見出し画像

坂本龍一 『12』 全曲レビュー:残された者は去り行く者をどう送るか

2023年1月17日、本作発売
2023年3月28日、坂本龍一死去
2023年4月1日、共同通信より死去の報道がなされる
2023年4月2日、マネジメントやレーベルから公式に死去が発表される

私はサブスクリプションサービスも活用しているが、元々強い思い入れのあるアーティストの新作に関しては、リリースがあるのならフィジカル(特にLP)の到着を待つ事にしている。加えて私は発売日にいち早く聴く行為にあまり興味が無いので、同時に他の作品もオンラインストアで注文して分割発送指定をせずにどれかの作品がどれかのより発売日の遅い作品に引っ張られて聴くのが遅れる、なんてのもザラだ。更に、今作の初回日本盤があまりに高過ぎると感じたので、Milanからの輸入盤をオーダーしていた。SNSの話題につられて何曲かをサブスクでつまむ程度に聴いたりはしていたが、LPの到着は死去の報道が飛び交った後だった。なかなかシュリンクを開封できなかった。怖かった。これを、開けて、ターンテーブルに乗せ、針を落とし、最後まで聴いてしまったら、それが本当に自分の中での坂本龍一の終わりになってしまうんじゃないかと思った。逆に言えば、これを開封しなければ、自分の中だけでは坂本龍一が生き続けている世界の幻想を心の片隅に残せるんじゃないか、とどこかで思っていたのかもしれない。しかし、意外な事に聴き終えても坂本が生きているかのような幻想は自分の中に未だ燻り続けている。前向きだが有り体で平凡な捉え方をすれば、”心の中に生きている”、"芸術家は作品が残る限り生き続ける"というような話に回収できるかもしれない。だがおそらく私の中で燻っているそれはそんなものでは無い。これはきっと未練だ。若かりし日にはバンドをやっていたし、今もここやらXやらでなにかと音楽に関して発信を続けている自分は、たぶん坂本に会いたかったのだ。会って何をしたかったというのだろう。未だ楽器やDAWに触る事は続けているが、セッションやインプロヴァイズを出来る腕前も度胸も無い。インタビュアーとしての仕事が出来るようなツテもウデも無い。若き日の暴君めいたエピソードも知っているので、人生の後半で特に積極的になった環境問題への取り組みなどから聖人的な偶像化をしているわけでも無い。会って何をしたいかもわからないのに、一度も会った事の無い老人に会える可能性が無くなった事がこの上なく寂しいのだ。その感情の正体を探すために今こうして筆を執っている。

  1. 20210310
    前作『async』の「ff」およびその後12インチシングルでリリースされた「ff2」を思わせる、シンセサイザーが雲か霧かのように掴み難く漂うアブストラクトなアンビエント。シンセサイザーという楽器が未来の音楽の可能性というよりも"電子的な音を出す楽器"以上でも以下でもない扱いになって久しいが、元来のコンセプトである倍音を合成する事によって無限の音作りが可能な楽器という事を思い出させる、ある意味では”シンセ本来の音"を引き出したようにも聴こえるサウンド。

  2. 20211130
    前曲からコンセプトを引き継いだようなシンセはここでも聴けるがどちらかといえば後景に退き、アコースティックピアノが主役になっている。そのピアノは坂本が影響を公言して憚らないドビュッシーのように、ロマン派的なドラマツルギーを拒みつつも現代音楽的な無調までは至らないラインで危うく揺れ動く旋律を奏でる。このようなピアノと代名詞と言えるシンセサイザーで組み合わされた構造は、安易に同じような作品を繰り返す事を嫌った坂本が曝け出せる数少ない”手癖”と言えるパターンの一つかもしれない。

