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いろいろなことを、考えてみました。

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自分の能力の足りなさを自覚しながら、いろいろなことを、考えて、書いて、考えました。
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#いま私にできること

「病気についての常識」で、改めて確認してみたいこと。

 なるべく外出しないようにしているけれど、昨日は、出かけた。  帰りの電車は、人がぴったりくっつくほどの距離だった。午後8時くらいになっているのに、乗れないくらい混んでいたから、もう1台待って、それでも、けっこう混んでいた。列の一番前で待っていたから、座れた。隣の男性が少しせきをする。同じ車両の遠くの方で、せきをする声が、複数聞こえる。  この前は、これまでだったら、駅の男子トイレは手を洗わない人も結構いたのに、3カ所ある洗面台の液体せっけんが全部、空だった。スーパーのアル

「陰謀論」を、信じられなくなった理由

 不安が多い時ほど、『あれは実は裏で…』というようなことが、真面目な口調なシリアスな文体などで語られるようになり、そして、ある特定の団体や、人種や、国の名前や、意外な方法などがあがり、どんなことでも、世界は、誰かの意図で動かされている、といった結論になる。  厳密にいえば、間違っているのかもしれないが、私にとっては、それが「陰謀論」であり、「デマ」だと思っている。大小さまざまな出来事の全てに「あれは、実は…」が潜んでいて、必ず、そんなことを語る人がいて、それなりに筋が通って

「資本家」が、しばられている(かもしれない)「資本主義の呪い」を、難しいけど想像してみる。

 「100分de名著」という番組を見るたびに、伊集院光の理解力と、分かるところと、分からないところを明確に区別する姿を見て、感心もし、こうして仕事をしていく上で、さらに学んでいるのだから、もっと賢くなり、仕事も増えるかと思うと、うらやましいような気持ちにもなる。  確か、伊集院氏は、高校中退という学歴のはずだから、それから、おそらくは独学でいろいろなことを教養として身につけていて、そのアウトプットのあり方も品があるので、そのうちに、伊集院光が「学び方」についての本を出してく

「社会的な必要性」と「収入」がつり合わない、「はたらく」について、考える。

 収入と仕事の質についての関係性については、いろいろと考えた。(リンクあり)。そのことによって、仕事の質が高いことが、収入の高さに比例しない、というごく当たり前のことを再確認できたと思う。  それでも、社会的にも個人的にも、重要で必要性が高くても、収入が低いどころか、場合によっては、お金に結びつかない「はたらく」も存在する。  そして、その仕事や「はたらく」が社会にとって必要で重要であっても、それが収入が少ない場合は、どうしても尊重されない空気は、やはり感じる。  コロ

「エビデンス主義」への、素朴すぎで未熟だけど、今のうちに伝えたい疑念。

 「エビデンス」という言葉をよく聞くようになったのは、いつ頃からかは、よく覚えていないのだけど、現在は、はっきりといろいろな場所で聞くようになった。  最初は、医療の世界で使われていたはずだった。それは、患者が、自分自身の治療を選択する時に、根拠のある治療を選びたい、といった文脈の中で、「エビデンス」が使われ始めたと記憶している。  患者となった場合には自分の命に関わる重要なことなのだから、そこで「根拠」を求めるのは当然のことだし、それは、「説明と同意」として「インフォー

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」④「どうしようもない不安や恐怖への対応」(後編)。

 この「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」のシリーズは、これまで約2ヶ月をかけて、3回にわたって、「コロナはただのカゼと主張する人たち」 「見えにくい政策」 「自粛警察はどこにいるのか」を書いてきました。  さらに4回目の「どうしようもない不安や恐怖への対応」(前編)では、「 新型コロナウイルス感染の可能性への直接的な不安と恐怖への対応」と、「感染者になってしまった場合の予測もつかない変化への不安。そして、差別と排除の恐怖への対応」を考えてみま

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」④「どうしようもない不安や恐怖への対応」(中編)。

 これまで3回にわたって、「コロナはただのカゼと主張する人たち」 「見えにくい政策」 「自粛警察はどこにいるのか」を書いてきました。  さらに4回目の「どうしようもない不安や恐怖への対応」(前編)では、「 新型コロナウイルス感染の可能性への直接的な不安と恐怖への対応」と、「感染者になってしまった場合の予測もつかない変化への不安。そして、差別と排除の恐怖への対応」を考えてみました。  今回の「どうしようもない不安や恐怖への対応」(中編)では、「 医療崩壊への不安と恐怖への対

