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自分事例検討2:分析における区別

なるほど、と思ったポストを3つ。2つ目と3つ目は続いています。

いやほんとそうですよねと。わたしもそう思います。「個人の」事例を、とくに肯定的に語るときの、落とし穴。はまらないとも限らない。

まず、1つ目。ASDの特性そのものから起きている事象と、その結果の、特異かもしれない人生経験の結果として起きている事象の区別、ですね。

たとえば、わたしが掃除機の音を苦手とするのは、ASDの特性(感覚過敏)の直接の結果です。それに対して、たとえば勉強が得意だったことは、いくつかのASDの特性(たとえば相手の言うことを真に受けるとか、自分ルールとか、周りに流されなさすぎとか、それらすらひょっとしたら二次的な特性かもしれないけど)のために、勉強時間が長くなった結果です。できれば、人生経験の結果から特性を導ければいいな、と思ってはいますが、そこまでの分析が毎回できる自信はありません。ただ、試みてみようとは思います。できるだけ、ですね。

そして、2つ目と3つ目。「それは特性のせいであって、あなたは悪くない」かどうか。これは難しいところで、正直、そう言いたくなることはあります。「あなたは悪くない」の極端な例は精神疾患のある人の無罪判決(「反省」しても再発は防げないので、服役のかわりに治療を受ける)だったりします。カントの哲学を参照して考えると(突然哲学)、人間を自然の産物、つまり自由意志のないものとして考えるのであれば「特性だから仕方ないね」という結論、自由意志を認めるのであれば「そうはいっても本人の問題」ということになります。

その、精神疾患のある人の無罪判決を考えるに、「特性のせいであって、本人には現状どうしようもないところもある」に加えて、「しかし、それをどうにかする責任は本人にある(周囲の手助けを得るのはもちろん可)」ということになりましょうか。「あなたが引き起こしたという意味の責任」をアカウンタビリティ(説明責任)、「自分のことだから自分でなんとかする努力をしましょうという意味の責任)をリスポンシビリティ(役割責任)という区別ももできそうです。日本語で「責任」というと両者がごっちゃになりがちですけれど。

まとめると、特性と特性の結果の区別、アカウンタビリティ(説明責任)とリスポンシビリティ(リスポンシビリティ)の区別、ということになりましょうか。心に留めて、書いていきたいと思います。

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