見出し画像

なんでもない。

かつて私は大切なものを
ある男に譲ってしまった。

その時はわからなかったが、
後になって、
それは私にとってかけがえのない
大切なものだったと気がついた。

その大切なものとは、
「ある体験」だ。

人類は進化し、
「体験」という情報を
他人に転送するすべを持った。

それを私は
売ってしまったのだ。

男は、
体験のコレクターで
あらゆる体験を収集している。

これを買い戻すことはできない。

その体験を取り返す唯一の方法は、

その男が提示した体験を
自ら新たに体験し、
交換するしかなかった。

私は数年がかりで、
その体験をようやく手に入れ、

今、男の前に立っている。

「お待ちしておりました。
それでは交換しましょう。」

いよいよ体験の転送が行われる。

私の中に、
忘れていた体験が取り戻された。

口の中に広がる
優しい甘み。

古びた電信柱、
そこを曲がれば見慣れた路地裏、

どこからかカレーの匂い、
故郷の懐かしい景色が脳裏に蘇る。

夕暮れ、
6時を知らせる童謡の放送が
町に反響している。

お母さんがよく買っていた大福。

なんでもない大福を頬張る私。

夕食前に時々、
なんでもない大福を頬張る私。

大福の味。

なんでもない体験。

なんでもない体験は、
お母さんとの思い出だった。

「いやあ、お気に入りの体験だったんですが……。
でも、仕方ありません。
何しろあなたが数年かけて
新たな体験を
持ってきてくれたのですから。
これはこれで貴重ですからね。」

数年かけて手に入れた体験は
すっぽりと私の中から
抜け落ちていたが、

あんこの優しい味だけを
私は
いつまでも記憶の中でかみしめていた。

(おわり)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


数年かけた体験とは
なんだったのか?
想像してみた。

彼女は世界の裏側で大福と
世界を獲ることを夢見ていた。
サンバを踊りながら。

陽気な体験(笑)


(あとがき)
以前にInstagramで募集した
読み切り小説「テーマ」の回答で、
「和菓子」「自由」といただいた。

そこから生まれた作品。

#短編小説 #体験 #大福

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?