「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」②「見えにくい政策を考える」

 毎日のように新しくコロナに感染した方々の人数は発表されていて、特に、東京都内の感染者数は、10月に入るあたりから、再び増加傾向のように感じています。(全国の中で、もっとも感染者数が多いので、そこを基準にしました)。  10月1日。235人。  10月2日。196人。  10月3日。207人。  それでも、すでに以前のように大きなニュースでの扱いではなくなり、かなり小さくなっているように思いますし、私も視聴者の一人として、それほどの関心の持続が難しくなっています。当初から

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「コロナ禍の中で、どうやって生きていけばいいのか?を改めて考える」④「どうしようもない不安や恐怖への対応」(前編)。

 このシリーズで3回にわたり、「コロナはただの風邪という人たち」「見えにくい政策」 「自粛警察は、どこにいるのか?」を(リンクあり)考えてきました。それぞれ、今の時点で、社会の片隅で感染を恐れて息を潜めるように生きている人間からは、どう見えるかを書いたので、それを読んでいただければ、それぞれのことを改めて少しでも考える材料になるかと思います。  よろしかったら、もちろん、これまでの3回分を読んでいただきたいのですが、その前提がなくても、今回は、やはり感染拡大になってしまった

「向いている」や「向いていない」を、考える。(後編)。

「向いている」や「向いていない」という言葉が強い意味を持つ場所や、「向いている」や「向いていない」という言葉が、どれだけの効力があるのかどうかを、前編(リンクあり)では、考えてきた。  その一応の結論として、その人があることに本当に「向いているか」どうかは、分からない。やってみないと分からないし、ある程度続けないと、わからない、ということに辿り着いた。  ただ、これだと、あまりにも素朴すぎる感じだし、「自分は、この仕事に向いているのだろうか」と悩む人が、もしいたとしたら、

「向いている」や「向いていない」を、考える。(前編)。

 ある時期に、とても強く響き、すごく気になる言葉があるのに、年齢が高くなるほど、その感じを忘れてしまうことを、小説を読んで、思い出した。それは、仕事などに「向いている」か、「向いていないか」という言葉だった。 「しんせかい」 山下澄人 この小説は、演劇を学ぶために、遠く人里離れた場所で集団生活をする、という話なのだけど、主人公の、この場所への微妙な心理的な距離感の遠さなども面白く、それでも、まだ何にもなっていないけど、何かになろうとする人たちの、いろいろな切実な気持ちの動き

職場の「心理的安全性」を考える

 すでに何年前かも覚えていないが、職場に関して「心理的安全性」という言葉を初めて聞いたのは、世界的に活躍しているというビジネスパーソンが、どこかの壇上で話している時だった。  ビジネスに関連して聞いたのは、それまで記憶になかったが、心理的安全性という言葉はイメージしやすく、そのビジネスパーソンが、つぶやくように言った内容とともに記憶に残った。  日本は世界でも、会社組織の中での心理的安全性が、すごく低いのではないか。  驚くというよりは、それを聞いた時に、納得感とともに

「目的」と「手段」の関係について、改めて確認したいこと。

 自分の無力も自覚しながらも、改めて確認したいことがあります。  それは、「目的」と「手段」の関係について、です。  世の中のいろいろな(本来ならなくてもいい)理不尽は、それを間違えたりすることから始まることが多いような気がしていますが、改めて、その関係性を振り返ったり、見直したりしても、何かがすぐに変わるわけでもありません。  それでも、これを読んでくれた人が、ここから先の考えを広げてくれたり、豊かにしてもらえたら、ありがたいと思っています。 「ルール」は「手段」  

『21世紀の「大人」を考える』④『21世紀の「まともな大人」の基準を考える』。(中編)

 精神年齢のことを改めて考え(リンクあり)、その上で「まともな大人はどこにいるのか?」も再確認しようとして、それで、前回から「21世紀のまともな大人の基準」(リンクあり)まで考えてきました。  もちろん、こうしたことに本当に新しいことを付け加えたりもできないし、未熟なのも当然なのですが、混乱し、下降している21世紀に、さらにコロナ禍で、本当に先が見えなくなったので、自分のためにも改めて考えようと思いました。  そして、前回の「21世紀のまともな大人の基準」について考えた時