はるまき

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「自分のせい」と「傷つく権利」

不作為バイアス不作為バイアスという言葉があります。何かをして失敗する(マイナスの結果をもたらす)よりは、何もしない方がましと考え、不作為(何もしない)という選択肢を選んでしまうという人間の思考の傾向です。 ワクチンとか典型的かもしれませんね。子どものころに接種する、はしかなどのワクチンによってはしかにかからず助かっている人が多いことは、ワクチン登場前にはしかで亡くなる子どもが多かったことから明らかであるはずなのですけれど、一部の人は、「はしかワクチンで悪い目にあう(副反応

    • 自分的事例検討3:話し言葉と書き言葉の区別がつかない

      ASDとは! と一般論で語るのが難しいのは、わたしを例にすると、 ・ 掃除機の音が苦手→ASD由来の感覚過敏 ・ 球技できない→協調運動障害+左右失認 とかいう「特性由来!」なこととその組み合わせだけじゃないからだと思います。 以下、それをふまえて。 一般化できることと、特殊事情子どものころ、話し言葉と書き言葉の区別がつかず、まるで難しい本を朗読するかのような話し方をしていた件について、です。まさか、ASDの子どもが全員、話し言葉と書き言葉の区別がつかないなんてことはない

      • 人間関係におけるフィードバックのかからなさについて

        「みんな、君のことを迷惑に思っていて、距離を置きたいと思っている」という言葉を真に受けて大ダメージを受けていた時期がある。「自分だけは味方になってやる」と言って近づきそして支配するのが目的だったんだな、と理解するのには1年くらいかかった。よくある手口と言われればそうなんだけど。 フィードバックがかからない自分が相手にどう思われているかがわからない、かりにたんに気を使ってもらっているだけだとしてもおそらく真に受ける、知らないうちに不愉快にさせているかもしれない、そういう過去と

        • 自分事例検討2:分析における区別

          なるほど、と思ったポストを3つ。2つ目と3つ目は続いています。 いやほんとそうですよねと。わたしもそう思います。「個人の」事例を、とくに肯定的に語るときの、落とし穴。はまらないとも限らない。 まず、1つ目。ASDの特性そのものから起きている事象と、その結果の、特異かもしれない人生経験の結果として起きている事象の区別、ですね。 たとえば、わたしが掃除機の音を苦手とするのは、ASDの特性(感覚過敏)の直接の結果です。それに対して、たとえば勉強が得意だったことは、いくつかのA

        「自分のせい」と「傷つく権利」

          自分事例検討1: 「はるまきの」ASDについて

          「ASDはスペクトラムである」 そうですね。そもそも「ASD」の「S」は、スペクトラムのSですからね。 「よってはるまきが自分を参照してASDの何かを語ったとしてもそれは万人にはあてはまるわけではない」 そうですね。たぶん、一部のパラメータ(たとえば言語IQ)はほぼ外れ値だと思います。そして、たとえば協調運動障害はASDの全員にあるわけではない。療育も社会の理解もなかったころに子ども時代を送りました(いまの子どもや若者とは背景が違います)。いろいろな偶然のため、二次障害がゼ

          自分事例検討1: 「はるまきの」ASDについて

          「何か」のやりとり。

          多くの人(Autistic 以外?)の間では、「何か」がやりとりされているのだそうです。 その「何か」が即座にやりとりされることで、「こころのつながり」を感じるのだ、と教えてくれた人がいました。Autistic 相手ではその「何か」のやりとりが起こらず、「こころのつながり」を感じることが難しいそうです。 伝聞体で書きました。お察しのとおり、わたしにはその「何か」が察知できません。もらっても返していないといわれても、何のことだかわからない。 その「何か」は「ふつうは」よほ

          「何か」のやりとり。

          ニューロダイバーシティが物語であると強調してしまう事情について。

          ニューロダイバーシティは本来、物語ではなく、概念なんだと思う。でもわたしにとっては物語で「も」ある。前のnoteでは、物語の側面を強調して書いた。 なぜわたしにとって、ニューロダイバーシティが物語である必要があったのか、について、やっとまとまった気がするので、書いておこうと思う。 否定しようのない概念としてのニューロダイバーシティニューロダイバーシティは、字義的にも本来的にも、「神経のつくりという意味での多様性」のことであり、事実だし否定しようのない概念である。この意味で

          ニューロダイバーシティが物語であると強調してしまう事情について。

          ニューロダイバーシティは、「お気持ち」なのか。

          ニューロダイバーシティが想定しているのは、本人の努力(+得られるなら周囲の協力)で問題をその人の限界まで解決してきた層で、その努力や工夫についての矜持がバックグラウンドにあるんじゃないかなと推測している。 「がんばってきた、できることはやってきた、それでもなお残るものについて、自分自身は特性として受け入れようとしてきたし受け容れつつもあるけど、社会の側もそれを理由に排除しないでもらえると嬉しい」くらいにとらえてる。お気持ちと言われれば、そうだね、と言うしかない。 「なんと

