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町内会のお祭りはお金じゃない

さて、昨年こんな記事を書いていました。

今年もまた町内会のお祭りにいくつか行きまして、結論からいうと、去年と考え方が変わったなということを思ったんですね。


上記の記事で書いたことは簡単に言うと、町内会のお祭りで売っている物があまりにも安すぎて、大人たちが消耗していくだけじゃないのか、そしてそのうちそれって続かなくなっちゃうんじゃないかって言うことを思っていたんですね。


せめて多少の人件費になるぐらいの工夫はあっていいんじゃないかというような。


ただ、また今年その激安お祭りを経験してみて、それってお金で解決できることなのかというところに、今更ながら行きついたと言いますか、

そこには2つの観点で、思ったことがあります。


まず一つに、人件費を仮に捻出できたとして、一体いくらだったら全員が満足できるかという点で、

昨年思っていたのは、時給1000円ぐらいの換算でいいんじゃないかとおもってましたが、シンプルにこの金額に全員が納得するのかというと、ことお金が絡むだけに、一筋縄ではいかない感じがします、


店のどこに立っていても均一ならば、絶対楽をしようとする人は出てくるし、そんなお金いらないという人も出てきそうだし、その運用コストたるや、ちょっと考えるだけでめんどくさすぎるという一言に尽きます。


これが、まず1点目。


そして2点目が結構これからここに限らない話で大切になってくるであろうこととして、人々の求めるものが「役割」であるということです。


去年考えていたイメージで言うと、無償でやらなきゃいけないことなんかみんなやりたくなくなるだろうっていうことだったわけですが、


なんとなくちゃんと周りを見渡してみると、意外と「役割を与えられる」っていうことを人々は求めているんじゃないかなと思っていて、

その行き過ぎた例でいうと、被災地に千羽鶴を送るとか、頼んでもないのに飲み会でサラダをよそるとか、

それ別に望んでないから!みたいなところにまで、勝手に役割を求めに行く人がいたりするぐらい、なにか自分の存在意義みたいなものが、

ネットとかAIによってどんどん物事が解決されていくからこそ、なくなっていっているんじゃないかなと思うんですね。


こうなってくると、むしろお祭りで大人たちが労働力となるのは、いわば役割を与えているってことで、

お金でもらっちゃったらそこが解決できなくなってしまうと。


そう考えると、お金に換えることによってめんどくさくなることってまあ往々にしてあるなというのが結論なんだろうなと思っていて、

きれいごとというだけのくくりではなく、お金だけで解決できないことってありますよねというお話でございました。


本日もここまでお読みいただきありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。

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