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穴から引きずり出された、やっとエンジンがかかったナース3年目の話。

「あなたは社会人としての自覚がなさすぎる」

15分以上の私の沈黙のあと、H師長はこう言った。

オペ室の、コントロールセンターと呼ばれる表の部屋の後ろに2畳くらいのスペースがあり、そこで30分以上も師長と向き合っていた。

新人でオペ室に配属されて3年目だった。
この日朝、寝坊して遅刻してしまった。
確かその数日前にも同じ理由で遅刻していた。
3年目になって、立て続けに遅刻という社会人としてあるまじき失敗をして、この日は仕事の終わりにH師長に呼び出されていた。

「仕事辛い?」

この質問に、私はゆうに15分は答えられず固まっていた。なんとか声を出そうとするが、どうしても答えられなかった。

辛いかと、問われて当時 仕事がつらくて辛くて堪らなかったが、どうしても「はい、辛いです」と答えられなかった。
今から考えるとなぜ?と思うが、あの頃はそれを言ったら何かが終わってしまう恐怖があった。
自分の中で何かが崩れてしまいそうだった。
問いかけに、四苦八苦して言葉を絞り出したが覚えていない。
何か “辛いです” の代わりになる言葉。
そして冒頭のセリフが耳を打った。

師長は一貫して言葉少なだったし、本当に辛抱強く私の言葉を待ってくれた。
何年も何年も時が流れるにつれて、あの時間の意味を考えることがある。

あの小さな部屋で、冷や汗を垂らしている不甲斐ない後輩の言葉を、じっと待つことは大変だったと思う。
この場面を思い出すといつも、この沈黙に耐えた後のこのセリフが鮮やかに甦る。

「社会人としての自覚がなさすぎる」

....いまでも息が苦しくなる。
しかしこれが私のエンジンがかかった瞬間だった。

東京で働くということ

3年間東北の田舎で看護を学び、私は大きな希望を抱いて上京した。
社会人として大都会 東京の憧れの病院で、本物の看護師になる、と。

オリエンテーション初日病院のホールで、配属先が発表された。
自分の名前と数名が呼ばれた後、

OR」と聞こえた。

「オーアール」ってなに?

と、私の隣に座っていた、病院の附属大学の卒業生に小声で尋ねた。

「オペルーム、手術室のことだよ」

えっ.....

茫然とした。

同じく唖然としている同期と集まり、不安気に互いの顔を見合わせた日のことは、今でも鮮明すぎる思い出だ。

私達は皆、この病院で白衣を着て働くつもりだった。それが、まさかまさか、手術室に配属になろうとは、、、青天の霹靂真っ只中の6名だった。

同期6名のうち、新卒は4名で1人は高校の衛生看護科を経て看護師になったのでバリバリのハタチ。
新卒の私達だって21歳だった。
他の2名は他病院で数年の実務経験があった。

崖から突き落とされた子ライオン、または震える子羊のような私達はこの日からORナースになった。

同期の5名は、一括りには出来ないほど、出身地も経歴もバラバラで全く違うタイプだった。
これが学校なら、私達が同じグループになることは決してなかっただろう。
我々の共通点はこれだけ。

“誰一人OR勤務を希望していなかった”


※ 後にORナース全員、入職時は同じ状態だったということを知る

否応なく放りこまれた新人としては、1年は配属先でがんばるという選択肢しかなかった。
(1年後、希望すれば部署移動ができた)

配属されてすぐ、プリセプターを紹介された。
早くからプリセプターシップを導入していたこの病院でも、当時のORは年齢層がずば抜けて厚かった。

OR勤続10年以上のベテランが何人もいて、師長以下のスリートップは各々勤続20年に手が届く方々だった。
あの頃は自分の親くらいの感覚でいたが、40歳にはなっていないお姉様たちで、今の自分の方がずっと年上ということに驚く。

