見出し画像

三宅雪子さん、ありがとう

 元衆議院議員の三宅雪子さんが2020年1月2日に亡くなられていたこと、しかも入水自殺である可能性が高いことを、本日1月6日の報道で知りました。ただ驚き、衝撃を受けています。三宅さん、どうして? 何があったんですか?

(後記:その後の報道で、1月2日はご遺体が発見された日であること、12月31日には亡くなられていた可能性が高いことを知りましたが、1月6日に書いた本記事の内容はこのままにしておきます)

 私は自分のスマホを見つめました。三宅さんに電話をかけてみることはできます。携帯番号が保存されていますから。「三宅さんご本人は決して出ない」とわかっていますが、「この番号が三宅さんのものである間に」と電話してみました。案の定、留守電サービスに回されたので、聴かれるであろう身内の方々のご負担を考え、ごく短いメッセージを吹き込みました。三宅さん、聴いてますよね?

三宅雪子さんとの出会い

 三宅さんと出会ったのは、ツイッターでのことでした。衆院議員だった三宅さんが議場での揉み合いで転倒して負傷され、車椅子に乗せられていたり(議場から治療のために退出する時だけだったか)、その後しばらく杖をつかれたりしていた時でした。

 ネット空間には、「車椅子はパフォーマンス」だとか、「杖が本当は不要なのに使って見せている」とか、よくある中傷が溢れました。本物の車椅子ユーザである私にとっては、「何というバカなことを」、以上。脚を負傷し、負傷の程度がよくわかっていないのであれば、脚への荷重は避けるべき。車椅子は合理的判断です。本人が「負傷していない」と思っている側も含めて、の話です。数カ所を負傷した場合、本人にとっては一番痛いところだけが目立って感じられるものです。また、負傷した側をかばう動作で無事な部分まで傷めることもあります。だから、「診察を受けて診断がつくまでは車椅子」が、むしろ好ましいのです。

「これは放っておいたらまずい」と思ったのは、国会で杖をついていた時のことです。三宅さんは、負傷していない脚の側(健側)と同じ側の手に杖をついておられたのです。ネット世論には「だから負傷はウソに決まっている」という意見が溢れました。私は唖然としました。片脚を負傷して杖を一本だけ使う場合、健側で使うものなんです。それは、三宅さんが負傷を偽装している証拠ではなく、むしろ本当である証拠であり、まっとうな整形外科医にかかっている証拠でもありました。

 私がそういう内容をツイートしていたところ、三宅さんご自身からツイッターのDMでご連絡があり、フォローしあう関係となりました。改めて日付をたどってみると、三宅さんの負傷は2010年、ツイッターの今は使っていないアカウントでつながったのは2010年か2011年のことでした。かれこれ10年間、ゆるく薄くつながっていたことになります。
 つながりの手段は、ツイッターのDMと電話でした。リアルでお目にかかったことはありません。

重なってゆく関心

 私は2011年末、それまでの科学技術専業ライターから一歩踏み出し、現在も続く”vulnerable” な人々と災害への関心を記事化しはじめました(当該記事1当該記事2)。その流れの上に、2012年に開始されて現在も続く連載『生活保護のリアル』(第1・第2シリーズ第3シリーズ)があります。

 なお脱線ですが、"vulnerable"そのものに該当する日本語はありません。「傷つきやすさ」「脆弱さ」などの日本語訳はありますが、たとえば「傷つきやすい人々」「脆弱な人々」というと「強くしなきゃ」「回復力を高めなくちゃ」と本人自己責任論の方向に理解されがちなんですよね。そうなってから「そうじゃない」と言葉を尽くしても無駄。なので近年は読みそのままの「ヴァルネラブル」で定着してしまっているようです。

 社会保障や社会福祉そのものに見えることも多いテーマを私が書くようになった経緯に、三宅さんは全く関係ありません。しかし、ご自身が明かしていらっしゃるとおり、三宅さんには知的障害を持つ弟さんがいらっしゃいます。関心はいつか重なりはじめ、三宅さんは私の記事に関心を寄せてくださるようになりました。また私も、三宅さんを通じて障害児者のきょうだいという存在に意識が向かうようになりました。後年、障害児家族の研究プロジェクトに参加したとき、三宅さんとの緩く薄いつながりが、おそらく私の得たものやアウトプットを少し豊かにしたのではないかと思います。

