徒然4.旅についての解釈

旅について、まだまだ勉強不足である。
私なりの、ただしこれまで数多く淘汰されてきたであろうありふれた解釈を披露するのみである?

私が考える旅の目的とは
「きっかけとの出会い」である。
特異点を目指して、人々は旅をする。
往々にしてそれは予期できないところで出会う。
旅とは一つの答えを求めて、答えの海へ飛び込むようなものである。
一方、答えのありかがわかる時点で、それは旅ではない。

食料や水を求めるところから旅は始まる。
住むのに充分なところがあれば旅を終える。
これは生きるのに必要なものを得たからである。

交通が発達する以前では、新たな知識を求めて多くの人が旅をした。
旅を終えたものは、世界に対して一石を投じていくのである。
これは彼らがこの世の在り方や自分の在り方に対して、何かを見つけ出したからである。

交通が発達して以降、特に高度な情報化社会となって以降、移動による旅は減少した。
一方で旅行が増加した。

旅行のはじまりは感動や畏敬の共有だったのかも知れない。
感動や畏敬には自信のなにかを変える力がある。何が変わるかわからない、変わるかどうかもわからない、それに期待して歩みを進めることは旅である。
ただし、現代では承認欲求の権化としての面が大きくなった。
だれかに誇張し掲示されたそれを体験した、ということが、社会的名誉をもたらしたのである。
それは予期していたことを起こしている、という点において旅ではない。
旅の真似事である。

もちろん、その過程で予期せぬ出会いがあったかも知れない。
それより、自身に内省をもたらしたのであれば、その瞬間は旅をしていることとなる。
さらに言えば、旅行と言われる中でも、
目的としていたものから思いもよらぬ影響を受けることもあるだろう。
畏敬の念(Awe)を感じ、世界の大きさ、自然の雄大さ、味のおいしさ、見た目の美しさ、自身の小ささなど、何かに衝撃を受け、自分の何かが変化したと自覚したのであれば、これは旅である。

旅行の中にも旅の可能性はある。
大切なのは目的意識である。

さて、多くの答えのありかが示されている現代そして未来において、旅することはできるのだろうか。
これについて私はこう考える。

全知全能となるまで、旅は続く。

人間は神にはなり得ない。
したがって人類が人類である限り旅は続くのである。

ではどのように旅は行われていくのか。

もちろん、生きていく道を見出すために移動することは依然としてとても有効である。
本場の味を知るための旅
現地の人の生活を知るための旅
いろいろな旅のあり方は健在である。

しかし今、私が推し進めているのは
内省の旅である。

内省を通して自身のことを知る。自分の体について知る。思想について知る。大切にしているものを知る。人との違い、自分を自分たらしめているものを知る。
その先には人類の本質や目指すべき未来についての考えへと続いていくのであろう。

高度な情報化により、外の世界については嫌でも情報が入ってくる一方で、
自分自身や、人類の在り方について旅する時間は明らかに減少している。

逆を言えば、外部からの情報を断ち切り、内省に時間を費やし、自分の大切にしているものに気づいた人にこそ大きな価値が宿るのである。

内省の旅には、自分と人類を知るきっかけが潜んでいる。

内省の旅はどこでも行える。
合理化されゆく社会と、人間の本質との間にギャップを感じるところからでも旅は始まる。

また別に言及するが、
宿というものが旅に付属するものであるならば、
宿とは旅の役に立つものであり、
旅の目的地となる宿が究極の宿と言える。

周辺の歴史や文化を伝えるだけでなく、内省を促す宿こそ、今後求められていく姿であって欲しいと願っている。

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