          ニューロダイバーシティは、「お気持ち」なのか。

          「ASDの人と結婚するのは考え直せ」は差別なのか。

          「ASDの人との結婚は、温かい家庭は作れない、考え直せ」というツイートをまだ根に持ってるんですよ。「わたしは」それは差別だと考えています。で、差別とは何か、です。なんか面倒っぽいんですけどね。 差別とはなにか差別とは何か、いろいろ定義はあるんですけどね。わたしにとってわかりやすかったのはこの定義です: 1)ある社会的カテゴリーに属しているという理由で 2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて 3)異なった(不利益な)取扱いをすること 1)と3)はわりと明らかなことが

          「ASDの人と結婚するのは考え直せ」は差別なのか。

          昔犬に噛まれたからすべての犬が怖い、について。

          わたし、過去において、犬に噛まれたことが2回あるんです。どっちも縫うレベルの怪我で、しかも留学中だったので、かなりの恐怖体験でした。病院も怖かったです。英語だったから、医師とか何を言ってるかわからなくて。 その結果、犬が怖いんです。いまでも。20年以上たってるのに。 犬に噛まれた(この時点では特定の犬)から、その犬を見かけたら逃げるにつながり、そして、「犬」という言葉を介して(実物の犬=「犬」という言葉なので)、いかなる犬についても見かけたら逃げる、となる。で、いまでも、

          昔犬に噛まれたからすべての犬が怖い、について。

          努力について、思うこと。

          努力できる才能とかいろいろ言うんですけどね。努力できる才能も含めて、の話です。たとえば、英語ができるようになりたい、とします。で、中学英語からしてあやしい、とします。 ここで、中学英語からしてあやしい、と認めて、中学英語から取り組めば、おそらく、英語はできるようになるんですよね。もちろん向き不向きはあるので、限界はありましょうけれども、伸びはする。事情や能力に応じて、どこからかは伸びが鈍るでしょうから、どこかで折り合いをつける必要はある。そうはいっても、多少は伸びる。 も

          努力について、思うこと。

          感覚過敏について(例:はるまきの視覚過敏)

          感覚過敏について、最近いろいろ学ぶことがありましたので、The Adult Autism Assessment Handbookを参照しつつ、主にわたし自身について書いてみたいと思います。 ◆ 感覚過敏というといわゆる五感、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚が挙げられることが多いです。これに、平衡感覚・固有感覚(筋肉の状態)・内的受容感覚(内臓の状態)を加えて8つにすることもできそうです。 ◆ わたしについては、特に視覚過敏がわかりやすいように思います。 まず、光について

          感覚過敏について(例:はるまきの視覚過敏)

          合理的配慮と「Reasonable accomodation 」

          「合理的配慮」って、英語の訳じゃないですか。もとの英語は、Reasonable accomodation です。合理的がReasonableで、配慮がaccomodation。この訳語が独り歩きしているような気がすることがあります。英語の専門家じゃないんですけど。専門家の人に怒られなければいいなとか思ったりもしてます、けど。 「合理的」配慮この「合理的」ね。日本語だと、「理にかなった」という意味もあるとはいえ、「コスパがいい」の意味に捉えられがちかなとか。「合理的なシステム

          合理的配慮と「Reasonable accomodation 」

          「勉強したなら当然」微分積分はマスターできる、のでしょうか。

          「子どもが川に落ちて、その後濡れたまま買い物に連れて行った」夫のエピソードが、いいねをあつめていました。その夫はASDなのだそうです。 「ASDだから」川に落ちた子どもをそのまま買い物に連れて行った、とは、よく見ると書かれていない。「すべてのASD者」が、川に落ちた子どもをそのまま買い物に連れて行く、わけではないでしょう。わたしだったらどうかな。わたしも、その想定外にはパニックで固まりかねません。たぶん「夫に電話をかけて指示を仰ぐ」になるだろう、と思います。予定を変更して帰

          「勉強したなら当然」微分積分はマスターできる、のでしょうか。

          相手の「気遣い」で消耗する件について。

          気を使われると、真理値が測定できなくて困る、場合によっては真理値ゼロだと判定してコミュニケーションそのものを打ち切りたくなる、と、前回書きました。 真理値不明あるいはゼロだから意味がない、というだけでなく、消耗するよな、と、ふと思いまして。 これだ、と自分で書いてて思ったんですよね。気遣いにはその裏に、文字通り以外のものを受け取れ、場合によってはなにか返せ、という要求が、うっすらとでも隠れていると思うのです。まったく何もないこともあるのかもしれないけれど、隠れている可能性

          相手の「気遣い」で消耗する件について。

          「気遣い」に対応するプログラミングについて。

          ことばを字義通り解釈する、とされているASDでありつつ、わたしの場合、たとえば、「無理しなくていいからね」を文字通り受け取るか、というと、必ずしもそうではありません。 初めて言われたときには、たぶん文字通り受け取ると思うんです。でも、それで怒られるなど失敗したとすると、その後「無理はしなくていいからね」を、「真理値ゼロ」の表現とみなすことになります。要は、意味のない発言として無視するわけです。 その後、病院で医者に「無理はしないでね」と言われて、そのアドバイスを完全に無視

          「気遣い」に対応するプログラミングについて。