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京アニ放火事件公判の気になるポイント

 2023年9月、京アニ放火事件の公判が始まり、多数の報道が行われています。最も詳細がわかりやすいのは産経新聞さんかと。

 現在のところは公判であからさまに焦点化されていないけれども、私が気になるポイントを、なるべく簡単にまとめてみようと思います。

0. 前提

 私自身は、京アニ放火事件を起こされてはならなかった放火事件だと考えています。京アニ作品に対する特段の思い入れはなく、直接間接の知り合いが京アニ関係者にいるわけでもありませんが、理不尽な怨恨によって命を奪われる事態は、あって良いわけがありません。
 死刑には反対ですが、現在の刑法に死刑が存在する以上、死刑判決や執行が行われてしまうことは致し方ないと考えています。
 日本が、「名ばかり」かもしれませんが法治国家である以上、罪刑法定主義が原則どおりであることは極めて重要です。いわゆる一般市民感情による「死刑だ、死刑」をそのまま判決にするのではなく、背景や経緯を含めた妥当な検証と検討を経て判決に至ることを望みます。それは、場合によっては刑事司法手続きの適用を中断することを含みます。
 死刑反対だから「死刑を避けられれば何でもいい」と思っているわけではりません。殺人事件で被告が刑事司法手続きを適用されなくなるということは、すなわち医療観察法による処遇を受けるということですが、「死刑よりマシ」と言える代物ではありません。この点は後述します。

1. 心神喪失等の可能性

 公判前から、「真っ当な弁護士が被告側弁護人として選任されれば、間違いなく法廷戦略として使われるだろう」とは思っていました。真っ当な弁護士なら、被告側弁護人となった以上は、法の枠組みと事実の中で被告のためにベストをつくすはず。刑事事件における「ベスト」とは減刑を勝ち取ることですが、事件の内容・被害の全貌・死傷された方々の人数を考慮すると、使えるものは心神喪失や心神耗弱しかなさそうに見えました。
 公判が始まってみると、素人が軽々しく言うべきことではありませんが「え? 妄想?」「は? ビョーキ?」のオンパレード。ガソリンに火をつけたら何が起きるか分からないほど判断能力を発揮できなかったことも含めて、「普通の人が理不尽な怨恨によって起こした、とんでもない事件」と考えること、すなわち「心神喪失でも心神耗弱でもなかった」と断定することには無理があるように見受けられます。

2.精神疾患に適切な対応を受けられていなかった可能性

 事件当時の被告・青葉真司氏は、精神障害者として生活保護のもとで生活していました。福祉事務所(相当部署)の担当ケースワーカー・精神科訪問看護・精神科通院と、精神障害のある方に対して「適切かつ専門性のある処遇」と考えられる対応を受けていたようです。もしも福祉事務所に精神保健福祉士資格を持つケースワーカーがいれば、その方が担当者となっていた可能性も考えられます。にもかかわらず、事件は起こりました。
 事件前の青葉氏のエピソードとして報道された内容、および現在の公判によって明らかにされつつある事件前の青葉氏の生活実感に照らすと、少なくとも、青葉氏が一定の落ち着きと安心をもって暮らすことは出来ていなかったと考えられます。「精神医療保健福祉が一定の成功をおさめていたわけではない」という背景は、極めて重要だったのではないでしょうか? もしも現実と折り合いをつけて暮らすことができていれば、京アニ放火はなかったかもしれないわけですから。

3. 精神疾患に対する適切な対応を受けていない可能性

 事件は起きてしまい、現在は公判の中で、青葉氏の「妄想?」「ビョーキ?」という印象を受ける言動が明らかにされています。事件が起きたのは2019年7月ですから、現在まで約4年の年月が流れています。拘置所や刑務所の中でも、疾患は治療され、障害は合理的配慮を受けられるタテマエなのに?
 治療を試みたけれども現状が精一杯だったということでしょうか。それとも、治療を試みない事情が何かあるのでしょうか。
 適切な治療が行われて奏効し、妄想の類から解放された青葉氏が正気で裁判を受けるということは、ご本人にとっては妄想があるままで法廷に立つことよりも苦しいものかもしれませんが、刑事司法は人権保障の手段の一つです。殺人は、他人の生命を奪うという重大な人権侵害であるゆえに重罪です。だから、その重罪を裁く行為人権保障のもとに行われることになっています。
 なお一般的に、精神疾患と記憶や語りの内容の真偽は無関係です。精神疾患を治療したからといって、有効な証言が得られなくなることはありません。アルコールの影響下で罪を犯した人を裁くにあたり、公判まで酒浸りにさせておく必要がないのと同じです。

4. 青葉氏の責任と無関係に、社会に責任がある可能性

 事件までの青葉氏の人生の歩みは、日本のどこにでもある不幸や不運を煮詰めたようです。「生活保護を申請して利用できなかった」「ホームレスになった」という経験も語られています。
 むろん、そういう理由で殺人や放火が行われてよいわけはありません。なんといっても、似たような辛酸を経験した方々圧倒的多数は重大犯罪を犯していません(むしろ被害者になる可能性のほうが高いでしょう)。
 そうはいっても、憲法第25条に「ゼイタクはできないけど、健康で文化的な生活」(これが「健康で文化的な最低限度の生活」の正しい読みです)を送る権利が定められており、その条文に基づく生活保護法が存在し、生活保護の「水際作戦」や本人の希望によらないホームレス化を余儀なくされることはあってはならないと厚労省が繰り返し認めている日本で、なぜ、青葉氏はそういう経験をしなくてはならなかったのか。そこは、青葉氏の罪とともに追及されるべきところです。不運が1つか2つ少なければ、事件は起こらなかったかもしれません。

5.「死刑か、医療観察法か」の二択でよいのか?

 もしも青葉氏の心神喪失または心神耗弱が認められると、刑事司法の適用対象ではなくなり、医療観察法に基づく処遇ということになります。単純に「死刑にならない」というわけではなく、むしろ「死刑のほうが少しマシかもしれない」というものです。
 医療観察法に基づく処遇は、一言で言えば「期限を定めずに精神科閉鎖病棟に閉じ込めておく」というもので、医療観察法専用の精神科病棟が用意されています(処遇は他にもありますが、死刑が検討されるほどの重罪の場合は、事実上「閉鎖病棟に閉じ込め」一択になります)。適用されたご本人は、高い自殺率に示される環境に置かれますが、むしろ問題は被害者の方々・そのご家族や身近な方々・一般市民の側に発生します。
 ある容疑者や被告が医療観察法の対象になると、その元容疑者や元被告に関する情報は、氏名を含めて一切出てこなくなります。どこの施設にいるのか。どのような様子であるのか。あるいは、既に退院して社会にいるのか。それとも、既に亡くなっているのか。全く公開されません。
 現在の枠組みの中では、「刑法か、医療観察法か」の二択
にならざるを得ません。青葉氏に合わせて新しい法律を作るわけにはいかないし、作っても適用できません(後出しジャンケンのようなことは禁止されています)。でも、罪と裁きと刑罰がこれで良いのでしょうか?

終わりに:まだ被害者でも加害者でもないから出来ること 


 本記事を読んでくださる方々の大多数は、京アニ事件の被害者でも被害者家族でもなく、青葉氏の知り合いや友人でもないでしょう。だからこそ心理的に距離をおき、何が今後の予防になりうるのか、許しがたい事件が起きてしまった時、どのような償いの仕組みが必要なのかを冷静に考えることが必要であるはずです。
 京アニ放火事件に関しては、もう間に合いません。だけど、今の日本にない何かが必要です。作るために、考えはじめましょう。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。