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共に過ごす時間も、会話も、表情も、温かな記憶が心を満たす。

※この記事は、栃木県南・茨城県西エリアのコミュニケーションマガジン「地域カタログASSPA 2019年Vol.71秋号」に、地域のメモリアル・ストーリーとして終活をテーマに掲載された文章を加筆修正したものです。

常連の店があるというしあわせ

「いつものですね」

黙ってうなずく祖父。10年以上通っている蕎麦屋でのお馴染みのやりとりだ。毎週のように土曜日の11時に車で出かけ、11時25分に店に着き、5分ほど待ったのち開店と同時に店に入る。カウンターの一番奥、いつもの席。

そして、もり蕎麦と野菜天ぷら2品という、メニューには載っていない祖父専用セットが運ばれてくる。通常の天もり蕎麦は93歳になる祖父には多すぎるため、天ぷらのボリュームを少なくしてもらうようになり、独自のメニューとして定着した。残さず綺麗にいただくと、蕎麦湯を味わって店を出る。「また来るよ」と。

そんな静かな習慣を、自動車免許返納という時代の流れと祖父自身の冷静な判断により、終えることとなった。造園業を営み、秋になると手塩にかけて育てた自慢の菊が咲き誇り、何でも自分でこなしてしまう職人気質な祖父。90歳を超えてもなお、自ら運転して毎週ゴルフに出かけるくらい心身ともに充実していた。免許更新のハガキが届いてすぐに高齢者講習を申し込もうとしたが、すでに最寄りの教習所は満員。キャンセル待ちも考えたそうだが、これは返納のタイミングだと決断したという。

祖父が生まれた90年以上前と比べれば、栃木県の小山市は大きく発展し、少し足を伸ばせば暮らしに必要なものはなんでも揃う。車がないとスーパーにも行けないような場所ではないのだけれど、やはり長年に渡り身体の一部のように使ってきた車を手放すことは、寂しさもあっただろう。

それでも前向きに車のない暮らしを受け入れようと、移動手段として三輪タイプの自転車を用意し、後輪に設置されたカゴに自動車用のもみじマークを付け、安全に乗れるようにと免許返納までの数カ月間、毎日新しい自転車の練習を繰り返していた。

ありがとうを伝えに

蕎麦屋に限らず、床屋さん、お茶屋さんなど数十年付き合いのある常連だった店を順番に尋ねては、免許返納により従来のようには来られないこと、これまでの感謝を伝えていったという。免許更新日の基準である誕生日から1ヶ月ほど前に、ついに返納となった。

生活スタイルの変化に向けて準備万端と思っていたら、何事にも全力で取り組む祖父は三輪自転車の練習をしすぎてヒザを痛めてしまった。無事回復はしたが、一時期はどこへ出かけるにも苦労する状態になっていた。日常生活に困らないよう家族がサポートするものの、思うように動かない身体に、もどかしさを感じていたはずだ。

そんな時ふと思い立ち、祖父が行きつけだった蕎麦屋に誘った。免許返納前に「今日が最後になるかもしれないよ」とお店で挨拶していた祖父。しかし再び訪れた姿を見て、店員さんたちは驚きながらも笑顔で喜んで迎えてくれた。

私と夫と、祖父。3人で出かけたため、いつもの席だったカウンターではなく、ボックスタイプのテーブル席を選んだ。お馴染みの祖父限定蕎麦&ミニ天ぷらセットを嬉しそうに味わう姿に、胸が熱くなった。

共に過ごす新しい時間

それからというもの、毎月一緒に蕎麦を食べに行く新しい習慣が生まれた。11時に家を出られるように迎えに行き、11時25分に到着して、5分待って開店と同時に店へ入る。蕎麦屋までの道中も、祖父を助手席に乗せて毎週通っていたという同じ道を走る。行き帰りのおよそ1時間は、季節ごとに移り変わる景色を懐かしむ話に始まり、幼少期のエピソード、戦時中のこと、小山の街がどんな風に変わっていったかなど、尽きることのない興味深い話を聞くことができる。

思えばこんなにも祖父と話をしたことは、なかったかもしれない。私が幼い頃から仕事も趣味も勉強熱心に邁進する祖父を見つめつつ、孫でありながら甘えるというよりは尊敬の念の方が強くて、少し近づきがたい思いを抱いていた。本当はもっと、じいちゃんといっぱい話がしたい。心のどこかで、そう願っていた。その思いがこうして今、叶っている。

祖父は最近よく夢を見るという。ゴルフをしていた時の夢だ。遠くに飛ばしてやろうという力んだ考えではなく自然に身体を使ってプレイをしていたから、スコアも伸びて、それはそれは楽しかったと語る。以前のようなゴルフ生活からは離れても、夢の中ではまだまだ現役プレイヤーのようだ。

3人での蕎麦道中が始まって5、6回目くらいだっただろうか。開店と同時に店へ入ると、店員さんから

「いつもの席ですね」

と声をかけられた。かつて祖父が特等席にしていたカウンターの一番奥ではなく、向かい合って座れる一番手前のボックス席が、いつの間にか私たちの特等席になっていた。

「また来月も行こうね、じいちゃん」

祖父の家に着くと、居間のカレンダーに翌月の「蕎麦の日」を書き込む。

今度はどんな話を聞けるだろうか。共に過ごす時間も会話も、表情も、温かな記憶となって心を満たしてくれる。

江口雅枝

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