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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観賞後、宇多田ヒカルの「One Last Kiss」で気付くこと

【以下ネタバレあり】






エヴァは、作品と自身の考えを以て噛み砕き、それを咀嚼するのを楽しむ映画だ。

「マイナス宇宙」や「ゴルゴダプロジェクト」などの謎だらけのキーワードがテーブル狭しと並ぶ。それらはかなり煮詰められて食べやすいものもあれば、ほとんど調理されずゴロッとした素材そのものもある。

テーブルの上で何がどうなっているのか目では分かっていても脳が着いてこない。そのうちに頭痛がしてくる。正直、分からないことだらけだった。しかしこの分からなさが好きだし、求めているものなのかもしれない。



迫力溢れるアクション、斬新な画角、様々な武装はあれど、緻密に描かれているのは人間である。軸にあるのはあくまでも個人的なエゴであり、それらがぶつかり合う、もしくは解け合うコミュニケーションであり、複雑に絡んだ人間模様だ。


映画を見た後、改めて「One Last Kiss」聴いて引っ掛かったのは2番Bメロの“もう分かっているよ この世の終わりでも 年をとっても 忘れられない人”のフレーズだった。

歌詞を組み立てる上で、大きな出来事は小さな出来事の後に持って来た方が、当然ながらよりインパクトを与えることが出来る。普通であればここは“〜年をとっても この世の終わりでも 忘れられない人”なのだけど、映画を見て納得した。アディショナルインパクトを阻止し、エヴァのいた世界を終わらせたシンジとマリはエヴァの呪縛から解放されて年齢を重ねていたからだ。あえて順番を逆にしたことで、歳を取ることがこの作品のなかでいかに重要か指し示したのである。


また“私の心のプロジェクター”も比喩表現ではなく、実際に描かれたものから引用された歌詞だと来場して知ることが出来る。バラバラだったパズルのピースが本来あるべきところにはまっていくような感動があった。
ただの歌詞だと思わせておいて、実はただの歌詞ではないところに落とし込んでいる。
当然ながら、タイアップは作品と関連付いた音楽に仕上げなくてはいけない。しかし、キーワードを盛大に盛り込んだり、雰囲気を作品に寄せすぎてしまうと楽曲のイメージと作品に直結しすぎてしまい、楽曲の余白が広がらなくなってしまうというデメリットもある。
そういった意味では”いかにも”なタイアップ臭さがないのが凄い。
エヴァに興味が無い人からも愛されるポップスの余白がしっかりと残されている。

でありながらも、エヴァに関心があればある人ほど、反って全てが意味ありげに聞こえる、ある意味文学的な一面も感じられる。


例えばサビで“oh oh”とハモってくる低音ボイスからはエヴァの鳴き声を彷彿とさせられるし、
ピアノの音も言ってみればただのピアノの音だが、ゲンドウが好きなものにピアノを挙げていること映画で知ると、「One Last Kiss」と映画との密度がグッと高まったことを体感できる。

ピアノの旋律でいうと前作「Q」と「桜流し」の関係性は秀逸だった。
映画の後では、シンジが亡き親友カヲルを思い浮かべながら、教えてもらったピアノを弾いているかのようだった。
それも、途中までは感情を押し殺しなが堪えながら…、もしくはどこか現実感を感じてなかったものが、ラスサビでは堰を切ったように急に感情が押し寄せてくる。その構成からはフォースインパクトが阻止されたその後を想像させる。

「One Last Kiss」も構成としては「桜流し」同様だ。最後の最後で別の顔を覗かせる。
終盤には“忘れられない人”のフレーズが怒濤に畳みかけてきて楽曲の印象を強めて終わっていくかと思いきや、ぽつりとつぶやくような歌詞とメロディー。ふと現れたそれは映画のラストシーンのようだった。

楽曲の本題となっているキスとは誰と誰のを指しているのだろう。
映画を見終わった後も明確な答えは出てこなかった。むしろ映画を見た後の方が分からなくなった。キスをしたいと思ってるだろうキャラクターが多数いるからだ。
キスとは恋人同士だけで使われるコミュニケーションではない。
ミサトさんが自分の命と引き換えに特攻した時、息子の加持リョウジにキスしたかっただろうと思った。親らしいことを何一つ出来なかったからこそ、最後の最後に親から子へと確かな愛情を伝えるために。
そしてミサトさんがAAAヴンダーに残る選択をした際に、これまでの感謝や敬意を持ってリツコが頬にキスしたとしても全くおかしくない。

第3村のトウジがWILLEにいる妹のサクラにキスをしても良いと思ったし、ケンスケとアスカがキスをする関係に発展する予兆が感じられる。ユイに好意を抱いているとされているマリも、あの場ではアスカにキスをしただろう。もちろん発端であるゲンドウはユイとキスすることを望んでいる。

"燃えるようなキスをしよう"というフレーズがあるため、男女間の情愛のキスとして描かれている部分も勿論あるけれど、友愛、慈愛、敬愛を伝える手段としてのもっと広い意味を持った様々なキスが、エンドロールから感じられた。


どれだけ迫力ある映像だろうと度肝を抜かれる演出だろうと、エヴァの核にあるのは1対1のコミュニケーションだ。キスも通常は1対1で行われる。


15歳でデビューし、一躍大人気になった宇多田ヒカルは2010年に人間活動をするという理由でアーティストの舞台を一旦離れ、休止した。

なんとなくそこに14歳でエヴァに乗るシンジの姿がリンクする。



疎遠だった自身の親と向き合い会話をし、親を正しい場所に導くシンジは今までと同一人物とは思えないほど力強かった。エヴァを一度降り、第3村で経験した人間活動が世界を救うことに繋がっていく。

人の間で人間と読むように、どんな人も人に助けられながら生活し、その間でしか生きていけないと何の変哲もない普遍的で日常的なメッセージを何もかもが特殊で非日常的な『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を見て感じる。

齟齬が生まれ、争いが生まれる、不完全な生命体だからこそ手を取り合ってきたのだ。

この世界はシンジによって救われたけれど、混沌として、エクストリームで、悲しみに満ちているのに幸福な物語のなかからまだ出られそうにない。

凄いとしか言えない。

誰がどんな語彙を巧みに使っても、この映画、この映像体験を追い越す不可能だろうと痛感している。

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