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500円玉より大きなマッチのCDにフォーカスすると1982年の日本車が見える?

(文中に登場する(FR)コロナは、その昔、中型タクシーとして街に溢れたTT140系コロナを指しており、現存するモデルは絶滅したも同然のコロナです)

自動車の対米輸出に対する米国からの圧力は強まるばかり。総量規制で台数を押さえたり、小型トラックに関税をかけられたりと当時の日本車とは政府やメーカーからは煙たがられる存在でした。そこにくさびを打ち込んだのがホンダ・アコードでした。全米の中ほど、オハイオ州に有った二輪工場の隣に四輪車組み立て工場を設立しアメリカ産のクルマとしてアコードを出荷したのです。当初はエンジンを始め日本からの輸出部品も多くを占めましたが、やがて現地調達率を高めました。80年代初頭の円ドルレートはまだまだ200円を軽く上回る水準でしたが、円高が進んだ80年代後半には、北米の方が原価が安くなる逆転現象も出現し、アメリカホンダ・オリジナルのアコード・クーペやアコード・ワゴンが対日輸出される、(帰国子女)逆輸入現象が起きています。

一方、ホンダはFFでありながら前輪サスペンションに走行性能の高いダブルウィッシュボーン式を取り入れた二代目プレリュードを発売。ラベルのクラシック曲・ボレロをBGMに雨滴を一本アームの大きなワイパーブレードが跳ね飛ばしながら優雅に進むTVCMはクラシック・ブームの火付け役と目されています。

1982年はトヨタ自販とトヨタ自工という双頭体制が一本化され、元の一社体制に戻ったことも特筆されます。コロナ、カリーナはこの年、後輪駆動としては最後の世代にモデルチェンジしました。この世代では先行したセリカとプラットフォームを共有し、フロントにストラット、リアに5リンクのシンプルな構成はそのまま。デザインを時流に合わせたシャープなラインでまとめたのもセリカと同様。実はコロナ2ドアハードトップの骨格やフロント・ドアはセリカとも共通でコロナ、カリーナ、セリカの姻戚関係が一層濃く反映されていました。この世代のコロナ4ドアセダンLPG仕様は中型タクシーの代表的車種としてもポピュラーな存在でしたが、後席を拡大して2000年代まで生産が続けられ、コロナのフィナーレを飾った存在でした。

FF専用車としてデビューしていたコルサ・ターセルは第二世代に移行しても基本メカニズムは継承。カローラⅡという兄弟車も誕生したほかスプリンター・カリブと言う4輪駆動ワゴンもこの一族、つまりトヨペット店(コルサ)カローラ店(カローラⅡ)ターセル(ビスタ店)カリブ(オート店)と販売系列別にうまく作り分けられ、車種間の隙間を補完したのでした。スプリンター・カリブはその縦置き配置のエンジン・レイアウトを活用してプロペラシャフトを後輪迄伸ばしてパートタイム四駆としたもので、レオーネワゴンに続く注目のRVとして、四駆ブームを加速させます。

FFファミリアで好調の波に乗ったマツダは防府工場を新設。ここにコロナやブルーバード等より一足早く前輪駆動化した新しいカペラの生産ラインを設けます。新聞や雑誌の紙面をびっしりと細かい活字で埋めた広告にはマグナムと銘打たれた新規のエンジンの魅力や優れた前輪駆動用のサスペンションの特徴が詳細に記載されていたものです。永遠のイケメン=アラン・ドロンがカタログ表紙やCMを飾ったのも話題に。

新規の販売系列日本フォード向けに双子車テルスターが設けられ、専売車種として5ドアハッチバックも加えられましたが、国内ではまだ5ドア人気が定着する前。欧州ではマツダ626として絶大な人気を定着させるのですが・・・

三菱はランサーの上位に位置するFFのコルディアとスペシャルティーカーのコルディアを加え、前輪駆動化を鮮明にします。が、他方で後輪駆動スポーツカーのスタリオンもデビューさせます。GTO以来の本格的なスポーツモデルでハリウッド映画ではキャノンボールを争う日本代表のクルマとして活躍します。

