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字が書けないという嘘のような本当の話

先日、久方ぶりに書類を書こうとしたら、ちゃんと書けなかった。
漢字を書こうとしてわからなかったとかいうレベルじゃなく、息が上がって、手が震え、まともに綴れなかった。

自分は字を書くのが苦手だが、まさかここまでとは思わなかった。
と同時に「文字を書くこと」が自分の中で、一種のトラウマ化していることにようやく、気付いた。

字が汚かった自分は小さい頃、事あるたびに先生・親から怒られていた。

「字には心が現れる。ちゃんと書け」

自分の字が汚い。
人に見せると心の汚さがばれる。
そう思い、文字を書くことが嫌いになっていったと記憶している。

ただ、今だからこそ言える。
当時、自分は自分なりに「ちゃんと」書いていた。
上手くないなりに頑張って書いていた。
それを認められないからこそ、より嫌いになったのだろう。

思えば以前から自分は「人に見せる書類を書く」時、手が震えていた。
学生時代の作文・書道に始まり、受験票や履歴書。
前職の時は帳票や申請書など。

予備が無いので間違えられないから、字が汚いと不利になるから緊張しているのだと思い込んでいたが、違った。
幼い頃の記憶がそうさせていたのだ。

先日書いたのは役所に提出する、それなりに文字数の多い点以外は何てことない書類だった。
ミスった場合の予備も1枚ある。ただ、人に見せる書類と意識した瞬間、手の震えが止まらなくなった。

久しぶりの感覚にハッと気づき、メモ帳を出してみると普通に書ける。
チラシの裏にも書ける。ただ書類と意識するとダメだった。

「字には心が現れる。ちゃんと書け」

ちゃんとした書類に向き合う際に、心の奥で聞こえてくる言葉。
これが私の手を震えさせていたようだ。

もちろん先生や親もそこまで深刻に言ったのではないとは思う。
ただ相手を100%傷つけない保証付きの言葉は存在しない。
何気ない日々の言葉が、人の足枷となることはあり得るのだと身をもって感じた。

幸い文字を書く機会は少なくなったが、自分の発した文字は予想外のところまで拡散される可能性を持つものになった。
言葉を発する以上、誰も傷つけないことはできないかもしれないが、自分の言葉で誰かが傷ついているかもしれないという意識は常に心の片隅においておきたい。

ミミズみたいな自分の字を見て改めてそう思った。

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