濱田くんへの手紙
「坊主はね、非生産だから嫌いなんだよね」と濱田くんは僕に言った。確か23、4歳頃のことだったと思うが、年のせいかだんだんと記憶も曖昧になってきている。それでもこの言葉だけは今でも鮮明に覚えている。いわゆる「忘れられない言葉」というやつだ。
濱田くんは高校の同級生で同じ生徒会の仲間で、彼が元々読書好きということもあり、図書委員長として1年間、歴代で一番出鱈目な生徒会長として汚名を残した僕のことを支え続けてくれた。不真面目で大雑把な僕とは対照的で、真面目で几帳面な濱田くんとは事あるごとに対立と衝突を繰り返し、たりなどはせず、いや濱田くんに限らず、僕らの生徒会メンバーは、一条ゆかりの「有閑倶楽部」並みに奇人変人揃いで、とはやや言い過ぎだが、個性的な仲間が集い、総じて仲も良かった。特に濱田くんとは推理小説という共通の趣味もあって、当時ブームとなっていた綾辻行人や法月綸太郎の書く「新本格ミステリ」についてよく語り合っていた。ホームズとワトソンほどの絆があったかどうかは分からないが、金田一耕助と轟警部くらいの親密さはあったのではないかと、あくまで一方的だが、そんな風に濱田くんのことを思っていた。なので、数年ぶりに再会した彼に冒頭の言葉を投げかけられた時には、正直面食らってしまった。腹が立つとか不快とか、そういう思いよりも、明確な負の感情を含んだその言葉が、それまで持っていた僕の彼に対する印象とはかけ離れていたことが端的にショックだった。と同時に「坊主は非生産」というその言葉のあまりの身も蓋もない正しさに、僕は狼狽えてしまった。その時の僕は「そっか、そうだよなあ」と曖昧に笑って受け流すことしかできなかった。高校を卒業してすぐに地元の税務署に就職し社会人として揉まれていた濱田くんと、受験勉強も就活もしないで「映画を作る」という夢に逃げ込み、それに破れ、社会から落ちこぼれる寸前で奇妙な縁から得度させて頂き、「坊主」になった僕とは、たった4年ほどではあるが、世界を見つめる眼差しが違いすぎていた。僕は「坊主/僧侶」という存在の本質を全く理解も、いや意識すらしていないままに得度をしてしまっていたのだということを、濱田くんから教わったのだった。
このことを先輩僧侶に話したことがある。先輩は「そりゃ酷いことを言われたね」と笑いつつ「確かに、何か形のあるものを作り出して売ったりすることはないけれども、お坊さんは『心を耕す』という大事なことをしているんじゃないかな?だから引け目を感じる必要はなく、胸を張って良いと思うよ」と慰めてくれた。その時は「なるほど、そうだよな。『心を耕す』だなんて、立派な役割じゃないか」と腑に落ちたところもあって、しばらくはそう自分に言い聞かせながらお坊さんをやっていたのだが、やがてこれも段々としっくり来なくなっていった。先輩には申し訳ないけど『心を耕す』なんて、ちょっと綺麗すぎやしないかと。果たしてあの時の濱田くんはこんな言葉で納得するだろうか?きっと「絢辻ミステリーの足元にも及ばない、退屈で曖昧な答え」だと鼻白むだろう。そう、僕たちには「どんでん返し」が必要なのだ。と、言いつつ、いつもいつもストイックに「坊主とは?」と問い続けていたのかというと、そこは最初にも書いた通り「不真面目で大雑把で出鱈目でいい加減」な僕である。考えたり考えなかったりを揺蕩いながら、日々に忙殺されるだけだった。
それにしても「坊主は非生産」というのは、芯の食った指摘だと思う。資本主義社会を通して「坊主」という存在を見つめたときに、この批判はぐうの音も出ない、まごうことなき真実だと言える。そして濱田くんが「非生産だから嫌い」と悪印象を持ってしまう理由を想像した時、「坊主丸儲け」という誰もが一度は耳にしたことがあるであろう言葉が思い浮かぶ。ノーリスク・ハイリターン、楽してボロ儲け、不労所得など、「坊主丸儲け」にはお坊さんのマイナスイメージがてんこ盛りだ。実際にはお坊さんも宗教法人から給与を得る仕組みなので、所得税も住民税もちゃんと納めているのだが、未だそのことを知らない人も多いのではないだろうか。