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えっホンダ50原付がなくなる?前に買わなきゃな(ミニバイク名鑑=日本原付型録)

中綴じの安価なバイク月刊誌モトチャンプが860¥もする!
今号は創刊555号の記念特大号なのだ。その目玉はミニバイク名鑑!!
私が毎月の給与所得を手に入れるようになった1980年代はささしくバイク販売の黄金時代で、数日ごとに新型車が発表される様はHY戦争とも揶揄されたほど。女性ライダーが原付免許からステップアップして、VT250がバカ売れした頃でもある。
そんな原付時代を厚い別冊にまとめてあるのだから、限定とか増量に弱い私はもう買わない理由を見つけられない。

巻頭にはダックス、シャリィなど定番モデルに加えてホンダMBX50の姿も!
これがミッション付きバイク購入の第1号だった。その日は嬉しくって近所のワインディングロードを何時間もギアをアップ、ダウンさせながらとことこ走り回ってしまいにはバックミラーに30kmでピッタリ追走するパトカーの姿を見出したことも!
大丈夫!まだノーヘルでも合法的に第1種原付を運転できた時代ですから・・・・

このお気に入りのバイクで初めての北海道ツーリングへ!国道12号の長〜い直線道路を経て憧れの富良野を訪れ、ラベンダーをバックに記念写真に収めたり、日高の牧場に立ち寄って車線の広い北海道の道路を思いっきり満喫したり・・・・原付30kmクルーズでも不足は全く感じなかった。のはバランサーシャフト付きの静かな水冷エンジンのおかげだったかもしれない。

ホンダの2ストローク車は、実はこれが2台目
最初はゼンマイを巻いてエンジンを始動する、ラッタッタことロードパルNC50だった。原付試験に合格後、スーパーカブC50で簡単な合格後講習を受けて帰宅すると父から贈られた真新しい黄緑のロードパルが玄関先で待ち受けていた。ミッションはなく1段無変速。遠心クラッチの断続でゼロから40kmまでをカバーする簡単な構造でエンジン、チェーンケース、ファイナル・ドライブまで一体成形のダイカスト部品の片持ちサスという進歩的な?設計だった。実はリアタイヤの交換はナット1個の脱着で済み、前輪よりも容易だった程だ。

これがのちのち日本を席巻する原付スクーターたちの基本構成となることを、この当時の少年はまだ知らない。
後年ヤマハが追随したパッソルではアンダーボーン・フレームを使ったステップスルー・レイアウトで、女性がスカート姿で両足を開かずに揃えて乗車できることをアピールした。戦争勃発の瞬間だった。女性が自転車がわりに原付免許を取得、購入し販売台数が飛躍的に増えたのだった。
ホンダがパッソルの数年前に同じ需要を目論みダックスホンダのフレームを低床化したシャリィホンダはフレーム高さが40cmあり、ステップスルーには程遠かったのだ。
そのシャリィのベースになったのが長寿モデルのダックスホンダ。初期には小径タイヤに折りたたみ可能なハンドルで乗用車にも積載可能と謳われたものの、この重量物をトランクまで上げ下ろしするには相当の腕力を要した筈。コンセプトは次の時代ホンダ・シティと同時開発のモトコンポに引き継がれるが・・・・
そのダックスが生まれたのは遊園地の連絡用に用意されたモンキー50が土台だった。燃料タンクを別部品とせずに、プレスボディに内包させたことで、生産性も大きく向上した合理設計。このスタイルは125サイズとなって現在も受け継がれるのはご承知のとおり。

ワタシの黄緑色のロードパルは初年度から三浦半島を一周したり箱根プリンス・コテージ迄往復したり、望外の活躍を見せてくれた。が距離計のないメーターは速度を知らせるのみ。燃料はリザーブ・コックを捻るまで残量がわからなかった。

そんなボトムレンジからのスタートからほぼ10年、会社の駐車場の都合で二輪生活に舞い戻り入手したのがMBX50だった。他社の4ストローク車に対抗する上で2ストを敢えて選んだエンジンは水冷、バランサー・シャフト付ながら馬力規制後も7・2馬力を発生する。この頃にはハイパワーな原付の高性能ぶりが批判の矢面に立たされ、物理的な最高速が60kmに規制されることになったのだ。一方でフルカウルの装着も認可され、80エンジンを搭載したMBX80モデルにはBMWのそれにも似た立派なフルカウルが装備されていた。

80年代のバイク・マーケットは今からは想像もつかない盛況さ。女性ライダーの増加にも助けられ、250クラスにまで各社の直列4気筒マシンが勢揃いするなど百花繚乱ぶりは正月に買ったオートバイ誌の名鑑にも詳しい・・・・

その後はレーサー・レプリカブームを迎え、愛車も初めてのヤマハ車YSR50に。バランサーのない空冷50はその昔憧れだったカフェレーサースタイルのヤマハGR50に由来する、つまり人気モデルだったミニトレGT50のエジンでもあるのだった。昔バイク雑誌の連載企画でマメタンに乗った同い年の女性「イク」さんが日本中を走り回ったカフェレーサーのはしりだ。搭載したのは人気モデルだったミニトレ50のエンジンでもあるのだった。馬力はありそうで、振動も音もそれなり。ホンダの2ストが恋しくもなった時期でもあった。

50バイク遍歴はまだ続き、憧れだったMTX50の代わりにイタリア娘のアプリリア・ツアレグ50という輸入車に繋いでゆく。これも北海道を走り回った大物で、ロータックス製50・2ストロークのエンジンは軽やかに高回転まで回り、巨大なタンクとどこまでも休憩なしで走り続けたくなるほどの快音だった!

・・・・・2ストばかりを乗り継いできてしまったバイクライフに、突如4スト・エンジンが顔を出すことになったのは購入間もないEVバイクのリコール問題へのメーカー側の対応が理由だった。
3バルブのOHCエンジンはVベルト駆動の一般的なスクーター・レイアウト。走りは可もなく不可もない普遍的なものだけど、ヴェスパに倣ったそのスタイルは愛嬌があっていつまでも手放したくなくなる魅力的なもの。メッキ塗装されたヘッドランプ・ベゼルに映り込む建築中の高層ビルの姿も、見ていて飽きない光景だった・・・・リコール対策が済んで、返却となった日には本当に名残惜しい気持ちで一杯、買い取ってもいい位だった。

そして、ホンダのスーパー・カブがとうとうプレスボディを捨て去る時代が来て、
50に先駆けて発売されたカブ110/JA07のカブ主になったのだ。

慣らし運転は箱根を越えて静岡空港まで往復。鈴鹿の8対観戦にも繰り出し、同型車を買った同級生に逢いに下道オンリーで大阪豊中までも。さすがに1日では到達できず、泊まりがけのツーリングだったが、ペタンコに凹んだ安物のシートが恨めしかった。今もこの初代110は日常の足として日夜変わりなく活躍中。いつか関門トンネルを押して渡る日の実現を模索中だ。


ページを繰っていると次から次、思い出が蘇ってくる。購入した以外にも食指が動いたモデルがいくつもあり、スペックを眺めていると瑣末な悩み事など忘れてしまうようだ。原付以外にも400やリッターバイクの所有期があるものの、愛着の度合いではなぜか原付が何よりも勝る気がするのはなぜだろう?

そんな愛すべきニッポンの原付ですが、ホンダからは50エンジン搭載車が消滅するというニュースが!
もう、50原付の新顔にはお目にかかれないとなると、この名鑑も増補版の登場には期待がもてないのかもしれず、これが愛蔵版となるのかもしれません。大切にせねば・・・・

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