新人の私達からしたら「仰ぎ見る大先輩」であり、ほとんどの先輩はOR一筋、生え抜きの猛者。

当時は “看護婦” でまだまだ男性看護士はいない時代だ。
女の花園、かつ猛烈な体育会系社会がORだった。

手術室勤務とは

新人は必ず、プリセプターと一緒に行動し手術に入る。
最初は「外回り」と呼ばれる仕事のイロハを徹底的に叩き込まれた。

外回りのORナースは、麻酔科医と一緒に手術中
動くため、麻酔の知識習得が最重要項目になる。
医師のための麻酔の参考書を買って、毎日ひたすら勉強した。
併せて、生理学と解剖学も学ばなけれなならない。
当然、看護学生時代に一通り勉強したが、実践に即した知識と学生の座学とでは、知識の深さ、厚みにおいて雲泥の差があった。
また医学英語を多用する病院だったので、医学英語辞典と首っ引きになって医学用語の英単語を覚えた。

それらを働きながら勉強するだけでも一苦労だったが、何より厳しかったのは、ORナースとしてオペの手順を覚え、手術前・中・後にしなければならない無数の事柄に対処することだった。

総合病院で、診療科は全身を網羅していたためオペも多種多様だった。
当たり前だが、科によってその仕事内容は全く違う。
例えば脳外科の手術と、整形外科の手術では、
室内の麻酔機や手術台の位置も違えば、手術時のベッド上での患者の姿勢も違う。
麻酔のかけかたも違うので、事前に患者入室からの流れを頭に入れておかなければならない。

外回り業務に加えて、
「手洗い」( “器械出し” ともいう) という手術に直接立ち合う役を、全ての科を一通りこなせるようになるのには、約3年かかる。

「心臓外科の開胸術」「脳外科の開頭術」という、
大掛かりな手術にデビューできるのは、3年目からだった。

「外回り」「手洗い」ともに、とにかく覚えることが膨大にあった。

各オペ室にある道具、物品の位置や使い方を、
一つ一つ覚えて、そして手術室をその日予定されているオペ仕様に準備するため、手洗いシフトは朝7時から始まる。
1年目は準備にも時間がかかるので、6時過ぎに取り掛かる必要があった。

麻酔薬は劇薬、麻薬類が多く、取り扱いと準備には常に神経を使った。
誤薬や投薬量のミスはないか、準備は同僚や麻酔医と確認しながら行う。

ローテーションで研修医が、麻酔科に来て日が浅い頃、ナースが主に見る掲示板に、

「麻酔科の不審な動き注意しましょう」

という張り紙がされており、思わず二度見してしまった。
数日前に若い研修医が、誤薬しそうになったそうで、先輩が気がつき事なきを得たそうだ。


ORでの仕事は緻密さと、全方向に注意を向けて動くことの連続だった。
集中しながらも、オペ中に起ることを予測して対応していかなければならない。

この相反する「集中しながら周りに気を配ること」がなかなか出来なかった。

「集中しすぎて周りが見えていない」とたびたび注意された。

手洗い業務は、手術手順を全て頭に入れて、使用する器具、手術器械と友達になるくらい親しんでいないとならない。
そして、執刀医の手元を見て、今何をしていて何が必要か、次にどの器械を渡すか憶えていなければならない。

「先生ガーゼが足りません!」

手術用ガーゼの枚数カウントは、手洗いナースが責任を持って外回りと、決まったタイミングで確認していく。
オペが始まる前にカウントし、腹部のオペであれば腹膜開ける直前、腹膜を閉じる前、皮膚を閉じる前だ。
もっとあったかもしれない、、、
とにかく体内にガーゼが残されるリスクをゼロにするため、二人で行うダブルカウントは、特に新人には大きなプレッシャーだった。
カウントはいつも素早く適正に、正確に行わなければならない。
そのピーンと張り詰めた空気感が、単純に怖かった。

4年間のOR経験の中で2回だけ、あわや!
という場面に遭遇したことがある。

オペ終了間際、腹部を閉じる段階になり、
ガーゼカウントを行ったが、一枚足りない。

こういう事態になると、執刀医の手を止めて手術野をよく見てもらう。ほとんどの場合は、手術台のはじっこで丸まって隠れているが、、、ない!
足元にも落ちていない。
手術ベッド周りに置かれている、数台のゴミ箱を確認する。
他のゴミ入れも、中身を全て出して確認するがない、ナイ、無い!

