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星街すいせい「ビビデバ」MVを観る(1):「令和のシンデレラ」をめぐって

 星街すいせいの最新曲「ビビデバ」のミュージックビデオについて、星街自身がキャッチコピーとして掲げている(tiktok参照)「令和のシンデレラ」というコンセプトに注目する。
 まず、MVが全面的に童話「シンデレラ」を変奏することで成り立っていることを確認し、その変奏の核が「セルフプロデュースするVtuber」という像にあることを示す。その後、シンデレラと星街の対比をジェンダーの観点から少し考える。


「シンデレラ」の転覆としての「ビビデバ」MV

「ビビデバ」MVの基本的な構造は、「監督が作るMV」から「星街すいせい自身が作るMV」への変更であり、この変更のいきさつそのものをMVにするというメタ的な映像になっている。星街はしばしばVtuber(特にホロライブ所属のタレント)の魅力がセルフプロデュースにあると語っており、「大人」に操られていないことをポジティブに評価している。「ビビデバ」の基本的な構造はそうしたVtuber観を表現していると考えられる。
 「ビビデバ」は童話「シンデレラ」を参照することで、セルフプロデュースによって自由に自分を表現するVtuberという像を見事に表現している。大迫茂生演じる監督が作ろうとしているMVは、魔法によってみすぼらしい服からドレスに着替えた星街が舞踏会で王子と踊るというものであり、私たちが知っている「シンデレラ」の筋書きに沿っている。「ビビデバ」MVが参照し、次々にひっくり返していく「シンデレラ」の要素をリストアップしてみよう。

  1. 「シンデレラ」は童話であり、シンデレラ自身が作ったものではない

  2. シンデレラは不幸な境遇にあり、ドレスを着て舞踏会に行くことを望んでいる

  3. シンデレラは舞踏会で王子に見初められ、最終的に王子と結婚することで幸せになる

  4. シンデレラのドレスはシンデレラ自身の力ではない魔法によって得たものである

  5. シンデレラは意図せずガラスの靴を落とす

  6. ガラスの靴はシンデレラが王子に見出され、幸せになるために必要である

 「ビビデバ」は、まず先に述べた基本的なストーリーを通してこれらの要素を次のようにひっくり返す。

  1. 星街は他人がMVを制作することを拒否し、自分が踊っているところを自分で撮影する

  2. 星街にとっては監督の指示の下でドレスを着て踊ることが不幸な状況である。ガラスの靴を履いて踊ることは困難であり、監督に強要されたことである

  3. 星街と王子役の男性の間には何も起きない。星街は監督から自分で自分を解放し、一人で自由に踊る

  4. 星街はドレスを捨てて踊りやすい衣装を自分で選び、自分で着替える

  5. 星街はガラスの靴の片方を監督に投げつけ、もう片方の靴を最後のダンスの前に投げ捨てる

  6. 星街にとってガラスの靴は不要であり、自由に踊ることを邪魔しさえする

 同時に「ビビデバ」は、メタ的にも「シンデレラ」をひっくり返している。まず、「ビビデバ」は星街が自身の活動6周年を記念して企画した楽曲・MVであり、楽曲についてもMVについても星街自身が最終的な意思決定者であり、星街自身が出資している。童話の登場人物であるシンデレラとは異なり、星街は「ビビデバ」MVの登場人物であると同時に「ビビデバ」の作者でもある。
 次に、シンデレラが王子の力によって幸福になる受動的な存在であるのに対して、星街は自分自身で自由になる能力をもつ存在である。監督と取っ組み合いの喧嘩をしかけてスタジオを飛び出し、自分でダンスを撮影したとしても、MV制作に関する決定権が監督にあれば無駄な抵抗にすぎず、星街はスタジオに連れ戻されて監督の指示の下で踊ることになるだろう。しかし「ビビデバ」MVを観て、この後そんな展開になると思う者はいない。星街がスタジオを出ていったら監督の方がクビなのであり、星街が最後に自分で撮影しているダンスの方が正式な映像なのである。そうした印象を与えるのは映像そのものだけではなく、星街のこれまでの歩みや発言が「ビビデバ」の文脈をなしているからでもある。
 星街が監督に靴を投げつける理由を見ると、星街が単なる演者ではないことがより明確になる。星街がダンスの途中で転んでしまったために監督はマネージャーの男性を叱り、メガホンで叩く。それを見た星街は怒って監督に抗議し、それに怒った監督が台本のようなものを星街に投げつけたお返しに星街はガラスの靴を投げ返す。



 ここには監督と星街の間で認識のズレのようなものがある。監督は星街が転んだことについてマネージャーを叱りつけているので、責任がマネージャーにあると考えているように思われる。他方で星街にとってマネージャーは自分の上司というよりは部下に近く、監督に自分の部下を叩かれたことによって腹を立てているように見える。マネージャー自身も星街の管理者というよりは星街の指示でマネジメントを担当している者として振舞っているように見えるし、星街の配信等における発言を聴いているファンはそのように思うだろう。星街に限った話ではないが、ホロライブのタレントたちは自分で活動方針や作品の制作方針を決めており、マネージャーはまさしくマネージャーとしてタレントの予定やToDoを管理している(たとえば、サイン書き用の小部屋に連れていってサインを書かせる)にすぎない、というのが一般的なイメージだからである(よく聴いていると事情はもう少し複雑であるようだが)。
 つまり、最初は一応監督に従っていた星街が、本来もっていた権力を発動させて監督をクビにし、自分自身が監督になる物語として「ビビデバ」は受け取られるのである。

