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日産の逆襲・巨鯨敗北,ホンダの心変わり(1971)

モーレツからビューティフルへ、グループサウンズ・ブームも一服し深夜放送が若者文化の牽引役として隆盛を極めます。小柳ルミ子に続き、沖縄の美少女南沙織がデビューして日本も本格的な女性アイドル時代を迎えます。

前年の1970年、トヨタはカローラ、コロナといった主力商品を刷新し、セリカ、カリーナという新商品を投入、日産も大衆車サニーの他新大衆車チェリーを送り出しました。が主力のブルーバードやセドリックはまだこれから。トヨタに対する反撃の狼煙が上がります。

日産の看板車種ともいえるブルーバード510型がブルーバードUとサブネームを与えられ、一回り大きく大胆なハードトップボディを加えて来たのには、ライバルのコロナマークⅡのヒットも大きく影響したのでしょうか?
比較的実直なスタイルの旧型510に比べると、曲面やプレスラインを多用してアメリカナイズされたデザインは旧来の日産のイメージを覆す大変身でした。マークⅡがそうだったように、ブルーバードの上級車種のような扱いとされ、510も暫く併売されました。が、クーペやSSSはブルUに移行しており、73年登場の710型バイオレット登場までのつなぎ役でしかありませんでした。

乗用車ばかりではありません。北米ではダッツンと呼ばれ、愛用されていた安価で小型のピックアップトラック、520系が大胆なデザインを纏った小型トラックとして生まれ変わり、620モデルに移行します。それまでのピックアップは同時代の乗用車の運転席から前を共有し、コストダウンや開発のスピードアップを図っていました。ですが620はセダンとは共有しない独自デザインを採用し、オシャレに大変身したのです。

北米では510セダン(ブルーバード)と同様売れ筋だったのが、アメリカビッグ3のセールスも脅かす存在として頭角を現すようになり、輸入小型トラックに高い関税をかけられる要因の一つとなったことも見逃せません。この人気のトラックに前輪も駆動できるキットが発売され、荒れ地でも雪道でもジープ並みの走破性能を発揮できるようになると、メーカーもこうした用途に着目するようになっていきます。

北米で同じく大ヒットしていたZカー(フェアレディZ)は国内仕様より強力な2400cc版が標準。これを国内にも導入して、さらに空気抵抗の少ないロングノーズを加えたZ-Gが追加されました。日本ではまだ3ナンバーに飛躍的な高い税率がかけられており、販売価格も150万円と、平均的なセドリックの150%もする高額車でした。

デザイン先行の販売戦略が顕著だったのは当時のスバル、富士重工も同様。FF大衆車スバル1000が発売から5年を経ており、実質的な後継車の初代レオーネが投入されます。その最初のラインナップは2ドアクーペのみ。最初はセリカのようにスバルが送り出したスペシャルティーカーのような印象を与えたものでした。のちに4ドアやエステートバン、ハードトップまでもが追加され、これがスバルの主力車であると分かります。4WDワゴンを追加して富士重工の販売戦略に新しい活路を開いたクルマとしても重要な一台です。

クーペスタイルから投入されたもう一台がギャランFTOで、GTOと間をおかずに弟分の登場か?と思いきやこれはやがてデビューする大衆車ランサーのパイロットモデル的な役割を担っていました。エンジンはギャランシリーズと異なりランサーの主力になるOHV機構。この様に2ドアのクーペを先行投入するのはトヨタスターレットやVWシロッコにも見られた手法で、とりわけ台数の多いゴルフのデビューを前にしたシロッコでは基本メカニズムの確認や修正役も果たしていました。

大胆な変身を遂げたのはトヨタのクラウンも同様。スピンドル・シェイプと題された個性的なデザインは、あまりに斬新過ぎて市場の評価は今一つ。とりわけ法人需要も多くを占めるだけに、より、コンサバティブな新型セドリックに顧客を奪われ、販売合戦でも後塵を浴びる始末。二年後には大幅なデザインの手直しを施します。が、結局次期モデルの投入を早めるほかは無かったようです。バンパーレスのようにも見えるフロントグリルは確かにセリカのようなスタイリッシュ路線を狙ったものでしたが、冷却力不足が露呈し、真夏の都内ではボンネットを半開きにして走り回るクジラ・クラウンのS型を見かけたものでした。

クラウンを追い落とした日産の新セドリックはプリンス系のグロリアと兄弟車になり、それまで独自のボディを持っていたグロリアは日産の販売戦略に取り込まれ、実質消滅することになります。が、2ドアハードトップに加え日本で最初の4ドアハードトップを加えたセド。グロ連合の人気は高く、75年のモデルチェンジでもイメージを大きく変えることがありませんでした。

この時点でセドリック・グロリアは大衆車によくみられるモノコックボディを採用済み。クラウンは旧態依然としたフレームの上にボディを載せる構造を守り続けています。後輪もセド・グロは独立懸架を積極採用するなどトヨタをリードしていました。

軽乗用のN360大ヒットから4年、次期モデルが気になるタイミングに登場したホンダのニューフェイスはそれまでとは大きく主旨替えした大人しい4ドアの(2ボックス)セダンでした。

ライフというネーミングをもらったのはヴァモス・ホンダに次ぐホンダには珍しいネーミング。それ以上にTOWNと名乗るシリーズが用意され、ホンダのイメージをことごとく覆してしまいます。最高出力よりも低速域のトルクを重視した街乗り仕様。

驚くのはライフの成り立ちで、あれほど空冷を信奉していた本田宗一郎社長の意に反する水冷エンジン、ミッションとエンジンを直列配置にしたジアコーザ式と呼ばれる、今日のデファクトを採用しエンジンにはチェーンより静かなコッグドベルトをバルブの駆動に採用するという思い切った新機軸が満載でした。キャロルの先例はあるものの軽2ボックスとしては最初に4ドアを採用したのもファミリー志向の一端か?ことごとくN3当時とはイメージの違いが目立つ新型車でした。

こんな思い切った戦略をとったのも本田社長に反旗を翻してまで新型開発を断行した若い世代の頑張りがあってこそ。本田社長は後に若いもんの考えには勝てぬ、都ばかり社長の座から退くことを決意します。

このライフはホンダZの心臓部にも移植され、Zも水冷化。スタイルこそ同じだったものの実質的なモデルチェンジに近い内容でした。そして、このライフの敷いたレールが翌年には5ナンバーベストセラーとなるシビックへと繋がっていたのです。

さて、軽乗用を巡るバトルは前年のホンダZに続くオシャレなクーペモデルが相次ぎ投入されています。フロンテからはイタリアンデザインを纏った本格的な2シーター(のちに4人乗りも)フロンテ・クーペが登場。ホンダZと双璧をなします。三菱ミニカにもクーペバージョンのスキッパーが追加され前年のギャランGTOにあやかったファストバックのスポーティーなボディでアピールしました。ガラスハッチの後端には後方視界を助ける小さな窓も設けられ、現在のプリウスにも応用されています。そしてダイハツはMAXシリーズにハードトップを追加、軽スペシャリティ戦争は頂点に達した感がありました。

マツダのロータリー路線はこの年も拡充、実質的なファミリアの後継車にグランドファミリア、同じボディのロータリー専用車サバンナがデビューします。このサバンナにカペラ用の大型・12Aエンジンを積んだサバンナGTが最強のライバルに一矢を報いることになるわけですが・・・・・・・

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