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世界がそんなにも優しくないのなら、僕が優しい大人になろう

 これは初めて言うことなんですが、私は大学生で、就活生で、塾の先生です。これを読んでいる希有なあなたが、はておいくつなのかはわかりませんが、何歳であるにせよ少しばかり講釈にお付き合いいただければと思います。

 このnoteのアカウントは、まだ投稿数も2本で、私のTwitterのアカウントも、ほとんどツイートをしていないような、そんなアカウントです。だから、アイデンティティらしいアイデンティティなどありません。ただあくまで予定として申し上げれば、「勉強の仕方」だとか、「塾の先生として考えたこと」だとか、そういうノウハウ的あるいは啓蒙的な、そんな高尚な講釈を垂れるアカウントとして成長させていく予定です。

 そんなアカウントで、そのコンテンツのひとつとして、いわゆるエッセイを書いてみようかと思います。方法論やノウハウとは似ても似つかぬもの、だけれど、書いてはいけないなどということもないでしょう。

 さて、本題。
 高校生から大学生へ、そしてアルバイトという形でありながら小さな“社会”を経験し、大きな社会へと出ようとしている身から2つ、あなたに質問を。

 1つは、あなたの周りの世界は優しいですか。すなわち、あなたに優しくしてくれる人間は、あなたの周りにいますでしょうか。
 2つは、あなたは優しいですか。すなわち、あなたはあなたの周りの世界を、優しくしていますでしょうか。

どうやら、世界は優しくないらしい

 そう、思い始めてきた。
 それはもちろん、社会は厳しいよねとか、人生ってどうやら思い通りにはならないらしいぞとか、そういう話も含意している。少なくとも就活は私にとっては厳しいし、私たちは自身の価値を今後数十年にわたって世界に示し続け、平たく言えば金を稼ぎ、生きていかなくてはならないらしい。税金も払わなくてはならないし、努力が報われるか、そもそも自分が努力できるかだってわからない。

 だがこれは、そういう大きな“世界”の話に留まらない。もっと小さな、身の周りの優しさの話なのだ。

 人が私に対してコストを払ってくれる、要するに私のために手間と時間を使ってくれるということは、とても貴重なことのようである。
 中学や高校を思い返してみれば、もちろん教師による差こそあれ「大人が自分に時間を使って懇切丁寧に何かを教えてくれる」とか「手間を惜しまず相談に乗ってくれる」とかいうことは、別に珍しい話ではなかった。そしてそれはきっと、多くの人にも当てはまることのように思う。

 なにも、決して私はそれを当たり前だなどと言うつもりもないし、思ってもいない。ただ思うに大学生になり、先生と呼ばれるようになり、社会に出る準備をしていると、そういった類いのことはめっきり減ってきた。
 そういった類い、すなわち「純粋な優しさ」とでも呼ばせてもらいたい。だから、どうやら私たちが信じていたほど世界は優しくないらしい、と思うに至る。

大人には、“本業”があるらしい

 あまり具体例をあげられるような話題ではないのだけれど、具体例をあげないエッセイというのも変な話だから、いくつか例を交えたい。
 ただ一応但し書きを付けたいのは、これは決して、決して、「そんなの酷い」とか「それは悪だ」とかそういう主張を目的とした例ではない、とだけ。

 例えば、就活支援団体というのがいくつもある。彼らは就活生をターゲットに色々なサービスを無償で提供してくれるのだけれど、当然、利害関係というのが存在する。要するに、彼らの本業は学生に無償の優しさを提供することではなく、学生にサービスを提供し企業に学生やPRの場を提供するという、利害関係にある。

 例えば大学の教授は、学生の指導をすることがその仕事のうちに入っている。しかしながら、当然彼らの本業は研究であり、また人によっては、企業と協賛して行うような個人事業も存在する。だから、学生の指導なんて興味がない、という先生は珍しくない。自分の時間を使い、自分の手間を使い学生に無償の優しさを提供したりするのではなくて、本業のために、ある種切るべき仕事だと、考える場合もある。

「例外はたくさんある」とか、「そういう考えだからきっと君は~~」とか、そんな寒い台詞は、きっとお吐きになりませんよね。
 あなたにも、きっと思い当たる節があるはずなのでは、ないでしょうか。

 成長するにしたがって、「自分に向けられる優しさの背後に利害関係があること」や「本業のために申し訳程度に取り繕われた優しさ」を受けることが、増えてはいませんでしょうか。
 あるいは、利害を隠した優しさを人に向けたり、本業を優先して人に優しく出来ないこと、増えてはいませんでしょうか。

