徒然英文法:「5文型」について (On Five Sentence Patterns)
先々週、山根あきらさんより、英文法のアスペクト(相)についてお題を頂いた(と勝手に受け取ってしまった笑)。ぜひ自分なりの解答をお示ししたいと思っていたが、アスペクトを書き出す前に前提問題を、などとダラダラとドラフトを書いているうちに、山根さんは5文型についてのエッセイを公表された。
これまた、読み応えのあるエッセイである上に、「結局は文法を理解したほうがコスパがいいのだ。」という一文はまさに「我が意を得たり」だったので、まずは前提問題としての5文型から「エッセイ風」に書いてみることにした。ただ、アスペクトとの関係で私は英語を教えながらも、第2文型(S+V+C)については未だ疑問が解消できていない点がある。そこで、以下は第3文型を中心に「つれづれに」5文型を考えてみたい。
⑴ 5文型、あるいは「述語動詞の類型」
5文型というのは、とかく日本の英語教育における「悪の権化」として攻撃対象になり易い。けれども、一億国民に向けて「(社会資本であるはずの)英文法をこわす」などと平気な顔でノタマわるスットコドッコイな英語学者の出現を目の当たりにして「英文法を護持する」ことに後半生のエネルギーの一部を費やす覚悟を固めている筆者からすれば、「5文型論」こそは何としても固守すべき橋頭堡(ブリッジヘッド)なのである。
もっとも、C.T. Onionsが5文型論を世に問うたのは、日露開戦前夜の1903年。いかにも古い!(笑)かく言う筆者も現役英語講師の頃には、7文型(Quirkらが1985年に提唱し、英語学・辞書学の大家であられる故小西友七先生が編纂されたGeniusなどの辞書にも使われていた)やらHornbyの25文型などにも浮気をしそうになったが、述語動詞の類型を増やしてみても、いたずらに生徒を悩ませるだけだと悟るに至った。今は3文型プラス2(SVOO、SVOCは、第3文型の変則型と捉える)の5文型で指導している。
⑵ 5文型は「非英語話者が英文の構造を理解するためのツール」である
さて、5文型に対するこれまたトンチンカンな批判として「ネイティブ(英語国民・英語話者)に5文型の話をしても通じない」というものがある。ネイティブすら知らない5文型などという概念をこねくり回しているから英語が話せないのだ、という事をおっしゃりたいらしい。
しかし、読者の皆さんの多くは日本語話者(日本語ネイティブ)であると拝察するが、それでは外国人が学ぶ日本語文法に「動詞の3グループ」という文法用語があるのをご存じだろうか?日本語教師の勉強をしたことがある方でもなければ、動詞の3グループという文法用語を説明できる人はまずいないだろう。
そう。お察しのとおり、われわれ日本人が英文法で「5文型」を覚えるように、外国人が日本語をマスターするためには「日本語の動詞の3グループ」を覚えてもらわなければならない。したがって、遊び半分ではなく、キッチリ日本語を学ぼうとする外国人は、自分が使おうとしている動詞が「第何グループ」に属するかを意識する。
一方、我々日本人は「動詞の3グループ」などというケッタイな文法用語を知らなくとも、問題なく日本語を話すことができる。
当たり前だ。母語話者だからである。
しかし、母語話者には息をするように当たり前のルールでも、非母語話者には然るべき文法体系に基づいて一定の文法ルールを覚えてもらうのが最も効率的であることは、学問的にも、大多数の外国語修得者の経験としても常識に属するマターである。そのような常識を踏まえない5文型批判はトンチンカンだと言うほかないのである。
⑶「何が、どうする、何を」が英語の心
ところで、日本の学校でならう国文法の「文の構造」(主語・述語関係)は以下の3種類である。
※この他、「何が ある、いる」も含めて4種類と
数えても良いが、本稿では含めない。
私は「言語学」について人様に語れるほどの素養を持ち合わせていないが、動作や状況を説明する構文というものは(経験的に)どの言語にもあるのではないかと推察する。自分の動作や状態を相手に説明できなければコミュニケーションそのものが成り立たないからである。
だから、国文法の3類型も、
英語の第1文型にあたる「何が どうする」 と
第2文型にあたる「何が どんなだ」「何が 何だ」
で構成される。
しかし日本語にはなくて英語にあるのが、
の第3文型の<ロジック>である(と私は考える)。
もちろん、英語の第3文型にあたる
She can speak Chinese.
のような文を「彼女は中国語を話せる」と翻訳する日本語表現はあるにはある。
しかし、それは「そういう言い方をする事もできる」というだけであって、日本語のロジックの中にS+V+Oの構文が必然的に組み込まれ、それが無いとそもそも当該言語を論理的に使いこなすことができない、といった種類のものではない。
たとえば、
のように、「目的語」=「動作対象となる語句」が何なのかを即座に判別できないような日常会話が普通に繰り広げられるのが日本語である。
これに対して、しばしば指摘されるとおり、英語で最も多用されるのはS+V+Oの第3文型である。
つまり、目的語を取る動詞が圧倒的に多いのである。(一説には、英語の動詞の約80%は第3文型を取り得るという。)これは一体何を意味するのか?
長くなってしまったので、結論は次稿に回すが、昔、とある英語の達人のお師匠さま(中学校の英語の先生だったはず)が「英語は結局、『何が どうする 何を』なのだ!」ということをいつも強調されていた、という話を何かの本で読んだ記憶がある。同時通訳者の國弘正雄氏の著書だった気がするのだが、該当部分がどうしても見当たらない。したがって、どなたの言葉であったかをご紹介できないのだが、それでも、
ことを端的に示された上記の先達の言葉には、文科省が一部学者(業者?)と結託して強引に推し進めようとしている「コミュニケーション英語」などからは、到底学ぶことのできない深い真理が含まれているように思われる。
(この稿、続きます。)