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インドについて勉強してみたら、知らないことばかりでした。Vol.2〜マハトマ・ガンディー編〜

テレビをつけたら、こんな素敵なCMに出会ったので紹介します。

完全を求めるよりも、
ワクワクする永遠の青さを。

批判よりも、提案を。

嘆きよりも、ユーモアを。

常識よりも、非常識を。

過去、よりも、未来を。

意味なく群れるよりも、
意志のある孤立を。

正しいことを言うよりも、
正しい行いを。

自分のためだけよりも、
世界のためを。

このままの世界よりも、
これまで以上の世界を。

人間次第で、この世界は、
まだ面白くなる。

次の世界へ。

アメリカのsalesforceのCM
とてもメッセージ性が強く、心に響いたので共有しました。
ぜひ1分の動画なので見てみてください。


今回は、salesforceのCMではないですが、新たな世界を築いたインドの偉人マハトマ・ガンディーについてお話しします。

前回、「インドについて勉強してみたら、知らないことばかりでした。」というnoteを書きました。そこでは、インドで成功している日本企業やインドのモディー現首相の取り組みにについて取り上げました。

今回は、インド出身の偉人マハトマ・ガンディーについて特集します。ガンディーと聞くと、非暴力でイギリスの植民地支配からインドの独立に貢献した人物とは認知していましたが、彼が実際にどんな人生で、どんな覚悟で独立に挑んだのか知りませんでした。そこで今回、ガンディーについて勉強し直しました。

マハトマ・ガンディー「マハトマ」は通称で「偉大な魂」という意味です。

インド独立のために尽くした人柄が多くの人に愛され、マハトマと呼ばれていたそうです。本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー


いつからインドはイギリスに植民地支配されていたのか?

何がきっかけで、イギリスに植民地支配されていたのでしょうか?その答えは、インドはイギリスの東インド会社によって18世紀半ば以来、事実上植民地となっていきました。東インド会社は歴史の授業などで出てきていますが、会社とついているので、普通の会社を想像してしまいがちです。元々は貿易会社だったのですが、オランダやフランスの東インド会社との利権争いなどから軍事力を持つようになりました。イギリスの東インド会社は、近代的な武器を持ち、各地に要塞を築き、多数のインド人を兵隊として雇っていました。つまり、軍隊に近いかもしれません。イギリスは軍事力を背景に、インドを植民地支配したのです。その後、イギリスは、東インド会社を解散し直接統治を始めました。

このようなイギリスの植民地支配から、ガンディーの運動を通してどのように独立まで辿り着いたのか?みていきましょう

ガンディーの非暴力不服従運動はなぜ勝利したのか

ガンディーは1869年に生まれ独立運動に身を投じる前は弁護士をしていました。インドと同じくイギリスの植民地だった南アフリカに渡って、弁護士活動をしていた時に人種による差別と直面します。(インド系移民に対する差別)ガンディーはインド人差別を撤廃させるために活動を始め、民族の誇りに目覚めます。活動の中で非暴力の抵抗運動の手法も編み出していきました。1915年ガンディーはインドに帰国しました。そして国民会議派に参加し、1919年以降反英不服従運動を始めます。特に1930年の塩の行進が有名です。生きていく上で不可欠の塩をイギリスの植民地政府が専売するという方針に反対して、グジャラート州のアーメダーバードからアラビア海を目指して約380キロメートルの道を歩きました。自ら海水をすくって塩を作るためです。歩き始めた頃は仲間が数十人しかいませんでしたが、最終的には数千人になっていました。もちろん、ガンディーは逮捕投獄されましたが独立運動の大きな転機となりました。(南アフリカ時代も含めて生涯19回も投獄されたといわれています)

それまで民族運動はエリートたちのものでしたが、ガンディーによって民衆も加わる運動へと変化したのですその後、徹底的な「非暴力・不服従」という姿勢が民衆に広がっていきました。

ガンディーはなぜ非暴力で勝てたのでしょうか

ガンディーの非暴力運動は単に暴力を使わないというレベルではありませんでした。男性も、女性も、老人も、子供も、何十人もの列を組んで行進し、イギリス側が棒で殴ったり乗馬したものがデモに突入したりしても、少しも恐れずに進んでいきました。また、仲間がどれだけ犠牲になっても自分から手を出す事はしないで相手の良心に訴え、攻撃を食い止めるというものでした。こんな民衆の姿が本国のイギリスで報道されると人々の関心を集めます。イギリスは民主主義の国ですから、素手の市民を武器や暴力で威圧する植民地政府のやり方に非難の声が上がります。また、イギリス本国は第二次世界大戦で疲弊しており、ガンディーの運動と戦いインドの支配を継続する能力がありませんでした。そして、イギリス政府はインドの独立を認めざるをえませんでした。ガンディーはヒンドゥー教徒もイスラム教徒も同じインド国民として1つの独立国家を誕生させようとしましたが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を解消させる事は出来ませんでした。結局ヒンドゥー教徒を中心とするインドとイスラム教徒の国パキスタンの2つの国に分かれて独立することになったのです。(1947年)
ただ、パキスタンが独立してもインド国内にとどまったイスラム教徒もいます。現在では人口の約14%がイスラム教徒です。ガンディーは1つの国としてまとまって独立できなかったことを悲しみ、その後もヒンドゥー教徒とイスラム教徒との和解を求める運動を進めましたが、その行動がヒンドゥー過激派の怒りを買い、ガンディーが78歳だった、1948年1月に暗殺されてしまいました。


ここまでスクロールし、読んでいただきありがとうございました。
改めてガンディーのことを勉強したら、知らないことが多すぎて、さらにガンディーについて知りたくなりました。
また今後も、「インドについて勉強してみたら、知らないことばかりでした。」のシリーズとして、インドに関する気になるトピック、宗教やカースト制度、IT大国など、次回以降も勉強してインドについて再度発信してきます。

他のnoteも読んで頂けると嬉しいです。

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