  3. 20211201
    構造としては前曲に似ている。しかし、最も大きな違いは、楽音の律動とは無関係に上下する大袈裟に荒い呼吸…の"ような音"がサウンドの中央に据えられている事だろう。"ような音"というのは、公式サイトのスタッフからの質問に対して"呼吸をサンプリングしてはおりません"と回答しているからなのだが、まあ最期まで性格の悪かった人で"ただ、ピアノを弾いている時に自分の呼吸がわずかに一緒に録音されているということはあります"とも添えている。しかし楽曲を聴けば明らかなようにこれはとても"わずか"とは思えない。"サンプリングしてはおりません"というのが所謂サンプラーや既存のサンプルライブラリを用いたのでは無く普通に録音しましたよという意味にも思えるし、よくよく聴けばシンセサイザー等で作ったような音にも思えてくる。正直私には特定はできないが、結果として呼吸に聴こえる音が強く主張しているというのは、当時既に病を抱えた身でありこの日付の1年半後に亡くなった事を思えば意味深にも感じられ…

  4. 20220123
    そしてこの曲にもその呼吸のような音は入っている。ただし、単純に音量が前曲に比べて控えめな点や、全体的なサウンドスケープも調性も穏やかで所謂アンビエントの典型に近い事がその手の音楽を聴き慣れている耳には具体音が同居している事を自然に感じさせる。1曲目にもその表現を用いたが、おそらくBrian Enoの提唱したアンビエント・ミュージック、あるいはその源流にも位置付けられるエリック・サティの提唱した家具の音楽の文脈に本作中最も近いのはこの楽曲であろう。ただ呼吸音が意味深に感じられた前曲からそれに近い音を引き継いでいるのが何か環境音楽として聴き流す事を推奨しない意思にも感じられる。

  5. 20220202
    映画『ブレードランナー』のVangelis、またその続編『ブレードランナー2049』で当初サントラ担当とアナウンスされており(最終的には別の作家に差し替えられたが)2018年に坂本より遥かに若い年齢で亡くなった際には坂本も惜しむコメントを出したJohann Johannsson、そして忘れてはいけない『レヴェナント:蘇えりし者』などでそういったアプローチでその才を如何無く発揮した坂本自身のこれまでの作品、などの映画音楽史におけるシンセ・マスター達を思わせる、平たく言えば”シネマティック”な分厚いシンセサイザーが主張する楽曲。経緯を知ってしまっているから、というのは否めないが、しかし否応にも闘病中のスケッチが故のどこか儚さを感じさせる楽曲が多い中で、本曲はヴァイタリティを感じさせる。ノンビートではあるがアンビエントと呼ぶには圧が強い。

  6. 20220207
    恐る恐る歩くようなピアノの左手に、エフェクティブなこれまたピアノの高音が所々でカットインしてきたと思えば耳鳴りのようなサイン波でピアノが途切れる。戻ってきたピアノはもう一つのピアノのカットインの頻度を上げながら耳鳴りのようなサイン波としばしば並走し、再び音は途切れ…と進行していく楽曲。どこかHarold Buddを思わせるなどリファレンスが無いとは言い切れないし、Derek Baileyに端を発するフリー・インプロヴィゼーションの世界とも遠ければ坂本自身のキャリアで言えば『out of noise』以降のプリペアド・ピアノを用いて行われてきた即興の方が所謂一般的な作曲手法で作られたポップスとの距離は遠いという事になるのだろうが、不思議と本作中最も(最終曲は例外として)”作曲”という言葉の思わせる構築作業と遠い、フリーフォームなスケッチという印象が残る。

  7. 20220214
    サウンドとしては「20210310」と「20220202」の間というか、低域で圧を感じさせる音も鳴っているもののアンビエントとして聴ける肌感で、作曲的にも「20220202」ほどドラマティックでも無いが「20210310」ほど茫漠ともしていない。これも前曲ほどフリーフォームでは無いにせよスケッチらしく、緻密さも斬新さコンセプチュアルさも無いが、故に親しみやすいと言おうか、捨て難いというかこれをベストトラックに選ぶ人もいるかもしれない。最後に入ってくるリズムマシンのタムのような音が意味深。

