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いろいろなことを、考えてみました。

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自分の能力の足りなさを自覚しながら、いろいろなことを、考えて、書いて、考えました。
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2022年2月の記事一覧

「かなちゅう」が身に染みていることに気がついた。……ローカルブランドの強さについて。

 毎週見ているテレビ番組が「激レアさんを連れてきた。」なのだけど、その週は、路線バスでデートをしているカップル、というテーマで、そのバスが走っている映像が映った。 「あ、かなちゅうだ」  そんなに集中して見ている訳でもなかったのに、そんな言葉を発していた。  そして、同時に、その映像を見ている人間ならば、誰でもそう思うはずだ、と信じている自分がいた。  だけど、それは、一緒に見ていた妻には、全くピンと来ていないようだった。  少し冷静になって気がついたのは、これが「かなち

「運」に関する「成功者側」からの視点について。

 自分が歳をとればとるほど、自分自身だけでなく、周囲の人たちの、様々な状況の変化を目にすることが嫌でも多くなり、その上で、成功や失敗というものが、残酷なほど「運」に左右されることが分かってくる。  そうしたことを、私のように成功していない人間が語るのは説得力がないのは自覚はしているものの、それでも、その人の努力や才能や工夫とは違う次元で、「運」という要素が、大きく作用することを明確にした方が、社会の構造が少しでもフェアになるかもしれない。  そういう小さい望みを持って書い

「バレンタインデー」のことを、「バレンタインの主役」が、あまり語らない理由を考える。

 まだ、義理チョコという言葉が一般的でない時の方が、「バレンタインデー」は、ドキドキしていた。  例えば、中学生男子であれば、客観的に見れば、絶対、女子から渡されないはずなのに、自分のこととなると、淡い希望を持ってしまうのが、恥ずかしい。それでも、なぜか、バレンタインデーが終わり、何日か経ってから、机の中に、何かが入っているのに気づいたことがあった。  包装紙で包まれていたのは、チョコレートで、しかも、小さい文字で「とくめい希望」と書いてあった。  その相手が誰なのか。

「ブームの十分な振り返り」は、必要ではないだろうか。

 コンビニにいたら、まだ小学校に入っていないくらいの小さい女の子が入ってきて、「たんじろうだー」と小走りになって、商品棚の方へ、ほとんど転びそうになりながら、向かっていった。  あんなに小さい子供でも名前を覚えて、一瞬、我を忘れるほどに魅力があるのは、やっぱりすごいのかもしれない、と思ったけれど、その時は、自分があまり「鬼滅の刃」を知らなかった。  ただ、新しいアニメのシリーズが始まり、私自身も見るようになって、これだけの長い時間、バトルを繰り返しながら、激しさが増しなが

「お守りの力」を、改めて考える。

 「人志松本」という言い方に抵抗感を感じつつも、やっぱり見てしまうのが、「人志松本のすべらない話」で、第36弾は、「ニューフェイス枠」というのが設けられていた。  それは、それほど世間に知られていないけれど、力がある芸人を紹介するという目的でトークをするというコーナーだった。登場する時に、高い壇上でスポットライトを浴びるという、、視聴者から見ていたら、あんな扱いをされるのはありがたいかもしれないけれど、とても緊張すると思っていたが、2人の芸人は、きちんと自分の役割を果たして

「メディアコンサルタント」の場所としての「ポッドキャスト」。

 ラジオで聞く声の中で、ずっと不思議に感じている人がいた。  速水健朗氏は、ライターで、書籍も数多く出版し、ラジオ番組のメインパーソナリティも務めたことがあるから、幅広く活躍している人という印象だった。著作も読んだけれど、冷静な視点で出来事を整理して語れる人だと思った。 声と姿  たぶん、誰もがしている作業だと思うけれど、ラジオで声を聞いているときに、自分の中だけの勝手なイメージに過ぎないが、その話している人の姿が浮かぶ。  それは、実際に映像などで見たときに、具体的な

能楽堂で声をかけられてから、開けやすいペットボトルのことを、考えるようになった。

 年に一度くらいは、能楽堂に行く。  中学の同級生が、能楽師になったことを知り、そのことで行くようになって、そのうちに10年くらい経っていた。  その空間は、時間の流れがゆっくりで、それに慣れるまでは、ちょっとつらかったのだけど、そのうちに、その日常との違いが、奇妙に心地よくなっていた。 松濤の能楽堂  東京都内でも何ヶ所か能楽堂があるが、私が通っていたのは観世能楽堂だった。  それも、以前は、渋谷の松濤という、昔からの高級住宅街にあり、いつも渋谷駅から歩いて、途中の

ラジオで教えてもらった“大人のいじめ”から、「誠実」の難しさと、「悪の愚かさ」までを、考えてみる。

 今はすっかり一般用語になった「パワーハラスメント」も、その定着具合いと理解の度合いは、おそらくは、世代によってかなり差があるのだろうと思う。  昭和生まれの自分の同世代では、パワハラ的な「指導」は、学校でも、部活動でも、会社でも普通にあったから、それを受けた人間は、もしも、自分が「上」の立場になったときに、気がつかないうちに、場合によっては「善意」で「厳しい指導」として、パワハラをおこなっていることも多いような気がする。  ただ、根拠もない、ぼんやりとした、なんとなくの

三度目も、コロナ禍で、終わってしまった「タピオカブーム」。

 最近、近所のブルーの店舗のタピオカ屋が閉店した。  3年ほど前に、この店ができてから、駅の周辺に、たちまちタピオカ屋が、三軒もできた。  その勢いは、ブームとしか思えなかったけれど、コロナ禍になってから、後発のタピオカ屋は、唐揚げ屋になり、もう一軒は長期で休んでいたりもした時もあったが、最初にできたブルーの店が閉まったことで、この街では、完全にブームが終わったと思った。 たぴりすと。 数年前から、タピオカの名前を聞く回数と、街の中で透明なカップで飲んでいる姿を見る割合

「火のないところに煙は立たない」は、もう「使用期限」が切れているのではないだろうか。

 もしかしたら、これまでそういう経験がなかったのは、とても恵まれていたのかもしれないけれど、割と最近、自分にとっては、まったく身に覚えがない「悪い噂」を流された。  その「悪い噂」が本当だったら、私自身が「人格的にかなり問題のある人物」ということになってしまう。  だから、その出来事に対して、第三者による、取り調べのような場面で、否定をすることになったけれど、その時に、思ったよりも感情的になったのは、不意打ちだったし、不本意だったし、そういう「悪い噂」という、全くのウソを

「小腹満たし」という言葉が、少し怖く感じた理由。

 午前中に、何かをしながら、ややぼんやりとラジオを聴いていたら、急に強く耳に入ってくる言葉があった。  小腹満たし。  それは、健康に良さそうなナッツのCM中の言葉で、要するに、小腹が空いたら、〇〇ナッツ。というキャッチフレーズなのだけど、そこで、小腹満たし、というくっきりとした単語は、たぶん、造語に近いものなのだろうし、もしかしたら、すでに一般的なのかもしれないけれど、なんだか怖く感じた。 小腹が空いた  小腹、という響きも、個人的には、大人になってから覚えたから、ち