「先生ガーゼが1枚ありません!」

と報告するが、執刀医は平然と、

「あるでしょ〜どっかに...」と言いながら腹膜を閉め始めた。

散々探してそれでも無いのだ、どうしよう....
先生達はどんどん縫っていく。

「先生!!ガーゼが無いんです!もう一度ちゃんと探してください!」

毅然とした声が響き渡った。

外回りの先輩が、怖い顔で、キッパリと言い切ったのだ。

その時の執刀医は、年配のベテラン外科医だった。
3個上の先輩が、新人時代に手洗いで、介助が上手く出来なくてオペ中に怒鳴られて泣いてしまった際に、

「泣くな!!汚い!」

と一喝されたそうだ。

「もちろん滅菌状態の術野だから涙が落ちたらさ、絶対ダメなんだけど、うら若き乙女に“汚い!”ってすごくショックだったわー」

と、先輩は笑いながら話してくれた。

そういう怖い先生に、キッパリと言い切ったので、一緒にオペについていた第二執刀医以下助手も、
皆焦った。

「えー!?絶対、中(腹部の中)にはないよ、しかたないなぁ....」

ぶつぶつ言いながら、縫った箇所を解いてもう一度手を突っ込んで、無いよ絶対...と言いながら探し始めた。

「あー!あったわ....」

20cm大の正方形の厚みのあるガーゼが、ものすごく小さくなった状態で体の奥の奥から取り出された。

あの時、絶対に他には無いと言い切り、再度の確認を断固要求した先輩の強い声、カッコよかった。

ガーゼ残しは無い!と言い張っていた医師達も、
「いやぁ助かったよ」と素直に感心していた。

ORナースは強い。
プライドも高い。

それはそうだ。
専門性と特殊性が高く、看護分野広しとも、手術室経験があるナースは一握りだ。
新人はORに配属されない病院も多く、わざわざORナースを希望することはかなり稀だ。
私も自分で志望することは、100%無かったと断言できる。

同期で一番できない落ちこぼれだった


根っからの文系で、かつ大雑把な人間の私は、
要領も悪かった。

ベッドサイドで患者さんと関わりたくて、就職したはずが、ほぼ意識があるひとと接する機会がない、ORに配属された。

そして、機械の如く精密さと俊敏さを求められる仕事が、私は壊滅的に苦手だった。
同期の中でも、群を抜いて出来ない落ちこぼれだった。

手術室の配置や、セットアップと呼ばれる器械だしの台(手術中使用するものを置く大きな台)に並べる物品、手術器械というのは全て場所が決まっている。
手洗いは最長7,8時間オペにつくことがあるが、途中交代することもある。
台を自分仕様にしていては、引き継ぎ時に迷惑というもので、手順書通り並べておかなければならない。

私にはそれが難しかった。
事前に散々、台の見本図を見て予習していても、二次元から三次元に起こせなかった。
緊張で頭が真っ白になって、全く出来なかった。
空間認識力が欠如していることに、どこか脳がおかしいのでは?と悩んだりもした。

腹腔鏡下のオペには、スコープ等を繋いだり、モニター類をたくさん使う。
それらの管理、片付けもORナースの仕事だ。

一度、コードを巻いて所定の入れ物に入れたのだが、先輩がそれを確認して私に言ったのが、

「こんな雑に片付けたらね、機械といのは次に言うことを聞いてくれないのよ!」

「今、何いってんだ?って思ったでしょ!?でも本当なのよ。コードはクセに従って丁寧に巻くのよ!」

新人だった私はもちろん神妙に聞いていたし、びっくりした。
あまりにも真剣にコードを巻くことに拘るから。

しかし、こういう拘りとか真剣さが、ORでの緻密な仕事の底に有り、心構えとしてとても大切だということを学んだ。

あれ以来コードは絶対にクセに逆らわず、キレイに巻くようになった、実生活でも。
あの時の先輩の勢いが蘇ってくるから。

長々書いてきたが、ORの仕事は向いていなかった。
同期は、なんだかんだ言いつつも皆んな優秀だった。
努力しても出来ないことが多すぎて辛かった。
自分を生かせる場所は、他に有るはずだと思っていた。

