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「ASDの人と結婚するのは考え直せ」は差別なのか。

「ASDの人との結婚は、温かい家庭は作れない、考え直せ」というツイートをまだ根に持ってるんですよ。「わたしは」それは差別だと考えています。で、差別とは何か、です。なんか面倒っぽいんですけどね。

差別とはなにか

差別とは何か、いろいろ定義はあるんですけどね。わたしにとってわかりやすかったのはこの定義です:
1)ある社会的カテゴリーに属しているという理由で
2)合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて
3)異なった(不利益な)取扱いをすること

1)と3)はわりと明らかなことが多いです。2)が問題になります。

その差別は「合法」なのか

それは差別だとか区別だとか、よく議論になります。

差別の合法性?

たとえば、日本国籍がない人が日本に滞在するには、ビザ(または永住権)が必要です。日本国籍がある人が日本に滞在するのであれば、ビザは不要です。ビザや国籍の定義から言ってこれは当然ですので、差別ではありません。

これに対して、白人や黒人であるという理由で、ビザや永住権があるのに日本に滞在できないとすると、これは差別の可能性が出てきます。そんな決まりはありませんし、ビザや永住権、国籍の定義にも反しています。これは、もし起きるとすれば、差別になります。

先生がかわいい子だけえこひいきするのも、差別ですね。これは、先生のあるべき姿に完全に違反しているので、差別といえます。先生が「あの子かわいい」と思っているだけであれば、個人の中にとどまる問題ですから好き嫌いであり別にかまわないとしても、生徒の取り扱いに差をつけるのであれば個人の中にとどまらず他人に影響を及ぼしてしまうので、差別となります。

合法的差別と個人的好き嫌いの間

誰も差別とは考えていないものと、どう考えても間違っているものの間に、「社会的差別」があります。一部の集団によってだけ支持されている「差別」ですね。

社会的差別

先生が「あの子かわいい」としてえこひいきするのが、複数の先生によって支持されるとすれば、これはその先生たちの集団による差別ということになり、社会的差別となります。「だってかわいいから当然じゃん」と、その集団なりに「理にかなっている」として支持されるわけですね。しかしこれ、「どう考えても先生として間違っているだろう」という批判を浴びることも十分に考えられます。(その集団の外の)規範による支持が少ない例です。

外から見れば、「あの子かわいい」としてえこひいきするのは、「どう考えても間違っている」、つまり差別です。しかし、「あの子かわいいからえこひいきしようぜ」という先生の集団から見れば「当然」のことであり、差別にはあたりません。集団内に限っていえば、規範に支持されているわけですね。

ASDの人と結婚するのは考え直せ、は差別なのか

で、冒頭の問題に戻ります。。おそらくこれは、「誰がどう考えても間違っている」わけでもなく、「誰がどう考えてもその通り」でもない。社会的差別ですよね。

たとえば、わたしは(たぶん)定型発達の夫と約20年にわたって結婚生活を続けています。迷惑をかけていることは否定しませんけれども、夫を一方的に不幸のどん底におとしいれているとは思いませんし、夫が任意の定型発達の女性と結婚しさえすれば現在より幸福な生活が送れていたかどうか、それもさだかではありません。わたしに関していえば、「ASDの人と結婚するのは考え直せ」は、「ASDでくくって不利益な扱いをしようとしている」言説、つまり差別、ということになります。

とはいっても、ASDの夫と結婚した「から」自分は不幸になった、その不幸はASDという性質と直結している、と考えている女性は一定数いるようですから、そういう人は、これは差別ではないと考える可能性が高いです。

以上をまとめると、「ASDの人と結婚するのは考え直せ」というのは、「わたしからみれば」差別であり、「一部の人から見れば」差別ではない。わたしがそれが差別であるというのを取り下げる必要もたぶんないし、一部の人がそれは差別ではないというのを取り下げる必要もない。取り下げてほしいと願うのは自由だけど、取り下げさせる権利はない。そんなところでしょうか。

この論文を参考にしました。詳しい話が知りたい方はぜひ↓

https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00121109/02_kyozai_9_ronbun.pdf


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