 会社の上司・部下、転職サービスに、あるいは家族、とかね。言いたいのは、ただ言葉通りの意味で、成長に従って無償の優しさが、私たちを取り巻く小さな世界の中でその割合を減らしてはいないだろうか、ということである。

だから、優しさが際立つのである

 ただそんな世界にも、驚くほどに、無償の優しさを誰かに渡そうという人たちがいる。ちょっとだけ事前情報を付記すると、私は集団指導をする塾で中学・高校受験指導をしていて、就活生としては、ややクリエイティブな業界を目指している。

 塾では、多感な少年少女が、必死に生きている。彼らは私たちが忘れてしまったことをたくさん知っているが、それはまたの話だ。当然、彼らは、彼女らは、悩む。

 塾の本業は、教育活動であり、身も蓋もなく言えば営利活動だ。ただ、閉校時間になって泣き崩れた少女のために、自分の仕事の時間を削り、連日の残業によってもう無いに等しいはずの体力を削り、彼女がなんとか涙を拭いて家に帰れるように、生徒と向き合っていた上司を、私は知っている。
 彼は少女が帰った後私に、「家までどんだけ時間かかると思ってんだよ~」なんて悪態をつきながらも、それが誰であるかによらず(時には保護者のプライベートな相談であっても)、「ほぼいつでも」と呼んで良いほどに、そんなことを繰り返していた。一応補足しておくと、その優しさの矛先には私も含まれている。

 話は変わるが、就活とは、つくづく人脈力だと思わされる。どれだけ就活に強い先輩がいるか、どれだけその業界内に頼れる知り合いがいるか、どれだけ一緒に頑張ってくれる仲間がいるか。
 忌々しいことに、私にはいなかった。親しい先輩も、業界の知り合いも、同じキャリアを志す仲間も。

 つい最近になって、そんな私にも近しい業界で仕事をしている女性編集者と知り合うことがあった。そして幸いなことに、年も割と離れているのに「仲良しな友達」と呼べるような仲になった。
 さて、彼女の本業は、当然仕事であり、生きていくことである。ぽっとでの学生に、業界に関する情報を提供したり、企業に提出する課題のアドバイスをしたりすることでは断じてない。
 ただ、そんなぽっとでの学生に、自分の時間も手間もそっちのけで優しくしてくれる編集者を、1人の社会人を、私は知っている。

 彼女は私の相談に乗り、自分の時間を使って、とても私のことを考えてアドバイスをくれ、時には悩みの解決の種だとかを、一緒に探してくれていた。「私マジ優しいわ~」なんて言われながら。

 優しくない世界だが、だからこそ、そういう人間の優しさは、際だって見える。
 もしも、もしもこれを読んだあなたが、少しでも世界を優しくないと思ったのなら、あるいは、最近誰かに優しくできなかったと思ったのなら、「世界を少しだけ優しくしてみるのもありだ」と、思ってもらえたら嬉しいのです。

僕が優しい大人になろう

 世界は優しくない。本業に集中したほうが成果は出るかもしれないし、企業は利益をあげられるかもしれない。それはきっと何も間違っていないし、私も悪いとも思わない。そういうのに折り合いをつけるというのを、大人になると呼ぶのだと、国語のテキストは言ったりする。

 ただそれでも、そんなにも世界が優しくないのなら、一種の決意として、僕が優しい大人になろう。塾の上司のように、とある編集者のように。

 どうやら私は、現時点では、かなりお節介なタイプの人間のようだ。可愛い可愛い生徒のために休日に出勤したり、質問してきた生徒のために、「あー自分の仕事残ってるなー残業かな~」とか思いながら一緒に問題に向き合ったり、ちょっと頼ってきた後輩のために張り切って、力を入れてアドバイスをこしらえたり。
 だから現時点では、この文章で私が定義した優しさに、全てでないにせよある程度当てはまっていると思う。

 だから、問題はそこではない。今後私に本業ができたとき、あるいは、自身が成長とか成功とかそういうものを目指したり、つかみ取ったりしたとき。
 決意として、私は、今ここにわずか存在している優しさを手放さず、自分の周りの小さな世界を優しくできるように、そういう大人になろう。

 自分の仕事とか成功とか、そういうものを捨てようって言うんじゃない。でも、自分の部下に、後輩に、友人に、あるいは顧客に、優しく出来る大人を、私はイケてると思ってしまったので。だから、そんな優しさを捨てて掴む何かを、掴んだ自分自身を、今日の私が笑うのだから。

 世界がそんなにも優しくないのなら、僕が優しい大人になろう。


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