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『蓮水レイ』について

書きたいことはあるはずなのに上手く書けない日々が続いて、"書く"という行為の感覚を忘れてしまうのでは無いかと恐怖に駆られている。
書きたいことが書けないのなら書きたくないことでも書こうか、と思い立ったが書きたくないことはやっぱり書きたくないし、そもそも書きたくないことが思いつかない。
それならどうでもいいことを書こう、という結論に至りこの文章を書いている。
肩の力を抜いて気楽に綴っていこうと思う。
誰も興味は無いだろうが暇潰しがてら御付き合い頂けると嬉しい。

「蓮水レイ」という名前の由来について書こうと思う。
お察しかと思うが本名ではなく所謂ペンネームだ。

先に決めたのは名前の「レイ」だった。
これは僕の本名「麗(うらら)」の音読みだ。

『綺麗の"レイ"』
名前の漢字を説明する時に用いる科白がどうも、重いというか身に余るというか、口にする時にいつも躊躇ってしまう。
僕は綺麗ではないから。
寧ろその言葉とは余りに掛け離れている自覚がある。
容姿も、性格も。
訓読みでは「麗らか」と読むが、これもまた、辞書を引いてみると

1 空が晴れて、日が柔らかくのどかに照っているさま
2 声などが晴れ晴れとして楽しそうなさま
3心にわだかまりがなく、おっとりしているさま

などと出てきて自分でも笑ってしまいたくなった。
あまりに遠い。
というか、もはや正反対。
根暗だし、心にわだかまりがない日はまずない。
些細なことが気になって常に悶々としているような僕はそういう奴だ。

平仮名表記の文字の雰囲気や、声に出した時の響きは柔らかくて嫌いじゃないけれど、「ら」が2度続くせいでちょっと言い難い。

「『春うらら』っていうでしょー😊」
なんて、呑気な調子で母は語っていたが、そもそも僕は6月生まれでその時期は梅雨だし、無理にでも春夏秋冬に分けなければならないとしても春よりは夏、初夏だろ、と常々心の中で悪態をついていた。
嫌いじゃないけど好きかと言われれば素直に首を縦に触れない自分の名前。
それならいっそ昇華のような形でペンネームにしてしまおうと思い、訓読みの名前を音読みにして片仮名表記にした。
中性的だし僕が目指すイメージ、理想像にはしっくり来ていて我ながら気に入っている。

苗字の「蓮水」はなんとなく水を連想させるものがいいと思いいくつか挙げた候補の中のひとつだった。
語感を大事にしたくて、読み難いのもあまり好きじゃなかったから、「身の回りにはあまりいないけど、すんなり読めるし普通にいそう」な苗字にしようとまずは決めた。
とあるサイトの情報で信憑性は定かではないが実際に「蓮水」という苗字の方が全国に30人ほどいるらしい。
「蓮」という漢字について、『蓮は泥より出でて泥に染まらず』ということわざがある。
蓮は泥の中で育ちながら綺麗な花を咲かせることから、汚れた環境にあっても、それに染まらず清らかでいること、という意味だ。

『蓮水レイ』は僕にとっての理想像だ。憧れであり憧憬だ。たくさんの"こうありたい"が詰め込まれた存在で、ある人の言葉を借りるなら「存在自体が作品」というやつだ。
僕は綺麗な存在ではない。
先に述べたように、ただの人間であり、誰かを憎むこともあるし、嘘を吐くこともあるし、常に世界を呪っているようなそんな醜い存在だ。
それでも、せめて生み出す言葉は美しくありたいと思った。ただの僕の時は相応しくなかった名前を、別の読みで名乗った時にはその名に恥じない気高く、美しい存在でありたかった。
泥の中で美しい花を咲かせる蓮のように、可憐でありたかった。
現実のただの僕には成し得なかったことを『蓮水レイ』に託した、と言ったところだろうか。

だから、『蓮水レイ』は僕であって僕ではない。
汚らわしいただの人間である現実のただの僕と同じであってはならないのだ。

『蓮水レイ』の由来について、こんな感じである。
どうせ誰も見てないだろうし、と肩の力を抜いて書けたからか指が滑らかに動いた。

夜も更けてきたがいつも通り眠れそうにない。
ゆっくり本でも読みながら過ごすことにする。

良い夜を☪︎.°

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