  8. 20220302 - sarabande
    本作中最も所謂クラシック音楽的あるいはそれに影響を強く受けた映画音楽的なソロピアノ楽曲で、坂本のパブリックイメージとして特に「energy flow」および『BTTB』以降にYMOのテクノというイメージを超えて広く認識されているかもしれない側面が切り取られている。が先述の「energy flow」や「戦場のメリークリスマス」といった楽曲ほど感傷的でキャッチーなメロディは無く、あくまで『out of noise』以降のムードを継続させている事は伺える。

  9. 20220302
    曲名からすると前曲と同日の録音で、共通したムードの中で作られたのであろうか、似た路線のピアノ曲。だが点を配置するようだった前曲の右手の動きとは異なり、アルペジオが動き回ってより『BTTB』を思わせる部分が強い。『out of noise』以降の楽曲では最も幅広いピアノ奏者に訴えかけるものがある楽曲かもしれない。

  10. 20220307
    水の中にいるかのようにモジュレーションをかけられたピアノが無調気味にゆっくりとした歩調で動く。現代音楽的に不穏な和音も登場するが、不思議と穏やかに聴ける。ここでも何度か名を出している転換点的作品『out of noise』の「glacier」などのようにフィールドレコーディングを用いたかったが体調により素材を採集しに行けなかったためエフェクトで水の感覚の再現を試みたか…?とも思える。

  11. 20220404
    再び”映画音楽家・坂本龍一”の表情が覗くピアノソロ曲。晩年のサントラ作品よりもベルナルド・ベルトルッチと組んでいた頃を思わせる妖艶さがある。それは今にして思えば自分の残り時間が短い事を悟った懐古のようにも感じられるし、反してここに宿るエロティシズムは生への渇望が形を変えて現れたようにも感じられる。本作中のピアノソロ曲においては私はこれをベストに挙げたい。

  12. 20220304
    この最終曲のみ録音の時間軸と曲順がズラされている。この音で閉めたかった、という意図がはっきり伝わる。その音は何かと言えば陶器がぶつかり合う音にリバーブ等のエフェクトがかけられた音で、『async』でも試みられていたものでもあるし連名作品も出したTaylor Deupreeが行っていた実験に近いものもある。鈴のようにも聴こえ、亡き人を送る音のようでもある。発売前のコメントで"今後も体力が尽きるまで、このような「日記」を続けていくだろう。"と記していた事からすると、ヘヴィーかつコンセプチュアルな作品は無理だとしてもこのようなスケッチ集はまだ作れるはずだという心持ちでいたのではないかと思うのだが、実際これが最期の作品になってしまった今振り返ると自分を送るだとかあるいは別れの挨拶にも聴こえてしまう。その意図を自身の言葉で聞ける機会は永遠に失われてしまったのだが。

エッセイめいた流れよりある種の乾いた視点が入る方が最初で述べた”感情の正体”を掴めるのでは無いかと思い強引にトラックバイトラックでのレビューへと舵を切ったが、ではこれを書く事で何かを見つけられたか?というと結局のところ正直見つかっていない。時間をかけて整理していかねばならないものなのだなあと凡庸な場所に辿り着いた程度だ。
遺作という事を抜きに考えると(完全に抜きに考えるなど少なくとも今はまだ不可能だが)、如実に体力の衰えは現れており『async』『out of noise』という前2作の濃厚かつ重厚な質感とは遠い。ただ、体力的な制約が良い方向に働いたか額面通り”スケッチ集”に過ぎないと捉えるには妙にコンセプチュアルというか統一感があり、またこれを誰が他に作れようかという個性も要所要所に刻印されている。
駄作と呼ぶには出来すぎているのは間違いなくとも、体力の衰えた身から絞り出されたやっと佳作に辿り着く程度のものなのか、長かったキャリアからの経験が蓄積された名作と呼べるものなのか、それすら未だ判断しかねる。しかし、残されたものが去り行くものをどう送るかというのは、この説明のつかない感情に向き合う作業なのかもしれない。


結構ギリギリでやってます。もしもっとこいつの文章が読みたいぞ、と思って頂けるなら是非ともサポートを…!評文/選曲・選盤等のお仕事依頼もお待ちしてます!