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インターネット恐怖症と克服の記録

パソコン通信から数えれば、ネットワーカー歴30年超。インターネットが一部の尖った人たちのものから一般ピープルのものになっていくプロセスを、リアルタイムでワクワクしながら見てきました。でもこの5年間ほどで、ネット空間との付き合いを少しずつ減らしてきています。特にGoogleのサービスや、「フレンド」「スペース」など閉じた場を作ることのできるSNSの使用は、どんどん減らしてます。しんどいから。

プライバシーが守られた空間と、そうではない空間の境界は、もともと危ういもの。インターネットがなかった大昔、几帳や薄い壁の向こうで人が話す内容は聞いて聞かないことにするという大人の知恵でプライバシーをお互いに守っていたようすは、数多くの古典文学作品に現れています。そのように意識して人と人の間の社会的距離を維持しないと暮らしや健康が成り立たないことを、人間は経験的に知っていたのでしょう。

インターネットという新しいコミュニケーション手段とともに、人間の知恵が発達していれば良いのですが、どうもそうではないようです。

いくつかのインターネット超大手企業は有料プランでも顧客のプライバシーを守っていません。このことは数年前から公然の事実になっていましたが、便利なので離れられずにいました。そんな私が、そういう企業のサービスの使用を減らそうと、具体的な作業を重ねています。きっかけになったのは、昨年春から夏にかけての2つの出来事でした。

1つ目の出来事は、昨年春、ヤングケアラーに関する記事シリーズの執筆依頼を受けて書き始めた時のことでした。私を快く思っていない有力大学教員が、他の記者や研究者によるヤングケアラーへの言及を「age」はじめたのです。それまでも、SNS投稿などでそういうことはありましたが、通信社デスクと私しか知らないはずの超大手業者のメールのやり取りから漏れた可能性があるとなると、重大さのレベルがまったく違います。ただ、私が「そこから漏れた」という証拠を掴んでいるわけではないし。その1件だけなら「これだけなら、偶然キモいことが起こったとせざるを得ないなあ」で済ませたでしょう。

しかし、2ヶ月もしないうちに、2つ目の出来事が起こりました。

とあるオンラインイベントで既存の映像作品(もちろん著作権が生きてます)について語る時、どうやって、その作品を参加者に見ていただくかが悩みの種でした。勝手にコピーして配信するわけにはいかないし。そもそも、NetflixもAmazonプライム動画もあれもこれも、有料配信サービスである以上、非劣化コピーが簡単に取られるような方式を使うわけがありません。有料ビジネスが成り立たなくなるじゃないですか? というわけで、無償で公開されている予告編の類を使うことにしました。自分が危ない橋を渡るだけで済むのならともかく、イベント主催者を巻き込むわけにはいきません。

では、どうやってコピーガードしているのか。より正確に言えば、どのように配信しているので著作物を守りつつ視聴者の視聴が損なわれないのか。光学的情報処理で修士号を取得し、2000年代前半は動画処理のプログラムを書いてたこともある私としては、そこは技術的に大いに関心あるところですが、コピーガード技術の中身が公開されているわけはありません。

蛇の道は蛇。コピーさせない仕組みをかいくぐるアプリケーションが多数存在します。どのようなアプリなのか。どのように配信業者の裏をかいていると思われるのか。私は少し調べてみました。そして、満足しました。そもそも目的はコピーすることそのものではないからです。

しかし、その数日後、私とリアルの接点のある人(政府と深い関係にあることで知られる新聞社のえらい人)が、コピーしようとしているんじゃないかと私に釘をさしました。

この件も「検索履歴が漏らされてる」と考えるのは早計、というか「そうである」と確実に言える証拠があるわけではありません。しかし「漏れる可能性がある」というだけで不気味です。というわけで、誰でも検索しそうな大きな出来事や料理レシピなど毒にも薬にもならないものを除き、その大手業者の検索の使用はなるべく避ける方向に切り替えました。理由は単純です。私にどのような意図があろうが、私のプライバシーはプライバシーであるゆえに守られなくてはなりません。ですから、私の検索履歴を知っているかもしれないその人物に対する警戒レベルも少し上げました。「なんでアナタがそれを知ってるの?」という私の情報を知っているのなら、それだけで警戒に値します。「大丈夫だ」「あれは偶然の一致だ」とわかったら、警戒レベルを下げればいいんです。

インターネット通信では、通信のほぼ全経路を他者に頼っているわけです。有償だからといって、見知らぬ他者全員の善意を信じるわけにはいきません。とはいえ、個人が出来る対策には限界があります。

「ここだけ」「この部分だけ」「この期間だけ」の安全なら少しは追求できるのかもしれません。私はその小さな積み重ねで、少しだけ、自分のメンタルヘルスを救済できている気がするのです。

この小さな安心感が「気のせい」ではないことを祈ります。

(2022年1月19日後記:

2021年後半から2022年前半にかけて、もう一つ、私が障害を偽装しているという噂やデマを流したり、私の目につくところに詐病がどうとかいう文言を見せつけることが行われていました。それぞれは私と無関係に行われたと言い張れる範囲ですが、いざとなったら本当に無関係かどうか示してもらわなきゃね。最初の種火となったのは、私が有力精神障害者グループを批判したことです。よくあること。もしも、そのデマを真実ということにして私を社会的に葬ることに成功したら、自分たちの大小さまざまな悪事や都合の悪い事実を無かったことにできてホッとする人が数十人、その人たちに同調していたので同じくホッとする人が数百人はいそうです。が、その人々がどう思うかと無関係に、私の障害はあります。電動車椅子がなければ生きていけず、メンタルヘルスはギリギリの綱渡りを続けていることに変わりありません。精査すれば、そのことが出てくるだけなので。ジワジワですけど悪化はしてるし、悪あがきの数々にもかかわらず生活面の支障は増えてるので、主治医と「精密検査しなきゃ」と言い合って数年経過してる気がします。でも、新型コロナ前は私が出張出張また出張、コロナ禍のもとでは差し迫ってない症状のために検査入院するのは難しく延び延びなんです。困ってるので、いずれは検査するでしょう)



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