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ナナメの昼中

この題名から何かに似ているとわかった人は、きっと最近同じものを読んだのだと思う。若林のエッセイ集『ナナメの夕暮れ』だ。

私はテレビをあまり観ないから、漫才をやっている若林もMCをやっている若林もそこまで知らない。オードリーのオールナイトニッポンもたまに聴いているけど、頻度も少ないし、歴も長くないから、リトルトゥースとは名乗れない。でも以前からなんとなく彼が好きだった。人見知りで、少し世の中に対して斜に構えた態度というか、疑問を抱きながら生きている感じに、なんだか勝手に親近感のようなものを抱いていた。

そんな彼のエッセイ集を読んだら、自分でもびっくりするほど共感の嵐だった。当の本人は私のことなど知るはずもないけれど、こんなに似た人がいるのか、と思った。今すぐ彼の目の前に飛んでいって手を取り、「私もあなたと同じことをずっと思いながら生きてました!」と訴えたいくらい。そのくらい、ずっと、うんうんと頷きながら、たまに切ない気持ちになったりしながら、夢中で読んだ。明るいうちから読んでいたのに、気付いたら夕方になっていた。

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“はじめに”から面白い。自分はセーターがチクチクするのが嫌なのにどうして皆はじっと着ていられるんだろう、学ランの第1ボタンを寒いからという理由以外でなぜしめなければいけないんだろう、と疑問に思ったことが書かれていた。生活をしていると些細なことも気になってしまい、常に頭の中が考えごとで溢れている私は、これを読んだだけで“この本は今私が読むべきものだ”と思った。

コンパにも行かずバイト仲間とのバーベキューにも行かず、相方とのネタ作り以外は散歩か家で本を読んでいる自分の行動を、彼はこんな風に言っていた。

"プライドが高く、その割に打たれ弱い、だが影響され易い、そんな自分の防衛策だったのだろう。"
ーーー若林正恭『ナナメの夕暮れ』より

私もそう。プライドだけ無駄に高くて、すぐに傷付く。影響され易いことも自覚しているからこそ、自分で自分がわからなくなることを恐れて、殻に閉じこもっていた。だからこそ、すごくよくわかった。

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「阪神が勝つこととお父さんに何の関係があるの?」と幼い頃父親に聞いたというエピソードを読んで笑ってしまった。私も幼い頃に似たようなことを言っていたから。

うどんを食べていて私が残そうとしたとき「ご飯はちゃんと食べなさい」という母に対して「ご飯じゃないもん、ちゅるちゅるだもん」。食事中に手で器を持っていないとき「手が遊んでる」という父に対して「遊んでないよ、じっとしてるよ」。泥団子を落としてしまい「泥団子が勝手に落ちた」と私が言ったとき「そういうのは、落ちたじゃなくて落としたって言うんだよ」と言う母に「どうしてお母さんは見ていないのにわかるの?」なんて聞いたりしていた私。

なんて屁理屈野郎なんだ。この話を聞いたとき、理屈っぽいのは昔からだったのだと思った。彼とは違うけれど、少し似たものを感じた。

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"自意識過剰なことに対して「誰も見てないよ」と言う人がいるがそんなことは百も承知だ。誰も見ていないのは知っているけど、自分が見ているのだ、と書いた。(中略)昔から言っているのだが、他人の目を気にする人は、"おとなしくて奥手な人"などでは絶対にない。心の中で他人をバカにしまくっている、正真正銘のクソ野郎なのである。その筆頭が、何を隠そう私である。"
ーー若林正恭『ナナメの夕暮れ』より

私もそのうちの一人です、と心の中で挙手をした。なぜなら私はとんでもなく自意識過剰だから。「自分がこう行動するとこう見られるのではないか」という私の考えは、私が他者に対して持っている考えそのものなのだと思う。

"他人を評価し他人を語ることは、自分を評価し自分を語ることに他ならない。"
ーーー貫井徳郎『愚行録』解説 より

高校の文化祭を全力で楽しむことや、何かに本気で取り組むこと、そういうことを「ださい」で片付けていた。「なにをそんなに熱くなっているの」と、心の中で馬鹿にしていたことは否定できない。そういった人たちを否定して、自分は人とは違うと思い込むことで、どこか高尚な人間になったような気がしていた。

