ。いっそ軍服は捨てて正直に理由を話すか」
「頭の固そうなオジサンたちがタイムスリップなんて信じると思う? なんとかどさくさに紛れて出発まで過ごせればいいんでしょ? そのあとは少し離れて行動すればいいよ」
「うーむ」

昇さんが決めかねて、腕を組む。仕方がないので私もその場で座って、休憩だと思うことにした。

「おい、貴様ら」

腕組みしてぶつぶつ言っている横顔を何気なく眺めていたら、後ろから声を掛けられた。

「はっ、報告致します! 第18軍所属、第41師団輜重、町田昇、以下2名。ホルランジヤより転進、只今ゲニムに到着致しました!」
「報告は本部前だ。よく生きてここまで来たな、向こうまで行けば粥もあるぞ」
「はっ! 感謝致します!」

昇さんが即座に声を張って機敏に答えたおかげで、私のことはチラっと見られただけで済んだ。

「今の、偉い人なの?」
「階級章は伍長だったな。俺より上だ」
「そうなんだ」
「お前が座ったままで肝が冷えたよ、まあ、この状況下だから立つこともままならないと思ってもらえたようだ」
「あはは、ごめんなさい」

あのチラ見はそういう意味だったんだ……危なかった。

「さあ、粥を食いに行こう」
「うん。あ、そういえばさっき町……」

昇さんがさっき自分のことを「町田」と言った気がして、訊こうとした時だった。話しかけながら立ち上がった途端、ぐらりと視界が揺れた。白い浮遊感と黒い閉塞感。この感じ、ダメ! 戻っちゃう! 今はダメ! 昇さんにまだ何にも言ってな…………――


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