たとえ知っていたとしても「元手を必要としない」という「資本主義の理念から外れた生産性の無さ」が「坊主丸儲け」という言葉を一人歩きさせ続けている。だが実のところ「坊主」が提供する(と思われている)「元手を必要としない/無形の何か」は、巧みに資本主義に取り込まれ、その理念に従い商品化されている。例えば、故人に仏様の名前を授けられる時に渡すお布施は「戒名料」といい、法事や葬式でお経を読んで貰えば「読経料」を、お祓いには「祈祷料」など、近代化の中でお布施は商品に対する料金となってしまった。最近では、精神性や人間の弱い部分にアプローチした「スピリチュアル」も「坊主」が取り扱う主力商品の一つだといえる。誤解ないように書くと、僕もまたその仕組みに乗っかり、加担しているひとりである。家族を養い、光熱費を支払い、ネトフリやアマプラを必要とするこの世界で生きるということは端的にお金が必要、誰も霞を食べて生きることはできないのだ。ではなぜ僕がこんな話をしているのかというと、この「資本主義社会に取り込まれることで近代化した仏教」が失ったものこそ、濱田くんが「坊主は非生産だから嫌い」という感情の根っこにあるものではないかと思うからだ。「料金」はそれに見合った「価値」を求められる。「価値」が低いと思われれば「料金」は高く感じられるようになり、やがて高い「商品」は売れなくなる。「商品」は値踏みされるものなのだ。「戒名って必要?」「法事や葬儀でお経読んでもらう意味は?」「交通安全お守りしてても事故するよね?」「てか、そもそもお坊さんって必要なの?」という多くの人たちが持っているであろう疑問、つまり「坊主は非生産だから嫌い」とは「仏教って必要なものなのか?」という問いに直結しているのではないかということだ。だからこそ、25年近く経った今も、濱田くんのこの言葉は色褪せることなく、僕を駆動し続けているのだと思う。ただ申し訳ないことに、この問いに明確な答えを提示する方法を、僕はまだ知らない。どんでん返しは起こせないまま、濱田くんともいつの間にか疎遠になってしまい今に至る。
濱田くん、君は今、元気にしているのだろうか。達者ならお互い半世紀を生きたことになるが、君との交流が途絶えてからも、僕の波乱に満ちた人生はもう2、3回転くらいどんでん返しがあったので、今なら苦笑いする以外のリアクションも多少は取れるようになったのではないか、と思う。
例えば、僕はこんな再会を夢想する。
「坊主は非生産だから嫌いだ」と少し白髪まじりで、高校の時より度のキツそうなメガネをかけた君が言う。
「そうだね」と遺伝の薄毛のカモフラージュも兼ねて剃り上げたツルツル頭を掻きながら、僕は頷くだろう。そしてこう続けるはずだ。
「君の言う通り、坊主は非生産だ。けど、僕はそれで良いと思うんだ。この資本主義社会では、生産性と効率が重んじられる。その恩恵で、僕たちの生活の豊かさは確かに極まった。1000年前の貴族の暮らしと僕の暮らしなら、確実に今の僕の暮らしの方が贅沢で、物質的には何不自由なく生活できている。でもね、どんなに文明が発達しようとも、科学や医学が進んで人間の平均寿命が伸びようとも、人間は必ず死ぬんだ。死ほど非効率で非生産なものはなく、死は資本主義社会では限りなく無価値となるだろう。つまりこの社会のルールに取り込まれたままだと、いつか僕たちは動かなくなったただのタンパク質の塊と化してしまう。それではあまりにも淋ししぎやしないかい?そんな死の縁に際し、僕たちは赴き大切な最後の時を共有させていただく。資本主義が覆い隠した生命の真の姿を明らかにして、引き受ける。その為には生産性の外側に、評価経済の彼岸に、片足は置いておかねば、僕はたちどころのその資格を失うだろう。もう片方は、生活のためにこの社会に置いておかせてくれ。そうか!だから親鸞さんは“僧に非ず、俗に非ず”と仰ったのかもな。やっぱ親鸞さんスゲエわ」と。
果たして、君は何と答えるだろうか。ニヒルな君のことだ、いずれにせよ第一声は想像がつく。一言「長いよ」