見出し画像

【ネタバレあり】「目 非常にはっきりとわからない」で感じたこと 感情編

千葉市美術館で行われている企画展「目 非常にはっきりとわからない」を観た。
退館して1時間、脳が熱くなってボヤボヤと、物事が曖昧になっている感覚がまだ続いている。内容をざっくり説明すると、展示場は1階、7階、8階。1階は受付で基本的な展示物は7階と8階。
エレベーターで受付から7階に上がると、工事中を思わせるビニールの囲い。そういえば受付も工事真っ最中だった。年末だし修繕修復等の作業が立て込んでしまっているのだろうと思っていた。
8階に上がってエレベーターのドアが開くと、7階と全く同じ光景。同じようにビニールで囲まれている。企画展のための準備段階みたいな空間。
マス目のある壁にマス目に描かれている文字のような絵、それを作成していたと思われる作業台、ペンキ、ビス、照明器具などの工具。
ほかの美術館から拝借してきたであろう作品、段ボールや荷物を乗せるためのカートなど、
とにかくまだ未完成な感じ。
文化祭の準備期間を想像して頂けると分かりやすいだろう。
時間の経過と共に、その内容は少しずつ変化していく。季節が移り変わるように少しずつ。
そのため多くの来館者は7階、8階を繰り返し往復し、その変化を楽しむ。

なるほどな、と思い僕も7階と8階をエレベーターで何度も往復したけれど単刀直入、分からなかった。
何を伝えたいのかが分からなかった。
少しずつ変化していくのは分かった、そこまで理解できた。
グループで来ている人たちが「ここが変わった!」と口に出しているなか、僕は「変わったからなんだ」と無味乾燥の感想。

そもそも、間違え探しが苦手なのだ。
そういう意味ではアウェイ戦でもある。
サイゼリヤにあるこどもメニューの間違え探しは絶対に10個全ての間違えを見つけられた試しがない。
大抵、6個〜8個見つけられた段階でミラノ風ドリアが届くか、飽きてしまいグーグル先生に答えを問うかどちらか。
しかし今回は違う。対価を払っている以上、分からなかったで終わらせたくはないという邪な気持ちをポッケに忍ばせ、気合を入れて間違えを探す。

2往復目もすると、間違いを見つけた。
が、間違いを見つけても比べる基準が分からなくない。
8階で変化に気付いても、それが7階と違うのか、1周目で見た8階と違うのか。基準をどこに合わせたら良いのかが分からない。
それでもひたすらに7階から8階、8階から7階を繰り返す。涼宮ハルヒのエンドレスエイトみたいなループ感だった。

そうすると、次第に自分がどこにいるのかが分からなくなってくる。
確認しようにもエレベーターの階を示すプレートが隠されていて、確認のしようがない。
おそらく現在は8階だろう。ならば7階に下がろうと思いエレベーターに乗り込もうとするれど、到着したエレベーターの行き先が上なのか下か分からない。行き先を示す案内役の電灯を見る限りは上。しかし7階8階をメインで使うエレベーターで、8階に到着して空っぽになったものが、上に向かうだろうか?
普通に考えたら行くこともあるけれど、この時は固定概念的にそんなことはないと思っていた。
不安になり、同時に乗ったカップルに上か下か尋ねると「私たちも分からない」も返ってきた。
エレベーターホールで他の人の会話に耳をそばたてても「今何階だろう」の言葉が多く交わされていた。そこに安心を感じた。みんな、分かってなかったのか。
自分だけが置いてけぼりにされていたような感覚だったものが泡のように弾ける。
分からないことは恥ずかしいこと、そういう概念が僕のなかには昔から染みついていて、分からなくても授業中も手を上げて質問が出来なかった。
それから何年、靴や指のサイズが分からなくて店員さんに恥ずかしい思いをして「改めて測ってみましょう」と言われたことが何度もある。恥ずかしい。けれどきっと次の時も分からない。

25歳にもなって、未だに自分らしさがどこにあるのか分からない。
自分らしさってなんだ?
優しいと言われてたこともあったけど、怒りっぽいと言われてた過去もある。
他の人に比べて違うところと言われれば、本を読んだりしていることくらいか。
だからといって読解力が身についているわけでもないし、美術館に行ったからといってお洒落に強いわけでもなければ、教養が深いわけでもない。
勇敢な男らしさがあるわけでも、ピンクを上手に着こなせるような女性っぽさがあるでもない。
自分らしさ、自分だけの武器ってどうやって見つけていくのだろう。

時計の針だけ蚊柱のように無数に飾られていた作品があった。
動いてるらしく、指し示す時間は全て異なる。
僕がこの7階に訪れたのは3回目だが、隣で見ている人が何回目かは分からない。同じかもしれないし、違うかもしれない。何度も往復する人に紛れて新規で見る人も当然いる。
そういう同じ1日のなかで、各々が微妙にズレた時間軸を生きていくんだなとこの作品を通じて感じた。ズレには面白さがあるのかもしれない。

自分が分からない。
誰かと同じでも不安になるし、時として逆に安心感を得る。
展覧会で目および脳が案外テキトーなものだと痛感したように、自分の感性もいい加減なものだなと思う。
良い悪いではなく、いい加減。
いい加減は言い換えたら優しさだと思う。都合よく捉えるなら寛大だ。

「目 非常にはっきりとわからない」
のタイトルも、歪曲した解釈をさせてもらっても良いなら、「Me 非常にはっきりとわからない」だ。
目ではなく自分という意味のMeだとして、自分で自分を明確に定義できないと訳すなら個人的に良いタイトルだなと思う。
この美術館を彷徨って間違い探しをしてる人たちも、僕と同じように間違いを探すことで自分らしさを探しているのかもしれない。

そもそもこの解釈が既にきっと間違いだ。
こじつけもいいところ。
しかし"ズレは面白い"が真意だとするならば、この解釈も正解になるだろうか。
いい加減な解釈だからこそ、結局何度も疑うことになる。何度も通行することによって出来たけもの道のように、何度も疑って自問することで、自分らしさは固まっていくのかもしれない。
美術館を後にして、またエレベーターのドアが開く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?