2年目に配置換えを希望することもできたが、あまりにも仕事ができないこの状態で、ORを出ていけなかった。
病棟に移っても、また辛いことがあるだろう。
一度逃げたら、次もまた逃げ出してしまうことになる気がした。
歯を食いしばって残ったが、2年目になってもパッとしなかった。

そういう心の隙が仕事に出ていることを、師長は見抜いたたのだろう。

「社会人としての自覚がなさすぎる」

と言われた時、私にとって平手打ちよりも痛かった。

師長の声の雰囲気から、諦めも感じ取られた。
今まで歴代で群を抜いて叱られてきたが、叱られもしなくなったら終わりだ...という確信があった。

「最後通牒」だなぁとフワフワ上気する頭で感じた。

以前から、お金を頂く以上はプロだ、と言われていた。

だいぶ前から、お給料もボーナスもちゃんと貰っている。
赤面するほど恥ずかしく、情けなかった。
穴を掘って深く潜ってしまいたかった。
俯くと涙がポタポタと落ちた。

その時に自分の甘さを痛感した。

「私はあまい、甘すぎる」

向いてないということを言い訳に、どこか逃げ腰だった。
そういう姿勢で働いてきた自分を、その時ハッキリと自覚した。

「あなたは社会人としての自覚がなさすぎる」

長々と出来なさをあげつらうより、この短い言葉に私の全てが要約されていた。

変わらなければ、ここで方向転換しないと、このままズブズブ駄目になっていく。
何より、恥ずかしかった。
自分に恥ずかしかった。
ずっと中途半端な私。

自分に向き合うこと、自分自身から逃げないで向き合おうと決心がついた。
遅い目覚めだった。


核になるもの

あれから20年以上が経った。
ドイツで2017年 看護師研修をした時に、先輩方の言葉の数々を思い出した。
もっと以前、カンボジアやアフリカのミッションでも思い出した。

怖かったセリフ、厳しいセリフと共に仕事のやり方、向き合い方を、4年間の経験と共に。


看護師という職業に必要な核になるものを、あの時代に培うことができた。
それらは時間が経っても、国境を跨いでも霞むことはなかった。
看護師として、最も基礎になる部分を磨くのに、
先輩方に多大なご苦労をかけさせたと思う。

私の成長を待ってくれ、叱咤激励をしてくれた。

あれほど向いていないと思っていたORの仕事が、最後は本当に楽しかった。
できたらあと数年働きたい....と後ろ髪引かれながら病棟に移動した時に、驚きと不思議さを感じた。

自分で思う「向き、不向き」がアテにならないこと。
見極めるのに、ある程度の時間が必要なこと。


「向いてない」を乗り越えると、バージョンアップした自分に出遭えるということ。


私の中の核は、いま人生そのものを支えてくれている。

デュッセルドルフの街角の個人オフィスで通り掛かり、見つけた絵。中に入って写真を撮らせて貰った


いつも、
あの頃の先輩全員に会って、御礼を言いたいと思っています。

有難うございましたと、心を込めて伝えたい。

OR時代を、こうしてnoteに書けてよかったです。
長いですが、ここまで読んでくださって感謝です🍀

オマケ:OR勤めの副産物

●最長9時間トイレに行かなくても持つ:器械だしで膀胱が鍛えられた。

●歩くのが速い:ゆっくり歩いている、と叱られて以降、ORの円周廊下を競歩で歩いていたため。



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