でも、心の中のどこかで、全力で何かを楽しんでいる人が羨ましくもあったのだと思う。他者に対して感じるこの"ださい"という感情を、自分に対して持たれることが怖くて仕方なかった。否定することで自分の価値を作り上げていた。何もしなければ何も思われないから。でも、彼が書いている通り、そうすることで自分ができることも狭まっていって、自分で自分の首を絞めている状態になった。

楽になるにはどうしたらいいか。彼曰く私のような“腐れ価値下げ野郎"に、今まで心の中で馬鹿にしていた人たちを肯定するなんていう行為は、到底できない。始めからそれができたら苦労しないのだ。

そのとき彼が始めたのは、肯定ノートに自分がやっていて楽しいと思ったことをひたすら書くこと。他人の目を気にしすぎた結果、自分は何をしたくて何が好きなのか、わからなくなってしまったから。それを続けることで、自分の好きなことがわかり、本当に自分が夢中になれるものだからこそ、腐れ価値下げ野郎が現れても気にしなくなった、らしい。他人の否定的な視線が自分の生き辛さの原因なのであれば、まずは自分が変わるしかない、と。

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高校の体育の時間、バレーボールの試合をしていて連続でレシーブを失敗した運動音痴の同級生に「お前ふざけてんのか?」と言ってしまったことを、彼は今でも後悔しているらしい。

"彼は、努力をしていないわけではない。なぜか、レシーブができないのだ。なぜかできる人は、なぜかできない人の気持ちがわからない。"
ーー若林正恭『ナナメの夕暮れ』より

これにも大きく頷く私。歩み寄ることはできるけれど、本当の理解なんてない、と思う。だって生きてきた世界が違うのだから。

できる人にはできる人なりの悩みがきっとあると思うけれど、私はいまだにそのコンプレックスと戦っている。同じレベルにいくまでの努力量が同じだとは、到底思えない。そのことを段々と理解して受け入れられるようになった彼は、大人だなと思う。たかが20歳そこらの私が40歳の彼に対して言う言葉ではないけれど。

他の人は気にならないような些細なことが気になって仕方がないこと、人の顔色ばかり伺って行動してしまうこと、一人で出掛けることが多いこと、自分に自信がある人に憧れると同時に自分はそうはなれないと思うこと、一度に色々なことを考えてしまい話が飛んでしまうこと、理想の自分と実際の自分とのギャップに苦しむこと、共感する箇所が本当に沢山あった。

それでも彼は、自分の弱さを受け入れ、しっかりとそれを咀嚼して理解できる人間だと思った。西加奈子さんが本の帯に書いていたように、彼は自身の弱さを認められる、すごく素敵な人だなと思った。

このエッセイを読んで、最近映画を観る機会も多いからこそ、映画を観て自分の中の何かが触発されたり、人の考えに触れることで自分の世界が広がる感覚が好きだなと改めて思った。考えすぎてしまう性格だけど、きっと生まれ持った癖であって今更どうしようもないことだから、前向きに捉えよう、影響を受けやすく感化されやすい人間だけど、臆せず様々なことに触れよう、そうした過程で確立された私こそ、私なのだ、と思った。私が感じたことは誰にも否定はできない本物だから。そうしたことで得た感情や価値観を、大切にしたい。

豆乳、ナス、ピーマン、ワサビが昔は苦手だった。でも今は、どれも食べられる、というか、寧ろ好んで食べるようになった。苦手だったものを好きになると、大人になったなと感じる。ふとした瞬間に自分の変化に気付く。こういう些細なことだったり、友人の何気ない一言だったり。これからも変わっていきたい。変に固執して、自分像を固める必要なんか、全くない。

彼は「20〜30代のときのナナメに構えていた青春が終わっていく感じが夕暮れを思わせた」からと、このタイトルにしたらしい。私はまだ当分、ナナメから抜け出せそうにないから、これから暮れていく意思表明と、期待を込めて。

#エッセイ  #コラム #日記 #ナナメの夕暮れ #若林正恭

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