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20220128 金時豆を水に浸す


 年明けに読んだ、小川洋子『犬のしっぽを撫でながら』を再び読んでいる。好きな本は何回も読むけれど、ひと月に二回も読むことはないなあと思いながら、黙々と読んでいた。
 その中に『人間の手 フェルメール「レースを編む女」によせて』という話があり、それが好きだ。小川さんが手芸教室に通っていた頃の話で、「先生は針一本で生きてきた人だった」という一文に胸を掴まれる。そういう人になりたいと思う。針に限ったことではないのだけれど、手、とか、体、で生きている人というのに憧れる。小難しい理屈を並べるのではなく、勘とか経験とか、そういうものを宿している人。その先生は「人間の手が作り出すものは偉大です」と言う。おっしゃる通りだと思う。
 職人とか、専門家というのが好きだ。憧憬、とも言える。パン屋に勤めていたことがあるのだけれど、そこの店長がそうだった。一途に極めた人の手元というのは本当に美しい。何年も何年も、粉を触り続けてきた人でないと生み出せないものがある。パンくらい誰にだって作れるのだけれど(私も家で時折焼く)それはまだまだにせものだ。にせもの、というか、まねごと、というか。たとえ牛丼一杯だって、家で作るのと、入って一ヶ月のバイトが作るのと、勤続十五年の社員が作るのとでは全然違う。チェーン店では、アルバイトでも誰でも同じ品質のものを提供できるように機器やマニュアルがあるのだろうけれど、にじみ出る美しさではどうしようもない差が生まれてしまう。家で作るのだって、何十年も台所に立ち続けている人から生まれる食べものは、きっと私のようなぬるい主婦が作るものより何万倍も美しい。
 実家の食べものの思い出というのは、実はあまりいい思い出がない。けれど祖母の作る料理は美しかったな、とふと思ったのだ。美しいというのは、色鮮やかだとか、盛り付けが綺麗とか、丁寧に面取りがされているとか、そういうことではなく、もっと内側からにじみ出てくる艶のようなもの。
 結局、続けることだ。忙しくてもかなしくても苦しくても、手を動かし続けること。薄く薄く重ねていった先に、そういう美しい景色が待っているのかもしれない。そう思うと、三十代という人生の、なんと中途半端でつまらないことか、と思ったりするのだけれど、まあしゃあないかと台所に立ち、金時豆を洗って水に浸してみたりする。

豆の灰汁を水にすくうと、うすい色水のようだった。

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