ジャーナリズムの先輩として

 日本で、一般の書籍や雑誌と科学技術系の図書や雑誌は、もともと完全な別世界に近いほど分かれていました。最近は「本や雑誌や媒体にお金を払ってくれる読者さん」というパイが激しく縮小するのに伴い、重なりやシナジーも生まれてきていますけれども、私は2011年末まで科学技術系の世界にだけ住んでいたライターでした。それが『生活保護のリアル』シリーズを通じて、いつの間にか他人さまに「ジャーナリスト」と呼ばれるようになっていたのです。慌てました。そんな自覚ありませんでしたから。

 自分がジャーナリストであるという自覚もないヨチヨチジャーナリストだった私に、三宅さんはさまざまな叱咤激励をしてくださいました。仕事上の利害関係はまったくない「斜め上」の女性の先輩がいるということ(年齢は私の方が2つ上ですが)、どれほど心強かったでしょうか。

 2017年から2018年にかけ、私はオーサーを務めていた「Yahoo!ニュース個人」編集部からさまざまなことをされ、2018年10月末に契約を解除されました。前兆のもろもろは2016年にはありましたから、足掛け3年ということになります。その期間、未だに「さまざまなこと」としか書けないほどのことが「いろいろ」ありました。私自身は、むしろ「辞めたい」と思い、辞め時を図っていました。しかし、自発的に辞めるわけにはいかない状況に追い込まれ、ボロボロになりました。同編集部に対する点数稼ぎ的なことをする他のオーサーもいましたし、私がボロボロになっているスキを狙って私の無力化を図る同業者もいました。また、そのような状況につけこんで私を操縦したり利用したりしようとする人々も次々に現れました。面倒な障害者の話し相手を押し付けようとしたり、私の記事に自分の表現を紛れ込ませようとしたり……。「Yahoo!ニュース個人」を離れて1年以上が経過した現在も、それらのトラブルの影響は未だに小さくありません。

 私は三宅さんと違い、黙って頑張ったりガマンしたりせず、簡単に「死にたい」と絶叫します。当時の私には、「理不尽な目に自分が遭うのは、自分が生きていることが誤りだから。せめてこの誤りを消そう。ついては死ななくちゃ。もしも相手が誤っているのだとしても、相手が協力すぎるから相手を消すことはできない。自分を消すしかない」と考える癖がありました。被虐待経験やDV被害経験を持つ人によくあるパターンです。Yahoo!ニュース個人の件は、私自身がその癖から自由になる契機となりました。しかし当時の私はまだ、巻き込まれた渦中で自分をさらに苦しめ、結果として自分へのさらなる攻撃を誘発していました。

 そういう時、三宅さんはしばしば電話を下さいました。お出かけ前の3分間や5分間のこともありました。三宅さんは、私のツイートに危機的なものを感じられたのでしょう。そして、ちょっとした会話が人を危機から救うことを良くご存知だったのでしょう。三宅さんは、私が現在進行中のトラウマや失いつつあるものにとらわれずに次のステップに進めるよう、さまざまなアドバイスをしてくださいました。だから、多大なダメージを背負いながらも、まだボチボチ歩みを止めずに前に進んでいる現在の私がいて、2017年には9歳・1歳・0歳だった3匹の猫が今日は11歳・3歳・2歳となり、私のもとで伸び伸びと過ごしているわけです。

 電話の向こうの三宅さんの熱い思いのこもった声、決して忘れません。まだ音声ファイルが残っているなら探し出し、誤って消したりしないように大事に保存しなくちゃ。

実現しなかった夢の数々

 それにしても惜しまれるのは、電話の向こうで語られた三宅さんの夢や計画の数々が、実現しないまま終わってしまったことです。政界復帰以外にも、たくさんあったのに。

 三宅さん、本当に死にたいほどしんどい時、なぜ私に電話くださらなかったんですか。3分や5分とは言いません。30分や50分はお付き合いしたのに。何回も電話いただいて助けられたご恩を返したかったのに。なんなら、頑張ってお住まいの近くまで伺って女子会でも……一度はしたかったですね。私のホームタウン・西荻窪での女子会は、三宅さんとの実現しなかった計画の一つです。
 亡くなられた1月2日、私は古い友人と家飲み女子会をしてました。もしも突如、三宅さんからお電話があって「これから行ってもいい?」と言われたら大歓迎だったのに。ウチの3匹の猫たちは、電話の向こうから聞こえてくる三宅さんの声に馴染んでいました。猫たちも歓迎したはずです。

三宅さん、ありがとう

 三宅雪子さん、あなたに出会えたことに感謝します。
 ご生前に頂いた、小さいけれども熱くて思いの詰まったご厚意の数々に感謝します。
 ただ、安らかにお眠りください。
 いつか私がそちらに行ったら、ぜひ、女子会しましょう。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。