コロナもブルもカペラもギャランも小型タクシー用車として、地方都市では当たり前に見かける存在。フローリアンディーゼルもその一台でしたが、十年以上にわたるモデルライフもいよいよ刷新されます。とはいえボディはGM資本下のオペルがベース。日本版にアレンジされアスカと言う名前でタクシー市場にも多くが迎え入れられます。

日産からはオイルショックも見据えて開発された新規のリッターカー、マーチがデビューします。スタイリングはフィアットUNOにも酷似し、同じくジウジアーロが手掛けたことは明白でした。のちにはターボを搭載し、たのきんトリオで人気絶頂だった近藤真彦をCMキャラクターに据えました。車好きが高じた彼は事務所から運転の自粛を求められた代りにサーキットでの運転だけは免罪符を得ており、ワンメイクレースやフレッシュマンレースなどで、メキメキと頭角を現すことになります。

70年にリッターカーから出発したチェリーを引き継ぐパルサー、ラングレーが最初のモデルチェンジを迎えます。前年のサニーと多くの部品を共有。ブルーバードの日産店向けにはバイオレットの後継となるリベルタ・ビラとして大衆車クラスの需要に応えます。

実はこのパルサーには海外にも異母兄弟が存在します。あのアルファ・ロメオが日産の協力を仰ぎ、自前のエンジンを積んでアルナと名付けたパルサーそのものだったのです。が、デザインの本場イタリアでは見向きもされず、不人気車ランキングで上位の常連になってしまいました。
このシリーズからは2ドア・クーペに特化したスポーツモデル「EXA」も生まれました。この当時の前輪駆動はスポーツドライブには向かないと考えられており、ミドシップで後輪を駆動したり、旧いプロペラシャフト付きの足回りを使いまわしたり…そうした模索の中で前輪駆動ながらスポーティな雰囲気が味わえるミドシップ風なスタイルを持ったクーペスタイルで、リトラクタブル式のヘッドランプを持つオシャレなアイテムとして、新しい路線開拓に挑んでいました。

日産からはもう一つ興味深いモデル=プレーリーがデビューしています。最大の注目ポイントは大きな左右のスライド・ドアで前後のドアを開け放つとそこにはセンターピラーのない巨大な開口部が広がるという、前代未聞のレイアウトでした。しかも、乗用車よりもやや背の高いトールワゴンスタイルをいち早く採用した、今日でいうミニバンの始祖みたいな存在で、登場が10年も20年も早すぎた天才、とでも呼ぶべきでしょうか?もっと評価されてもよかった企画でしたがちょっと時期尚早でした。背高ノッポのワゴンRが受入れられるようになるのはさらに11年、オデッセイの大ヒットまでには12年を要したのでした・・・・・

西ドイツではVWグループのAudiが歴史的な名車を発表します。100と称される上級セダンは空力を何よりも追求したエアロボディー.これが以降の世界のデザインに大きな影響を与えます。空気抵抗を減らす事は高速での燃費を改善して省資源に寄与するほか、その美しさも格別でした。

70年代に世界を襲った二度のオイルショックはメルセデス・ベンツにも大きな方針変換を強いていました。巨費を投じた小型車で日本の5ナンバー枠にさえ収まる190Eがリリースされます。省エネを第一義に生まれ、子ベンツとも揶揄された最小クラスのベンツは当時日本法人を設立して波に乗り始めていたBMWの3シリーズと非常に近いスペックを持ち、たちまち日本市場でも注目を浴びる存在となります。(日本導入は85年)

フランスでは従来のシトロエンとはがらりとイメージチェンジした、上から2番目のモデルBXが発表されます。自慢の油圧制御で車高を上下できるニューマチック・サスペンションに、角ばったシャープなデザインの超モダンなボディを載せて、日本でも5ナンバー枠に収まるサイズで、オシャレな女子らに人気車種として名を連ねることになります。1989年にユーノスロードスターを扱うユーノス店でも扱い車種としてカタログに乗り、長く日本で愛されるフランス車となっています。

ソニーがフィリップスと共同開発した、500円玉硬貨よりもかなり大きな直径の音楽CDが針飛びも擦り切れもしない画期的なレコード音源として商品化されました。デジタル信号に置き換えた音楽を歪のない高音質で再生出来る夢のような技術。これがレコード盤を駆逐してしまうまでには、さほど時間を要しませんでした。この年のカーオーディオはまだカセットデッキがデファクトでしたが

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