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努力について、思うこと。

努力できる才能とかいろいろ言うんですけどね。努力できる才能も含めて、の話です。たとえば、英語ができるようになりたい、とします。で、中学英語からしてあやしい、とします。

ここで、中学英語からしてあやしい、と認めて、中学英語から取り組めば、おそらく、英語はできるようになるんですよね。もちろん向き不向きはあるので、限界はありましょうけれども、伸びはする。事情や能力に応じて、どこからかは伸びが鈍るでしょうから、どこかで折り合いをつける必要はある。そうはいっても、多少は伸びる。

もちろん、必要な休憩をとり、多くを犠牲にしすぎずに到達できる範囲の、「いまの限界」です。無理する必要はない。

努力と限界の伸び

で、いまの限界の近くまで到達すれば、その限界を多少は押し上げることも可能です。ここまではいい、と思います。努力の才能がいまいちだとしても、その「努力の才能」に応じてできることをやれば、努力できるかどうかを含めて多少は進歩するはずです。

問題は、です。この、「いまのレベル」を認めない場合、です。認めないというのはどういうことかというと、いまのレベルといまの限界のはるか上に、幻想の自分を持ってくる、ということです。

幻想の自分

こうなると、伸びようがありません。幻想の中では、幻想の自分が幻想の目標をすでに達成している状態なので、努力の必要がないからです。「いつだって、やればできる」というやつですね。そしてたとえば、英検を受けない。現実に直面することを、徹底して避ける。

この幻想に浸っているのはとても気分がいいので、抜け出すのはとてもたいへんです。ひとのことはいえないんですけどね。でもほんと、幻想から抜け出して限界を認めないと、どこにも到達しない。

やらなくていいことについては、幻想だろうとなんだろうとどうでもいいんです。でも、やらなければならないこと、実はやりたいと思っていることについては、そうも言ってられないですよね。なかなか伝わらないんですけどね。


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