映画感想『グッバイ・リチャード』残りの生き方は自分で決める
お久しぶりです。
最近はマーベルやDCなど視覚的に面白い作品を見ていたので記事にしていませんでした。
久しぶりに記事にしたくなった映画をご紹介します。
あらすじ
大学で英文学を教えているリチャード(ジョニー・デップ)は肺がんで余命半年の宣告を受けてしまう。
家族に伝えようとしたところ、娘にはレズビアンをカミングアウトされ、妻には不倫を告白されてしまう。しかも相手は学長。
結局、余命宣告の話は出来ずじまい。
余命が少なく自暴自棄になったリチャードは今までの人生を振り返り、大人しく生きることをやめ、自由に生きることを決めます。
妻の不倫を認める代わりに自分も自由恋愛をし、がんに犯されているにもかかわらず酒浸りになりタバコを吸いマリファナも使う。
持っていた英文学の授業も「最低評価はやるから、やる気のないやつはすぐ出ていけ」と言い放ち、残った生徒で少数授業をする。
今まで真面目に無難に生きてきた人生に最後に抗おうとする物語。
↓ここからネタバレを含みます ご注意ください!!! ↓
感想
私はかつて病気になって手術したこともあって、
「生きるとは」「人生とは」「生きがいとは」とよく考えるのでこういう映画をよく見ます。
『グッバイ・リチャード』はずっと気になっていたのでようやく見れました。
重くなりがちなテーマですが、ジョニー・デップの演技もあってかあまり重くなり過ぎず、
90分という短い作品ながらもコンパクトにまとめられており、比較的軽く鑑賞できる映画です。
こういう映画で涙しなかったのは初めてかもしれません。笑
この作品は家族・親友・同僚・生徒に向けてのメッセージが込められています。
余命宣告されたリチャードが自由を謳歌するなかで、
残される彼ら、特に若い世代に
「自分のようになってほしくない」とメッセージが込められています。
なので名言がたくさんありました。
生徒へ
リチャードは英文学を本気でやる気のない大半の生徒たちを追い出し、
残った生徒たちとはバーに行ったり、飲みながら授業をしたり、「模範的」な生徒に対してはキツイ講評をしたり、講義というよりはほぼゼミ状態になった授業でやりたい放題し始めます。
そんなリチャードに生徒たちは次第に心を開き始め、交流(意味深)を持つようになります。
この作品はさまざまなメッセージが込められていますが、
特に生徒たちへのメッセージがどれも印象的でした。
残った生徒たちをバーに誘い、飲みながらリチャードはこう言います。
『存在するのではなく、生きるんだ』
無難に生きてきたリチャードの反省が伺えます。
彼は大学教授というポジション、美しい妻、可愛い娘と犬に囲まれ、絵に描いたような何不自由ない生活をしていました。
理想的と言ってもいいでしょう。
大学の授業が満席だったことを踏まえると、教授としても悪くない先生だったのだと思います。
自分らしく生きろとはよく言いますが、
「存在するだけでなく」といわれてしまえば、まさしく現代人はそのとおりだと思います。
目的を持って生きられればいいですが、日々目の前のことに忙殺される現代人には本当に難しい。
もがいて、失敗して、正面からぶつかって、なんてもっと難しい。
だって世の中、失敗した人や「普通」から外れた人にあまりにも厳しいから。
チャレンジしないと成功しないけど、現代はあまりにリスクが大きすぎる。
特に私たちの世代は「自業自得論」が蔓延しています。
行政のセーフティーネットだって、自分を掬いあげてくれるかわからない。
チャレンジするにはあまりに心もとない。
でもだからこそ、行動すること自体がすごいことで、尊いのかもしれません。
それは「存在している」だけではないのですから。
最後の授業で彼は生徒たちにこう言います。
凡庸に生きてきたリチャード先生のお言葉が重い。
凡庸に生きないことは、孤独との闘いだということが示唆されているのが良かったです。
人と違う道って本当に孤独です。
いわゆる一般的な「普通」の人に擬態することの方が遥に楽なんですよね。
余命宣告を受けたある意味”凡庸ではない”孤独なリチャードが残そうとしたメッセージは、
自分の意志で生き、孤独に打ち勝ちつことがやがて世界への貢献になる
ということでした。
これって社会貢献性についての言及なのかなと思いました。
自分のやりたいことをやれというと利己的に思われるかもしれないけれど、
孤独に打ち勝ち出来上がった「何か」はやがて世界のためになる、
ということを伝えたかったのかなと思いました。
私も「世の中に何も残せないまま死ぬのか・・・」と思っていた時期があるので、
生きた証を残せるかどうかはリチャードにとってとても重要だったのかなと思います。
前途有望な若者たちへの「生き方」のメッセージでした。
親友と同僚へ
リチャードは妻同伴で学長主催のパーティに招かれ、何も知らない学長はリチャードに嫌がらせをします。
そんななかリチャードは最後にみんなに別れのスピーチをします。
嫌がらせをされたリチャードは最後に仕返しをすることなく、
「善く」生きることをみんなに説きます。
学長に対する最大の皮肉のようで、仕返しするよりスッキリしました。
リチャードは自分の死を告白し、死についてストレートに語ります。
死を常に意識しながら精一杯生きることで、人生は素晴らしいものになると伝えました。
パーティは大学教授たちが出席しているので、平均年齢は高めでした。
つまりそれは、近い将来彼らにもやってくる「終わり方」のメッセージでした。
学生たちへのメッセージとは対照的といえます。
「善く」生きるとはなんなのか。
「善い」死に方とは。
私の学生時代の先輩が
「バイトであまりに理不尽な仕打ちを受けた時は『いい死に方ができると思うなよ』と思うことにしている」
と言っていたことを思い出しました。笑
これはまぁ極端な例としても、
この世にはあまりに理不尽で不条理なことが多い。
だからせめて、善い人であった人には、善い死に方をしてもらいたいと思ってしまいます。
例えばリチャードにとっての親友がそうだったように。
最後に
リチャードは最後に娘に「お前はそのままでいい」と告げて、犬と共に旅に出ます。
最後の終わりまでリチャードは自分の道を行くと言うことが示唆されるエンディングでよかったです。
死を受け入れる過程の映画はたくさんありますが、多くは「今を大切に生きる」ことに集約されると思います。
この映画もその一つです。
凡庸に屈せず生きることと、大切に生きて死ぬことの2つの側面からのメッセージがある映画でした。
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