見出し画像

伝えない勇気,ボツにする覚悟 (今再び見てほしいローマの休日)

オードリーヘップバーンの生涯を振り返る映画が公開中です。1953年に白黒映画として公開され、テレビでも度々再放送される名画=ローマの休日の結末を知っていますか?(ネタバレです。ご注意を)

グレゴリー・ペック演じるアメリカ通信社の記者は結局、大スキャンダルともなりかねない王女(=オードリー・ヘプバーン)の秘密の休日=大スクープ・ネタを自らの判断でボツにしてしまいます。

とある国の王女の内緒のオフ•ショット。特ダネ間違いなしのトピックを手にしているというのに、それを公開することがたった一人の(愛してしまった)女性の命運を変えてしまうかもしれないとしたら・・・・もしもいま彼が週○文春に記事を売り渡すとしたらどうでしょう?文○は部数を伸ばして彼の手元に高額のギャラが...

今のようにSNS全盛の時代だったら、ローマの街中でベスパのスクーターを乗り回し、有名なあの階段でジェラートを頬張る彼女の写メが世界中に広まって、王女の秘密は暴かれてしまい、東急電車の中でデートを盗撮された高貴なお方のようなPTSDの危機さえも・・・・・・でもあの時代、映画の中で結局王女のプライバシーは、ひとりの記者の決断によって守られるのです。

今から60年以上も前にメディアの本質を問うようなストーリーが世界に公開されて大きな共感を呼んだのは言うまでもありません。
と、同時に放送や新聞などマス・メディアと現代のネットワーク通信の大きな違いがここにありました。

メディアには伝えることの権利と、それを避けることの決断をも迫られる=責任と言うべきものがあります。知り得た情報は何から何まで公表しても良い、とは限りません。ことプライバシーがらみの個人情報ともなれば、肖像権のみならず、人権侵害にすら繋がりかねないトラブルの元です。また誘拐事件発生と共に発効する報道協定も万が一犯人を追い詰める結果になってはいけない、という人命尊重の見地から守られているルールです。よく勘違いされる報道の自由と言う文句は政権や圧政者の意思によって判断を誤る事のないよう、表現者の権利を守るために使われるフレーズであって、芸能レポーターが豪邸の裏口で取材相手に対して口にする言葉ではありません。

新聞事業は大きな印刷所に加えて、広く張り巡らせた配達・販売網といった巨額な投資を伴って初めて可能になるものですし、放送というメディアはキャリア(放送電波)の帯域に限りがあるため、限られた数の事業者にのみ免許が与えられる許認可事業です。
その影響力は時として政権をも動かしかねず、選挙の結果や世論の形成にも大きな影響力を持っています。
そのメディアの使い方をもし、間違えていたら・・・・・

他方で、ツイッターや各種SNSに寄せられるコメントは基本的に送信者がクリックした段階で自動的に公衆の面前に並んでしまいます。校正が赤ペンを入れることもデスクがノーを宣告することもなしに‥‥

それが公序良俗に反したり、明らかに犯罪にかかわるような内容、フェイクニュースの類であればあとから削除されることもないとは言えませんが、表示させるかどうかの判断基準はあくまでも投稿した本人ひとりの基準に委ねられます。プラットフォームと呼ばれる運営者は、もしそれが不適切なものであれば削除の判断をしたり、場合によっては投稿者個人の特定につながる個人情報の提供を当局から求められ、応じなければならなくなるのです。

新聞、放送メディアのニュース、情報を信頼できるものとして受け取れるのは、そのバックにデスクや編集者、編成の社員など多くの目が光っていて、常に適切であるか無いか?偏向した情報ではないかを吟味しながら表現しているからで、な放送中のエキセントリックな個人的発言は時として謝罪の理由にもなりかねません。

マスコミ、報道を生業とする企業とプラットフォームとしての発言の場を提供する組織の根本的な違いがお判りでしょうか?でも、これからはSNSといえども個々の発言に目を光らせ、場合によっては削除も辞さないのが当たり前、な時代になっていくことでしょう。

ネットの無い時代だったから成立した物語も現代に置き換えてリメイクするのは難しい相談のようです。やはりオリジナル版を観て楽しんだ方が・・・・

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?