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非行少年だった世界線

宮口幸治「ケーキの切れない非行少年」を読んだ。

 本書で著者は「反省できるだけでも上等」と記述している。
それは著者が出会った非行少年のなかには反省すらできない少年たちが大勢いたからだという。
深く印象に残ったのは「自分はどんな人間だと思うか?」の質問に対して、約8割の少年が「自分はやさしい人間だ」と答えた、という一文だ。
連続強姦、一生治らない後遺症を負わせた暴行、放火、殺人など罪の重さに問わず答えは同じ。しかし彼らは冗談や冷やかしで言っているのではなく本気でそう思っているのだ。
疑問を感じた著者が深堀りして聞いてみると、「お年寄りに対して優しい」や「友だちにそう言われる」と回答した。
 そこで著者が「殺人を行ったけど、それでも優しい人間か?」と尋ねて、初めて「優しくない」と答えたという。
 彼らはここまで言わないと気が付かないのだ。
言葉を額面通りに受け取ってしまう。
過去に言われた印象的な言葉を覚えていて、自身の行動がそれに反していたとしても、臨機応変に変えることができない。そういう融通の効かなさがある。
ここで「反省できるだけでも上等」に繋がっていく。
自己評価が殺人で変わっていないのに、被害者遺族に謝罪ができるはずがない。

自分のなかにあった「人を殺してしまったら自然な流れで自ずと反省していく」という考え方がボロボロと崩れ去った。あくまで自分のなかでの常識でしかなかったのだ。
非行少年たちも悪気があってそう答えているのではないのだから余計に難しい。人から勘違いされる"生きにくさ"は想像以上だろうと痛感するし、その苦痛は自分にも覚えがある。非行少年たちと比べたら自分の苦痛なんてひどく小さいものだが。

 ここからは学術的な話ではないので信憑性は欠けるが、経験上、共に過ごした人々から受ける影響はとんでもなく大きいのだろうと思う。
少なからず、僕は明らかに周囲の人から影響を受けて生きている。
 村田沙耶香の『コンビニ人間』に、

「過去の他の人たちから吸収したもので構成されている」

いう一文があったが、まさにそんな感じ。自分の口癖でさえも誰かの口癖から伝染している。
僕の周りに非行をしない人が多かったから自分もしなかった。ただそれだけ。もっと荒んだ環境にいたら、非行少年になっていた世界線も十分あったのかもしれない。僕の場合は周りの人に救われてきたと思う。
 あとは単純に大胆になれなかった。大胆になれないのも田舎で素朴な生活を送っていた環境が影響しているのではないだろうか。
僕は意思が弱い。前途した文も言い換えれば、環境のせいにしている節がある。

 多くの驚きと発見がある本だったが、自分の力不足により内容が甘くなってしまった。言い換えると、あまりに衝撃的すぎて言葉にまとまらなかった。
 知らないことは少しずつ知っていかなければいけない。知ることが理解への第一歩だと思うからだ。学校教育のサポートや社会のセーフティーネットの必要性など、今の日本では足りない部分も多くあると知った。
自分が見ている世界だけが常識ではない。

にしても、言い切りたくて見聞を広げているのに、学べば学ぶほど断言できなくなっていくな。

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