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街の中の、無意識の「作品」。

「見出しの写真」は、道路のそばの、地面の上の色のカケラが、きれいに見えたので、撮った。

 すぐそばの建物はシャッターが閉まっていたから、はっきりとは分からなかったのだけど、たぶん、普段は自動車修理も行っているような小さな工場のようだったから、塗料のゴミのようなものだと思う。

駅の中の、無意識の「作品」

 駅の中に、無意識の「作品」が、意外と多いということは以前に書いた。

 その時も書いたけれど、自分が現代アートに興味を持つようになってから、大げさにいえば、「世界の見え方」が少し変わり、時々、いろいろなものが「作品」に見えるようになった。しかも、その「作品のコンセプト」のようなものまで、妄想のように浮かぶことさえある。(改めて、こう書くと、やや恥ずかしいけれど)。

街の中の、無意識の「作品」

 当然だけど、駅以外(という区分けもどうかと思うが)にも、個人的には、「作品」と思えるものがある。

 見出し写真も、そこにあるゴミが、ただきれいに見えた(あくまでも個人的に)だけだったけれど、他にも信号待ちをしている時に、たぶん、工事のために書かれた文字や、それに伴って、そこだけ盛り上がっている感じも含めて、「作品」に見えることもあった↓。

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 道路のそばに建っている家の、何かの部分が壊れたまま、放置され、それが時間がたって、さらに違う形になってしまったようなものは、人の意志と、無意識と、時間が加わった「作品」のように、見えなくもない↓。

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赤瀬川原平「トマソン」の影響

 個人的には、大竹伸朗の影響が強いと思っているのだけど、こうした見方には、当然、赤瀬川原平の「トマソン」の影響も、それこそ「無意識」に近い部分で、受けているに違いない。


 人の意志とは、結果として、ちょっと違うものになってしまい、何か不思議な「作品」に見えることもある。たぶん、工事のタイミングだけだと思うけれど、こうして門だけ残されると、平凡なものが、ちょっと違って見える↓。

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 自分が住んでいる家も、トタンの壁なので、より気になるのかもしれないし、持ち主にとってはマイナスなのかもしれないけれど、ただ外から見ると、サビ具合いが、太陽の光の当たり方によって、よりきれいな色味に見えることもある。

 さらには、画面右側のドアは、もう使われていないのだろうけど、それを止めてあるテープの薄い緑色とのバランスも、いい感じに思えてくる↓。

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座椅子の孤独

 あとは、その時の自分の気分に左右されるのだけど、ただの不用品が、やけに気になることがある。

 町内会館の前に、ただ置かれていた座椅子↓

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 いろいろなことを、勝手に思っていた。

 一つだけだけし、やけにポツンとあったので、もしかしたら、他にもいくつかあったのだろうか。これだけ残されたのだろうか。それとも、座椅子以外に、もっと、持っていくのが楽で、魅力的な不用品があって、それらは全部、引き取られて、これだけ残ったのだろうか。

 その時、自分が無力感などが強かったせいか、そんなふうに感じていた。

 ただ、そういう一方的に思っている孤独感だけでなく、この座椅子の形や、文字の感じも、なんだかよかったし、この紙の貼ってある位置も、ちょっと美しいバランスに思えた。それは、無造作に貼ってあるようなテープが、それでも文字を隠さないように気を使っていたりする気配が、そう思わせたのかもしれない。


 おそらくは、どの街でも、ちょっと気をつけると、きれいだったり、美しかったり、不思議だったり、無意識だったり、無作為だったりする「作品」は、かなりあふれているのではないか、と思っています。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただけると、うれしいです)。



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