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デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム: 現実と虚構のあわいを現実と虚構のあわいで描くということ

デヴィッド・ボウイ。この国ではビートルズとクイーンには一歩劣るかと思うが、それでも日本においても最も名の知れたロックスターのひとりであるし、言わずもがな世界的にも最大のロックスターのひとり。
生前から宇宙をテーマに好み登場時はその奇想天外な出立ちからすわ宇宙人かとメディアからも称されたボウイがその肉体も地球から旅立って7年、初の遺族公認”ドキュメンタリー”映画が先日公開された。
“ドキュメンタリー”と引用符を付けたのには意味がある。公式にもドキュメンタリーと銘打たれており、監督もザ・ローリング・ストーンズやカート・コベインにまつわる一般的な”ドキュメンタリー映画”として想像される範疇の作品を残してきたブレット・モーゲンであるにも関わらず、結果的な本作の内容は一般的な”ドキュメンタリー”の範囲を著しく逸脱した映画であるからだ。

平たく言おう。本作はサブスクリプション・サービスで人気曲をいくつか聴いた程度のロック少年少女にとっては、あるいは大ヒット曲「Let’s Dance」から『戦場のメリークリスマス』出演でMTV華やかなりし80年代を彩ったスター以上でも以下でもない認識の50代にとっては、あまりに長大過ぎる尺のうえ頻繁なボイスオーバーで没入を妨げられるイビツでやっかいな類のミュージックビデオとしか感じられないかもしれない。
更に言えばIMAX上映だからエンタメ大作なのだろうと暇潰し程度に本作を選んでしまった向きなどは…その上運悪くボウイの予備知識も無く音楽に波長も合わなかった場合、とんでもないものを観てしまったと後悔する事になるだろう。かの『2001年宇宙の旅』の所謂”スターゲート・シークエンス”を延々ループして観るのと大して変わりない…いやそれ以上の苦痛かもしれない。

いったい何故そうなるのか。具体的な映画の構造に話を移そう。大雑把には初のメジャー・ヒット「Space Oddity」の頃からライブ活動(及びメディアへの露出)を停止する直前となる21世紀突入のタイミングまでが、その時々を代表する楽曲のライブ映像やMVに大抵の場合は当時のインタビュー音声や映像をオーバーラップさせつつ進行する。
が、個々の楽曲の説明は一切無く、オーバーラップさせる映像や音声にも、例えばTVショー出演時から切り取ったと思しき映像であっても最新のYouTubeアップロードのレイトショーの切り抜きのように「最新アルバム〇〇をリリースしたミスター・デヴィッド・ボウイで曲はXX!」なんてイントロダクションは拾っちゃくれないし、それどころかインタビューやトークの中でもとりわけ観念的なボウイの考え方にフォーカスした部分を流れから遊離したまま切り貼りしてぶつけてくる。更にナレーションによる補完も皆無だ。
これだけでも予備知識の少ない者は当惑必至なのに、更にボウイマニアさえもぶんぶん振り回す。音源やインタビューの時期と一致しない映像を平気で挿入してくるわ、同一楽曲の時期の違うライブ音源を説明抜きで切り貼りするわ、先述のように概ね時間軸に沿って進行する中でちょいちょい時間を早送りしたり巻き戻したりするように時期の違う楽曲を用いてくるわ、果てはインタビューやドキュメントフッテージと出演映画のシーンを説明無しに交互にインサートするわ。

つまり、初心者には非常に不親切である。敷居が高い。ホスピタリティに欠ける。近年、定石をことごとく外した本作のような映画は…ましてそれを大型配給してしまうと、興収や素人の口コミだけでなく批評的にも低く見られる事が少なくない。しかし、私はこの試みを素晴らしいものであると買いたい。なんなら監督に「ブレット!!よくやった!!」と赤い跡が残るまで背中をバンバンと叩いた後に泣きながらハグしたいくらいの気持ちだ。

正直、私が本作を楽しめたのには私がボウイのマニアだからというのはある。本作に使われている既存の映像や音源をほぼ全て把握していたからこそ、時代の違いなどのトリックにはやく気付く事が出来、所謂”重箱の隅をつつく”ような楽しみ方もできたわけだから。しかし、本作を買いたいのはそれ以上に主題であるデヴィッド・ボウイという人物、キャラクターへの深い理解があったからこそこのようなトリッキーな形の映画になったというのがしっかりとわかるからだ。言い換えれば、必然性がある。ロックを超え音楽を超えて20世紀の最も重要なポップ・アイコンになったボウイは、何故そうなり得たのか。それは音楽ジャンルの、国境の、ジェンダーの、現実と虚構の、あらゆる境目を目指し揺らがせそのあわいに立っていたからではないか。そう考えると、杓子定規に時間軸に添い節目節目に杭を打って掘り下げるような一般的なドキュメンタリーの方法論は、それ自体がボウイ的たり得ない。”ドキュメンタリーそのもの”をボウイ的にする手段として、時間軸をめちゃくちゃにしドキュメントフッテージと劇映画という現実と虚構の間すら曖昧にしてそのあわいに立つ事、そのような手段が選ばれた事は必然と言える。
無論映画史的にはジャン=リュック・ゴダールやアラン・ロブ=グリエらの実験の上に立ったものでもあり、編集のテンポ感などを読み解く上ではそれらとの比較検討も重要になってくるだろう(が、他稿に譲る。誰かよろしく)。最序盤と最終盤に同じシークエンスを持ってきて円環構造のように見せつつ、序盤では途中で切られた楽曲の続きを伴ってクライマックスに達するという仕掛けも実に映画的だ。
しかし、”ボウイ的であるためにはどのようにあればよいか”という逆算からこのような形に辿り着いた事は間違いあるまい。ボウイ没後音源のオフィシャルなリミックスなども多々出ているが、本作以上にボウイの制作哲学の芯を射抜き、作品そのものがボウイ的たり得た例は無い。おそらく今後も出る事は無いだろう。本作はそれほどまでの高みに達している。モーゲンに対する最大限の賞賛として、本作は”デヴィッド・ボウイとブレット・モーゲンの共同作品”であると称したい。

ここからは余談めくのだが、本作に不満を抱くとすれば、ライブ映像とインタビュー映像/音声を大量に使っている故の必然とはいえ、21世紀を迎えて以後の作品にほぼ全くスポットライトが当たっていないという点だ。下手に半端に言及するより手法を統一出来る期間に割り切った判断は映画としては正解だったと思うが、ボウイマニアとしては、特に遺作にして最高傑作の『Blackstar』までを包括してあくまでボウイ哲学に貫かれた映画が現れればその時またボウイは蘇るのではないかと考えてしまう。それを期待して待ちたい。


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