滑稽な監督と無為の王子

 この場面はジェンダーの視点で解釈することもできる。典型的にトキシックな男性として描かれている監督は、自分がMV制作の全権を握っていると勘違いしている。そして星街のミスに関して星街ではなくマネージャーを責めているのは、監督が星街のことを男性マネージャーによって管理されている存在だと考えているから、あるいはマネージャーが星街をかばっていると考えているからだろう。しかし少なくないコメントで指摘されているように、マネージャーは踊りにくい靴で踊らされている星街が怒り出さないかヒヤヒヤしている。マネージャーは何か不当なことが起きれば星街が男性相手でもキレることを知っているからである。だからマネージャーがかばっているのは実は監督なのだが、監督はそれに気づいていない。監督は単に粗暴なだけでなく、自分の置かれた状況を理解していない滑稽な人物として観られているのである。転んだ星街に対する女性スタッフの丁寧な態度も、監督の滑稽さを浮き彫りにしている。
 新しさを言うために元号に言及することには感心しないのだが、「ビビデバ」が「令和の」シンデレラだと言えるとしたら、「抑圧された状況から女性が自分を解放する」というよりも「女性を支配していると勘違いしている男性が女性の行動によって見かけ上の力を実際に失う」さまを描いているところがポイントかもしれない(穿ちすぎだろうか?)。
 監督が星街に激怒する理由も、単に演者が抗議してきたからではないかもしれない。男性同士で話し合っているところに女性が口を挟んできたことへの怒りが含まれているとみることもできるだろう。監督は立ち上がって抗議する星街の方をゆっくり振り返り、「あ? なんだおまえ」というようなことを言っているように見える(見事な演技である)。この間には、発話する権利がないとみなされている者が発話してきたことへの戸惑いと怒りが込められていると解釈することもできるのではないか。


 ガラスの靴の意味づけもジェンダーの観点から理解することができる。「シンデレラ」においてはシンデレラだけにぴったり合う靴であり、王子に見出される契機となるのだが、「ビビデバ」ではむしろガラスの靴そのものが星街のダンスを邪魔するものとして描かれている。サイズが合っていないからではない。サイズが合っていても踊りにくいのである。少し前に日本でも運動があったように、動きにくい靴を強要されることは女性への抑圧の一部である。星街は最終的にドレスから踊りやすい服に着替えているので、ドレスも自由に踊ることを抑圧するものとして描かれていると言えるだろう。
 男性ということで言えば、王子役の男性の振舞いも注目されている。星街が転んだとき、男性は心配しているものの、立ち上がるのに手を貸すわけではない。

監督がマネージャーに怒鳴っているときも、星街と監督が言い争っているときも男性は心配そうに見ているだけで何もしない。雇われた役者にすぎないから当然と言えば当然なのだが、まったく王子らしい振舞いをしないことによって星街が自分の力で立ち上がる存在であることを演出している。星街の代表曲の一つである「Stellar Stellar」の歌詞において「王子様」への言及があるだけに、女性を救う力を持たない存在として、そして好意的に見れば女性が自分で立ち上がれることを信じている者としてこの男性が描かれていることは興味深い。「シンデレラ」では王子と結ばれる鍵であるガラスの靴が、「ビビデバ」MVにおいては男性(監督)の(見かけ上の)支配から解放されるために投げ捨てられたものとして最後に大きく映し出されることも効果的である。
 「シンデレラ」では継母とその連れ子である姉たちが、つまり女性がシンデレラを苦しめており、王子がそれを救うという構図になっているが、「ビビデバ」では監督が星街や女性スタッフを苦しめており、星街が現場を解体させることでその状況を解消する。「シンデレラ」に見られる「女の敵は女」という詐術を言下に否定していることも興味深い。

 星街のMVにおいてこうした女性解放的な要素が打ち出されたのは初めてだと思うが、特に驚きもなく受け入れられているように見える。監督がかなり悪質に描かれていることもあるし、星街がもともと強気な女性として自分を呈示していることや、自分で自分の道を切り開いてきたというストーリーがあるからだろう。マネージャーが叩かれたからという真っ当な理由があることもあって、星街の暴力的な振舞いへの非難もまったくと言っていいほど見当たらない。リスナーの一般的な反応は「監督、すいちゃんが持ってたのが斧じゃなくて靴でよかったね」というものである。海外の女性リスナーによる反応動画では、闘う星街を「やっちゃえ!」と応援する姿が見られた。
 オタクとフェミニズムは水と油だと一般的には思われているだろうし、残念ながらたいてい本当にそうなのだろうが、星街と星詠みの関係性には何か違うものが垣間見えることがある。星街の胸のサイズをネタにしていいと思っている者がいる一方で、それはやめるべきだという考えを表明する者もいる。性的な二次創作を作る者もいるが、その投稿に「#ほしまちぎゃらりー」タグを付けないよう注意する者もいる。水着姿を見たいと星街に言い募る者もいれば、少なくとも自分のチャンネルでは水着を着ないという星街の方針を支持する者もいる。
 その程度でリスナーがフェミニストたりえているとはもちろん思わないが、いわゆる男性オタクが圧倒的に多い集団の中でこうした傾向が芽生えていることは興味深いと思う。「ビビデバ」MVに不快感ではなく爽快感を感じている男性リスナーが多いこともそうした傾向の一部である。インターネット上のフェミニズムの印象が悪すぎるので星街がフェミニストを自認することはないだろうが、数えきれないほどの傷を負いながらそうした方向にリスナーを導いていることは事実であり、尊敬に値すると思う。

 本当はこのMVの目玉である二次元と三次元の混合について書きたかったのだが、ストーリーについて書くだけで時間がかかったのでいったん投稿する。


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