天職というものが有るのなら。
看護師6年目、その病棟に来て2年目で、やっと病棟看護師らしく働ける様になって来た頃、その人と出会った。
Tさんは特別室というその病棟で一番広い病室に入られていた。
ガンの末期で当時、医学的に多くの選択肢はTさんに残されていなかった。
積極的な治療というよりは緩和的な治療で、外科病棟だったその病棟では少し違ったポジションにおられた。
廊下の奥の部屋はいつもヒッソリとしていた。
そこに漂う独特な空気感は、緩和ケアの患者さんの病室とも異なっていた。
その違和感が何処から来るのかは、Tさんのカルテを読むことで理解できた。
Tさんは幼い息子を失っていた。
そして伴侶は服役中という。
病状を苦にして無理心中を図った伴侶は助かり、まだ幼かった子どもだけが亡くなってしまったのだ。
Tさんの広い病室にある写真立て。
入学式に家族揃って写したものだった。
親子三人が笑顔で写っている、そんなどこの幸せな家庭にもあるだろう普通の家族の記念写真。
それがヒッソリと壁際に置かれていた。
Tさんからは一切、苦痛の訴えは聞かれなかった。夜中の見回りで訪室すると、物音も立てず目を見開いておられた。
暗闇で閉じられてるとばかり思っている人の目がぽっかりと開いていてドキリとした。
驚きを悟られぬよう尋ねる。
「眠れませんか?」
「えぇ眠れませんね」
そんな淡々としたやり取りが病室に響く。
「薬も飲んだのですけどね...」
眠れないというのにただ淡々と質問に答えるだけで「だから辛い」などの言葉は続かなかった。
多くの患者さんから“眠れないコール”があって眠剤を求められ、また不眠の愚痴を聞くのがセットだった。
こんな風に夜間巡回時に静かに起きたままでいる方にどう接して良いのか、途方に暮れた。
全くこちらからは何も受け取らず、何の吐露もないTさんは、もう半分コチラの世界にはいない様なそんな気がした。
どう接するべきか...病棟のベテランナースですら当惑していた。皆がTさんを遠巻きに、その日のケアを黙々と提供しているだけだったと思う。
排泄物の処置も医療者に任せた状態だった。
全く感情を表さず、受け入れてありのままの状態で身を委ねられていた。
羞恥心という感情すらTさんの中で、なんのポジションも与えられていなかった。
ただ排泄が上手くいかないだけ。
「上手くいかないね...」
そこには悲しさも煩わしさも卑下もなく、
「ただ少し面倒だよね...どうしようか、何度もすみません。」
排泄関係に慣れている我々も、それに淡々と対応した。
孤独に浮かぶような病室に入るのはいつも勇気が必要だった。
家族の話は多くの患者さんの慰めになるが、Tさんにはできない。
訴えもないので、数点のやることは毎回直ぐに終わり、気付くといたたまれない空気に取り囲まれていた。ナースとしてここに居る意味が見出せないままおずおずと退室するのだった。
20代の若造の私には限界だった。
ただ側にいて、孤独に洗われる様な時間を共に過ごすことは出来なかった。
なぜ出来なかったのか...
その問いをずっと持って来た。
希望のカケラも無いような空間にいることは恐怖に近かった。そこに何もせずにいることが耐えられなかった。
通常ではたとえ死が迫っている状態でも、看護師としてやる事はちゃんとあるのだ。
敢えて言うなら、治すことが専門の医師よりも「安楽」を提供する看護師の方が、終末期ではやれることが沢山ある。
求められ、僅かでも「やった甲斐があった」と思える反応が返ってくる。
患者さんから、ご家族から、それを感じることができるのだ。
しかしTさんにはそれが無かった。
辛いも苦しいも悲しいも憎いも、なにも一言も仰られなかった。
粛々と己の運命を受け入れていたTさんは、他者との交流や感情的な共有は全く求められていなかった。薄いけれど頑強な膜に我々は隔てられている様だった。
その空間にナースとして居て良いものなのか、それすらも不明だった。
もしかしたら一刻も早く独りに戻りたいと思われて居るのでは?
看護師の“何か患者さんの為にしなければ”という職業的使命感など迷惑なのでないか?
そう自問せずにはおれなかった。
✳︎
それから長い時間が経った。
あの時なにが出来たのか...自分自身が人生の荒波に揉まれながら考えてきた。
なんの希望もなく、おそらく絶望の時間を経て亡くなるのではない、もっと人間らしい最期があったのでは?
と、考えてしまう。
迷惑かも知れないと解りつつ、ただ側に居て手を握る時間をもっと持てばよかった。
孤独を変えることが出来なくても、一時でもTさんの孤独に一緒に浸かる人間がいたら。
たとえそれが一瞬でも何かが違ったのだろうか。
そんな永久に答えが見つからない様な問いを持ち続けて居る。
絶望を甘んじて受け、孤独こそが己れの代償だとTさんが考えておられたのなら、それを和らげることなど望まれていなかったであろうし、覚悟を妨げることになったかも知れない。
唯一出来たのは「邪魔をしない」ということなら多分そういう中でTさんは逝けたのだと思う。
「天職」としてのエピソードは、私の長くない看護師経験の中にも幾つか探すことが出来るだろう。
でも本当にそうなのだろうか?
Tさんのことを想うたびに自問する。
だんだん自分の年齢が近づく様になって、人生経験が増えるにつれ深まることは有るが、その様な苛烈な人生を私は知らない。
人生の本当のところは当人にしか解り得ないものだと思う。
浅い情報のみで、他人があれこれと思いを巡らせるのは浅薄でしか無いだろう。それを解りつつ、一つだけ言える事があるとしたら。
どんなに居心地が悪かろうが、溺れるほどの暗く冷たい空間から逃げないこと。
そこにその人が横たわっている限り、逃げ腰で接するのではなく、力の限り踏ん張って立っていること。
ちゃんと向き合うこと。
それは患者さんのためにではなく、おそらく自分のためにそうするべきなのだ。
Tさんに、それをし切れなかった事が申し訳なくて堪らなくなる。腫れ物に触れるように接してしまった。
どんなに辛く哀しかったか。
孤独で寒かったかろうか。
苦しかったろうか。
もし、もしまたTさんのような方に出逢ったら、私はTさんにして差し上げられなかった事をやりたい。
そしたら「看護師が私の天職」と言えるだろうか。
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